1.

このメール主は、私が出身大学の著名人として名簿に載っていたと伝えてきた。

その後「先生はすごいですね」と言ったので、私が「私はゴミのような人間です」と答えた。

すると、猛然と「そんな信仰のないことを言って何ですか」的なメールが返ってきた。

私は驚いた。

クリスチャンは全員「自分をゴミと考えているはず」と思っていたので。

このような認識は「基本中の基本」である。

「クリスチャンは、自分の生まれながらの性質は罪に染まっているが、法的にイエス・キリストの義を転嫁されて聖人となった」というのは、教会の洗礼準備会で教えられるレベルの教理である。

だから、クリスチャン、とくに私のホームページを読んでいる人なら「生まれながらの自分はゴミである」と告白できるはずと思っていた。

そうじゃないのである。本当にびっくりした。

2.

「ゴミのような人間」といっても、もちろん「人間の間で」ではない。

「神の御前で」である。

人間の間では、私はゴミではない。

人々と比較して、とりわけ劣っているわけではない。

むしろ、英語、ロシア語は自由に使いこなせるし、ギリシャ語、ヘブライ語は不自由なく利用でき、中国語も話せる。

コンピュータ言語は、4言語を習得し、コンピュータにやらせたいことを、自由にやらせることができる。

たえず努力し、旅行とYouTube以外の娯楽、レジャーやバカンスにまったく興味がない。

なぜ人々がハワイ旅行に行くのかわからない。太平洋戦争の歴史を記念する場所を巡るツアーなら参加したいが。

暇があれば、読書し、思索し、相場の練習をしている。

3.

誰でも「神の御前で自分をゴミと認識しない」人は、傲慢である。

カルヴァンは、「パウロは人間の間では聖人かもしれないが、神の御前では一匹の獣に過ぎない」と言った。

われわれの基準は「神に対してどうか」なのである。「人間に対して」ではない。

思考回路は、神中心に回っている。

「人間がどう思うか」などどうでもいいことである。

人間が何をしても「髪の毛の一本も白くも黒くもできない」とイエスは言われた。

われわれの運命、幸不幸、成功失敗は、ことごとく神の手に握られている。

これが、クリスチャンの共通認識のはずである。

「自分は神の御前にどう見られているか」こそが重要であり、「人間がどう見るか」などまったく関係ない。

自分の名誉が著しく汚されたと言って騒ぐのはむなしい。

神が名誉を回復してくださる。もちろん、もし自分に非がなければ、の話だが。

よく新興宗教の教祖が、〇〇大学の名誉博士号を取ったと自慢しているが、博士号を持っているかどうかなど、われわれにとって何の意味もない。

私がある牧師に再建主義について説明したところ、「あなたは、アメリカの神学校を出ないと聞いてもらえないですよ」と言われた。

学問的な権威をちらつかせないと広まらない教えなど、まがいもの、あだ花である。

真理は、それ自体で力があるから、人間の権威を利用せずとも広まる。

もっとも、私は、学歴や学位がまったく無意味だと言おうとしていない。

人々の判断を助ける一つの指標としては有効な場合があるから。

しかし、それがすべて、ではない。

4.

経歴は、「判断力のない人向け」である。

判断力がある人は、経歴に頼らずに、話している内容そのものを評価できる。

話している相手がどのレベルの実力かも見抜ける。

判断力がある人は、普段からよくものを考えている。

しかし、判断力がない人は、他人の判断に頼り、影響されるので、話の内容だけでは足りない。

経歴を見ないと安心できない。

こういった人々は、騙されやすい。

有名大学卒業という経歴をちらつかせたり、高価な車や住居を見せつければ付いてくる。

逆に、判断力が優れている人は、人が経歴を示しても「必ずしも自慢しているわけではない」と考える。

立派な家や高価な持ち物を所有しているだけで「不信仰だ」とも考えない。

なぜならば「それは本人の自由であって、どのような持ち物を持とうが関係ない」と考えられるからである。

私は住居や着る物、車などにこだわらないが、快適な生活は望んでいる。

判断力のない人の中には、「牧師がゴルフをするなど間違っている」と言う人がいる。

ゴルフは単なるスポーツである。

牧師がどんなスポーツをしようが勝手である。

教会堂がどんなに貧相でも、判断力のある人はそれをもってその牧師を評価しない。

逆に教会堂がどんなに立派でも、それで牧師を評価しない。

教えである!!!

何を教えているか!!!

そして、罪に対してどのような対応をしているか。

「平気で不法を行う者」は、牧師として失格である。

なぜならば、イエスは「不法をなす者ども。私とあなたとは関係がない」と言われたからである。

それ以外は、どうでもいい。

ロレックスの時計をしている牧師を見て、躓く人は、その躓く人の「審美眼」が狂っているのであって、牧師には何も問題はない。

5.

クリスチャンは、世界の王であり、世界を動かす財力を身につけるべきである。

だから、貧乏を誇りにしてはならない。

私は、英語とロシア語の教師として長年教えてきたし、翻訳も25年の経験がある。コンピュータ・プログラミングもできるから、仕事を探せば簡単に見つかる。

実際、いろんな翻訳会社から依頼が今でも頻繁にくる。

本来、お金には困らない。

私は仕方なく貧乏しているわけではない。

世俗の仕事は自分の使命ではないのである。

だから、余暇を研究に使ってきた。

6.

クリスチャンが「私はゴミだ」と言った場合、それは「神に対して」であって、「人間に対してではない」。

クリスチャンは、人に対して引け目を感じる必要はまったくない。

「ゴミだ」という言葉に異様な反応を示すのは、そもそも、人間に目を留めているからではないのか。

神を見上げよう。

そうすれば、自分がゴミのような人間であることを悟るだろう。