1.
私は、自分はゴミのような人間であると考えている。
それに対して「信仰がない」という批判を受けたので説明する。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7・24)
パウロは、自分に絶望していた。
「私は、ほんとうにみじめな人間です」と告白した。
自分は「死のからだ」を持っていると。
彼は自分の受けた教育、当時のエリートだったパリサイ人であること、などを糞土のように思っていると述べた。
もしクリスチャンと自称する人で、自分の生まれながらの才能、品性、育ち、教育、持ち物、財産などを誇っている人がいるとすれば、そのような人に私は言いたい。
「絶望が足りない」と。
2.
クリスチャンは2つの部分に分かれる。
肉の部分と霊の部分。
肉の部分とは、生まれながらのもの、神と無関係に得たものである。
自分の力、才能、・・・
こういうものに自信を持ち、信頼を置いているとすれば、それは、呪いのもとである。
主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。(エレミヤ17・5)
ソ連という国は、神を否定し、人間の力だけでやってみた国である。
見事に70年で失敗した。
聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。
あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。
むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。(ヤコブ4・13-16)
「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
「主のみこころなら」と言わない商売は、傲慢であり、悪である。
「神なんて関係ない。神を信じる人は弱い。俺は、神に頼らずに会社をここまで大きくした」という人は、神には一晩で会社を破滅させる権威があることを知らない。
こういう傲慢を許されてきたということそのものが呪いである。
神の抑制の恵みを受けてこなかったのである。
自我が肥大化し、それが天にまで届くようになっている。
バベルの塔の小型版である。
肉の部分だけで成功することができた人々に私は憐憫の情を抱く。
なぜならば、破滅は避けられないから。
高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(箴言16・18)
神なしでうまくやってきたのは、抑制の恵みを受けてこなかったからである。
傲慢を放置されたからである。
クリスチャンになったら、逐一、神の干渉が入る。
人を見下したら、見下される。
権威に逆らうと、下のものから反抗を受ける。
人に害を与えたら、誰かから害を受ける。
こういうフィードバックによって、徐々に心が整えられ、キリストの姿に近づいていく。
これは、訓練である。
もし、あなたがこのような訓練を受けていなければ、自分が救われているかどうか疑ったほうがいい。
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。(ヘブル12・7)
パウロは、自分の生来のものや、神によらないで得たものについて、頼りにならないということをいやというほど体験によって学んだ。
これが、神の訓練の成果である。
神は肉に絶望するように導かれる。
3.
われわれは、霊の部分において誇るべきである。
霊の部分とは、聖霊に由来するもの、神によって与えられたもの。
私は、高校時代に、テストで必ず90点以上取る技術を身につけた。
コツは、
(1)予習をきちんとする。虎の巻を利用して教科書の内容チェック問題をすべて解く。
(2)授業を一言も聞き逃さないように集中して受ける。
(3)復習時に、カードを作り、問題形式で授業の要点をまとめる。
(4)そのカードの書かれた問題を何度も自分で解いて、知識が完全になるまで繰り返す。
(5)市販の問題集で知識の補強をする。
これをやれば学年トップになれる。
就職したときに、自分には自信があった。
このときの要領で成績優秀者になれると思った。
残念ながら、オンザジョブトレーナーに変人がついた。
指導者として不向きな人で、やたら怒る。
細かい知識を与えるだけで、実際に仕事をやらせない。
いつまでたっても仕事を覚えないので、ダメ社員扱いされた。
一応本部長付で、将来の幹部候補に選ばれていたので、研修で一年ソ連に派遣されたが、かえってそのせいで、一年分同期に遅れを取った。
帰国後も、自分の能力とは別のところ(つまり人間関係)で妨害が入り、前に進まない。
この体験から、私は、自分の力に徹底的に絶望した。
環境が悪いと、自分の力だけでは何も解決できないと悟った。
しかし、神は別の方法で成功を与えてくださった。
あるとき、社内試験があり、そこで歴代一位の成績を収めた。まったく勉強せず、自信のない状態で受けたのに。
これによって、周囲の目が変わった。
自信がある状態で失敗し、自信がない状態で成功した。
この体験から、私は、すべては神がどう動かれかによって決まると悟った。
4.
神は、肉の部分で絶望を与え、霊の部分で自信をお与えになる。
肉に頼っている間は、半端者である。
本当に訓練された人は、肉において絶望しているはず。
たとえば、自分が義人だと考えている人がいるとしよう。
もし神に愛されている人ならば、神は彼または彼女が、どうしようもない罪の中に落ちることを許し、自分の義に絶望するように導かれるだろう。
自分に能力があると過信している人がいるとしよう。
神は、その人の周りに自分より優秀な人を送り込まれるだろう。
人間に頼っている人がいるとしよう。
神は、その頼っている相手が自分を裏切ることをあえて許されるだろう。
このようにして、神はわれわれの生まれながらのもの、神と無関係に獲得したものへの信頼を破壊される。
自信を徹底して破壊されない限り、人は、神に頼らない。
手練手管で人を救いに導けると考えているようなキリスト教は、絶望が足りないのである。
余裕がある人が、ヴァン・ティル主義者になることはない。
非聖書的な方法を採用して成功してきた人が、再建主義者になることはない。
「キリストがいなければ自分はゴミです」と告白できないようなクリスチャンはクリスチャンではない。