新生とともにクリスチャンの肉(生まれながらの性質)に起きる変化は、復活も、聖化も、すべて「法的」であり、「実際的」ではない。
聖書に「クリスチャンになったら生まれながらの性質は『実際的に』変えられ、聖くなった」と記されていない。
クリスチャンになる前と変わりなく、「肉の思いは死」である。
クリスチャンのからだは、依然として「死のからだ」である。
では、クリスチャンになって依存症を断ち切ることができたとか、性質が変わった、人が優しくなった、明るくなった、などの変化は、何によって起きるのだろうか。
それは「聖霊による」。
クリスチャンになると、御霊が与えられる。
この御霊が、われわれの肉の性質を「抑制する」。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(ローマ8・13)
御霊が働くと「からだの行い」は殺される。
ノンクリスチャンの時に行っていたことができなくなる。
邪悪な欲望が発現しなくなる。
しかし、肉そのものは依然として「死のからだ」であり、「肉の思いは死」なのであるから、御霊の働きが低下すると、「地の部分」が出てくる。
あまり祈っておらず、神との会話が少ないクリスチャンは、わがままを抑制できない。
「私は実際に復活し、変えられ、聖人になったので御霊なしでも罪人ではない」という人は、究極の傲慢である。
神は、彼または彼女をへりくだりに導くために、抑制の恵みを差し控え、あえてひどい罪を犯すことを許容されるかもしれない。
御霊が働かないときに、自分が何をするか、御霊がいない自分がどのような存在であるかを、自覚させられる。
そのとき、その傲慢なクリスチャンは「ああ、やっぱり自分の肉は変わっていなかったのだ!」と思うだろう。
パウロが「私はみじめな人間です」と告白したのは、「私の地の部分(本質)は、みじめな罪人に過ぎない」ということを、何らかの経験を通じて、深く自覚させられたからだろう。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5・3)
ここで「貧しい」と訳されている言葉πτωχοsは、
(of one who crouches and cowers, hence) beggarly, poor
(身をかがめ、萎縮する人)乞食のような、貧しい
https://biblehub.com/...
という意味である。
HELPS Word-studiesによると、
ptoxos (from ptosso, "to crouch or cower like a beggar"),properly, bent over; (figuratively) deeply destitute, completely lacking resources (earthly wealth) , i.e. helpless as a beggar.
ptoxos(「乞食のようにかがみ、萎縮すること」を意味するptossoに由来)―正確には、腰が曲がっている。(比喩的に)ひどく貧しく、完全に資源(世俗的な富)を欠いている―つまり、乞食のように無力な。
https://biblehub.com/...
「天の御国」は誰のものか。
イエスは、「心の貧しい者」のものであると言われた。
心の貧しい者とは、どのような人か。
心において乞食のような人。
霊的に破産状態にあり、無一文で、うちひしがれ、腰を曲げ、身をかがめて歩き、萎縮し、無力な者。
自分のうちに頼るもの、誇れるものが何もない人。
このような人こそが、御国の住民になれる。
生来の自分が「徹底した堕落の中にある罪人」であることを自覚していない人は、入ることができない。
自分のからだが「死のからだ」であることを自覚していない人は、天国に行けない。
パウロと同じように、「私は、ほんとうにみじめな人間です」(ローマ7・24)と告白できないような人は、地獄行きである。
「イエスを信じて新生したから私は『法的だけではなく、実際的にも』罪人ではない」というような人は、永遠の刑罰を受ける。
われわれが罪人でなくなるのは、「実際的な」復活が起きるときである。
この罪のからだを脱ぎ捨てて、御霊のからだを与えられるときに、完全に罪から解放される。
そのときまで、われわれは、この忌まわしい「死のからだ」と付き合わなければならない。