聖書は明確に、生来の自分は、無罪化されておらず、死をもたらすと教えている。
そして、クリスチャンを生かすのは、もっぱら御霊のみと教えている。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
肉にある者は神を喜ばせることができません。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(ローマ8・6-13)
1.
「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています」
パウロは、クリスチャンの「からだは罪のゆえに死んでい」ると言う。
クリスチャンのからだ、つまり、「生まれながらの自分」は、「死体」である。
人間はアダムにあって死んでいる。
クリスチャンの「肉の思いは死」である。
生まれながらの自分が考えること、行うことは、邪悪である。
それゆえに、神の裁きに値する。
しかし、クリスチャンがなぜ生きることができるかというと「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられる」からである。
だから、われわれは、自分を誇ることができないのである。
われわれの生来の性質は、死しか生まないからである。
われわれにとって誇るべきことがあるとすれば、それはイエスを信じたときに与えられた御霊だけである。
2.
この箇所のどこにおいても、「クリスチャンになったら生来の自分(肉/からだ)は、聖められ、無罪化された」と記されていない。
生来の自分は、依然として「死」である。
クリスチャンの中で自分を生かす要素は、御霊オンリーである。
御霊だけがわれわれにとって、命である。
3.
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
むなしいプライド、邪悪な欲望、そういう肉に属するものに従って生きるなら、われわれは死ぬ。
しかし、御霊によって支配され、からだの行いを殺すならば、生きる。
聖書の明確な教えを否定し、自分のむなしいプライドを満足させるような異端の教えを選択すれば、死ぬのである。