すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(1ヨハネ2・16)
1.
悪霊の働きについて無知だったため、20代の大半を「うつ」によって無駄にした。
素直で善良なだけではダメなのである。
「みんながこう言っている」とか「世の中に合わせないとダメ」とか「友達に嫌われる」とか「この教会を出たら行く場所がない」とか「福音派でやっていけなくなる」とか・・・
クリスチャンになったら、こういう価値観を徹底的に捨てなければならない。そうしないと、悪霊の餌食になる。
中途半端は、隙を作るので、かえって自分の首を絞める。
貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。(ヤコブ4・4)
徹底した聖書信仰、徹底した神中心主義、徹底した献身。
これ以外の選択肢はない。
「世に受け入れられたい」と思ったら、無数の霊的な攻撃を覚悟せよ。
「聖書はそう言っているかもしれないが、現実は違うから」と言い始めたら、悪霊に入られて、対人恐怖と絶えざる憂鬱に悩まされるだろう。
「〇〇代になってこんな家に住んでいるのが恥ずかしい」とか「うちの会社は小さいから同窓会で気が引ける」とか「安いホテルに泊まると格を疑われる」とか・・・。
こういう判断しかできないような人と付き合うべきではない。
私は、父親と甥が超エリートの学校の出身で、暗に明に比較されてきた。
偏差値で評価されるシステムに入り込もうと努力したこともあったが、そのシステムに入ると、自分を完全に失って「他人の価値観で人生を歩む」ことになるのでやめた。
この「他人が作った価値観」は、偶像だと気づいた。
自分と他人を比較し、落ち込んだり優越感にひたる原因が、偶像礼拝にあると気づいた。
それ以来、心が安定するようになった。
もし自分が弱くて、他人からの同調圧力に屈しやすいなら、環境を変えるしかない。
知人で日銀に就職した人が、劣等感に悩まされていた。
彼はある有名国立大学出身だが、周りのほとんどが東大出身者だという。
それは環境が悪すぎる。
知らず知らずのうちに「世の友」になってしまう。
2.
「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たもの」である。
では、クリスチャンは、贅沢品を買ってはならないのか。
高級住宅に住み、高級ホテルに宿泊してはならないのか。
学歴を築き上げる努力は悪なのか。
そうではない。
主は・・・あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。(申命記7・13)
裕福になることは祝福である。
神はわれわれがこの地上で豊かになり、経済力や社会的影響力を付けることを望んでおられる。
問題は、心の態度である。
金儲けそのものは悪ではない。
金儲けが自己目的化し、神の国のために行われないと悪になる。
神の栄光を求めているのか、それとも自分の栄光を求めているのか。
自分の栄光を求める人はみな、バベルの塔の建設者であり、「神の敵」である。
こういう人は、
「肉の欲」つまり、本来正しい目的のために存在する食欲や性欲を神の国と無関係なことに用いる。
「目の欲」つまり、本来神のもとにおいて人間が楽しむために与えられている美意識、音楽や芸術を神のために用いず、自らの栄光のために用いる。
「暮らし向きの自慢」つまり、本来神の祝福として当たられた裕福な生活を自分の栄光のために利用する。
3.
新約時代になって、旧約聖書の食物規定や暦制度は廃止された。
キリストという本体が現れたからである。
旧約聖書において食物を区別したのは、人々に聖いものと汚れたものの違いを実物で教えるためである。
具体的なものを通じて、神に受けいられるものと、そうではないものを認識させるためである。
しかし、神がペテロに対して「汚れた動物を食べろ」と言われたときに、この「具体的なものを通じて聖俗を教えるシステム」は消滅した。
その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。
すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。(使徒の働き10・9-16)
この直後に、ローマ人百人隊長コルネリオの使いがペテロの前に現れた。
ペテロはコルネリオにこう言った。
どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。
神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。(使徒の働き10・35-36)
つまり、ユダヤ人と異邦人の区別は撤廃されたということである。
食用動物と非食用動物の区別は、神の民とはどのような存在であるかをユダヤ民族によって示すために与えられていた。
それゆえ、現在、食事に関する律法は新約時代において撤廃されている。
イエス・キリストを信じる人は、すべて神の民である。
「ものそのもの」に聖俗の違いはない。
クリスチャンにとって食べてよいものと、そうではないものの区別はない。
これを区別することは、イエス・キリストの否定である。
時間に関しても、特定の曜日を聖、他を俗とすべきではない。
新約時代において、聖俗の区別は「心の態度」によって生まれる。
きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。(テトス1・15)
信仰のある人々は「きよい人々」であり、彼らにとって「すべてのものがきよい」。
しかし、不信仰な人々には「何一つきよいものはありません」。
なぜならば、動機が常に不純だからである。
彼らは、神の国とその義を求めない。
自分の栄光を求めている。
偶像礼拝をする人々にとって、あらゆるものは汚れている。
4.
「清貧を尊べ」という教えは間違いである。
クリスチャンは、この地上を神の国に変えるために、経済力を蓄えるべきである。
特定のもの、たとえば、高級自動車に乗ることそのものを悪とするのは、新約時代においてふさわしくない区別をしていることであり、その行為自体が偶像礼拝である。
酒、タバコ、コーヒー、ダンス、高級なもの、高価なもの、贅沢品・・・
こういったものを、タブーとするのは、新約時代のクリスチャンにとってふさわしくない。
祝福によって、成功し、お金を稼いだら、それ相応のものを身につけ、それ相応の住居に住み、それ相応の車に乗っても何も問題はない。
いやむしろ、それらを祝福として楽しむべきである。
神の願いは、御心にかなう者が祝福された生活をすることである。