1.

ある人から、「自分を罪人とする私の文章を読み進めることができない」というメールが来た。

クリスチャンは、自分を罪人として認めるべきではないと。


ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18・13)


イエスは、自分を「罪人」と呼ぶ取税人の祈りをよしとされた。イエスは間違いを犯したのか。


「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(1テモテ1・15)


パウロはすでに救いにあずかっている自分を「罪人のかしら」と呼んでいるが、パウロは間違ったことを言ったのか。


そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。(マタイ18・21-22)


「兄弟」とはクリスチャンのことである。

「罪を犯した場合」とあるので、クリスチャンは罪を犯すと言われている。

これは、クリスチャンが罪人である証拠であると考えるが、どうなのか。

もし罪人でなければ、罪を犯さないはずである。

私が「自分は罪人である」と告白して何が問題なのか。

2.

私は、このサイトで、何度も「法的」と「実際的」の区別をするように伝えてきた。

クリスチャンは、イエスにあって「法的に聖人」であるが、「実際的には罪人」である。

「実際的な(存在論的な)罪人」である事実を無視する人は、偽善者である。

このメール主は「私も時々罪を犯します」と告白した。

たとえ「時々」でも「罪を犯す人」は罪人である。

3.

自分を罪人認めない教えは、異端である。