彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒の働き1・4-11)
「イスラエルのために国を再興してくださる」のはいつかと弟子たちは尋ねた。
イエスは、それは「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」とお答えになった。
しかし、イエスは同時にこう言われる。
イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」(マルコ9・1)
たしかに「そのときを知る必要はない」が「イエスと同時代の人々の世代内」であるとわかる。
実際、イエスはマタイ24章でこのように言われた。
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マタイ24・34)
「これらのこと」とは、イエスの再臨の前兆である。
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(マタイ24・3)
イエスの再臨の前兆は、「この時代が過ぎ去らないうちに起きる」と。
ディスペンセーション主義の影響で、今のクリスチャンは、再臨が未来に起きて、御国の到来も未来の出来事だと信じている。
しかし、聖書は、「イエスの再臨は、イエスと同時代に起こり、神の国は、イエスと同時代に力をもって到来する」と明言している。
では、イスラエルのために国を再興するのは、いつか。
もちろん、この「国」とは、「ダビデの王国」である。
なぜならば「再興」だから。
弟子たちは、「栄光のイスラエル王国の再興」を夢見ていた。
彼らの夢はけっして「超民族的」ではなかった。
それは「民族的イスラエル人の」王国の再興であった。
イエスはそれを否定されなかった。
「それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」と言われ、実質的に「是認された」。
民族的イスラエル人の王国は再興されるとイエスはお認めになった。
それゆえ、その国は再興されなければならない。
ディスペンセーション主義によると、それは、1948年に建国されたイスラエルである。
しかし、この国は、このサイトで繰り返し述べてきたように「ルシファーを神とし、ユダヤ人をメシアとする王国」であり、イエスがここで言われた「国」ではない。
今のイスラエル国は、シオニズムというカバラ教によって作られた。
しかも、イエスは「律法と預言者」つまり旧約聖書を成就するために来たと明言されたのであるから、旧約聖書に記された「民族的イスラエル国の再興」預言も、紀元70年までに成就しなければならない。
では、真の民族的イスラエル国とは何か。
私は、日本ではないかと思う。
もちろん、超民族的、普遍的イスラエルとして教会が生まれたことは認めたうえでの話である。
現在、民族、人種を問わず、イエス・キリストを救い主、人生の主、世界の主として礼拝する人は、すべて「イスラエル人」である。
しかし、それだけなのか、と。
あれだけ弟子たちが望んでいた「民族的イスラエルの救い」はそっちのけだったのかと。
イエスは「普遍的イスラエルとしての教会ができたのだから、民族的イスラエル人の国はあきらめなさい」と言われたのかと。
違う。
ピラトに対してイエスはご自身が「ユダヤ人の王」であるとお認めになった。
さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです」と言われた。(マタイ27・11)
十字架上でイエスの頭上には「ユダヤ人の王」との札がかかっていた。
また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。(マタイ27・37)
イエスは「ユダヤ人の王」として誕生された。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ2・2)
イエスの来臨の目的の主要なテーマは、真の「ユダヤ人の王」になることであった。
ダビデは型である。彼は「将来、本当の王が来られる」ことを示す予型である。
イエスは、その成就であり本体である。
それゆえ、神殿崩壊があり、旧約のシステムが終了した紀元70年までに、「イエスを王とする民族的イスラエル」が完成していなければならない。
私は、それがユダヤ人クリスチャンの群れ、初代教会の人々だったと考える。
民族的イスラエルが完成するには、土地が必要である。
彼らは、その土地を求めて日本にやってきた。
もし彼らが、滅亡した非クリスチャンのユダヤ人と同様に、異邦人の間に散ったのであれば、クリスチャンユダヤ人も滅亡した、ということになる。
なぜならば、聖書において土地を失い、異邦人の中に散ることは、呪いだから。
民族的イスラエルが救われるには、一つにまとまらねばならない。
神は、ローマ軍によって破壊されたカナンの地と別に、彼らのために土地を用意された。
それが日本列島だったのではないだろうか。
紀元3世紀に来日した秦氏は、中央アジアの雅馬図という土地からやってきた。
雅馬図は「ヤマト」であり、日本人を意味する「大和」はこれが起源ではないか。
この言葉は、神の民を表すヘブル語「ヤ・ウンモト」から来たのではないか。
そして、このサイトで何度も言っているが、東大名誉教授江上波夫氏によると「紀元2世紀に原始キリスト教徒がやってきた」と。
民族的イスラエルの再興は、日本で成就したのではないだろうか。