1. 


・・・しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。 
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。 
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。 
最後の敵である死も滅ぼされます。・・・(1コリント15・17-28) 


ここに、復活の順番が記されている。 


(1)初穂であるキリスト 

(2)キリストの再臨のときキリストに属している者 


(1)は、聖書の記述からすでに起きているとわかる。 

(2)は、再臨の時間設定によって、いつ起きるかが変わる。 

再臨はいつ起きたのか。 

聖書は繰り返し「イエスと同時代に起きる」と述べている。 

マタイ24章でイエスは「世の終わり、再臨の前兆は、この時代のうちに起きる」と述べ、マタイ16章で「この中で、再臨があるときにまだ生存している者がいる」と言われた。 


イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(マタイ24・3) 

そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。 
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。 
いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。 
そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 
まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。(マタイ24・30-34) 

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」 (マタイ16・28) 


さらに、パウロは、携挙が起きるのは、テサロニケの教会の人々が生き残っている間である、と述べた。 


私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。 
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。 
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4・14-17) 


これらの聖書箇所から「再臨は紀元70年に起きた」と結論せざるをえない。 

それゆえ「キリストの再臨のときキリストに属している者」の復活もその際に起きたと考えるしかない。 

2. 

こうなると問題は、1コリント15・17-28の後半である。 


それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。 
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。 
最後の敵である死も滅ぼされます。 


以下のように考察できる。 

(1) 
「再臨は紀元70年に起きた」ということが真理であるならば、「終わり」も来た、ということになる。 

今クリスチャンが「世の終わりは近い」とか「今は終わりの時代である」と言っていることに根拠がなくなる。 

(2) 

すでに「キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しにな」り、「すべての敵をその足の下に置」かれた。 

つまり、紀元70年以降、キリストの敵は「足台」となっており、無力化されている。 

「無力化」というのは、常に無力だという意味ではなく「キリストが剣を取れば、必ず負ける」という意味である。 

サタンがいくら陰謀をたくらんで世界を統一しようとしても、キリストが立ち上がれば、その計画はすべて粉砕される。 

(3) 

「最後の敵である死も滅ぼされ」た。 

つまり、紀元70年以降、「死」は存在しない。 

キリストは、黄泉の「慰めの場所」にいた死者を復活させ、天に連れていかれた。 

彼らを引き連れて、再臨され、生き残っている人々を復活させ携挙された。 

これ以降、クリスチャンは、死ななくなった。クリスチャンには墓は不要である。 

クリスチャンが他の人と同じように肉体を離れたとしても、死んだと考えてはならない。 

クリスチャンには、キリストと同じ「御霊のからだ」が与えられる。 

この「御霊のからだ」において携挙され、天に行き、キリストとともに永遠に世界を支配する。 

ノンクリスチャンの場合、肉体が滅んだ後、死ぬ。 

魂の状態において黄泉の「苦しみの場所(地獄)」に行く。 

千年王国が終わるまでそこにおり、その後からだが与えられて、からだのまま火の池に投げ込まれる。 

3. 

そこで、マタイ28:20の「世の終わり」は紀元70年なのか、それとも、世界の終末なのかという疑問が起きる。 


イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・18-20) 


マタイの24章において「世の終わり」が紀元70年を意味しているならば、ここでも紀元70年を意味していると考えるべきである。 

となると、「世の終わり」が紀元70年であれば、「世界の諸民族の弟子化」はすでに終了し、さらに、「いつも、あなたがたとともにいます」という言葉は現在適用できなくなるということになるのか。 

法的には「世界の諸民族の弟子化」はすでに終了したのである。 

神はモーセとヨシュアに対して「カナンの地をあなたがたに与える」と宣言された。 

これは法的な所有権の移転である。 

しかし、実際には所有権はカナン人にあった。 

実際の所有権を獲得するには「戦い」が必要である。 

イスラエルの民は、カナンの地に入ってそこを占領した。 

つまり、法的な事実と実際的な事実を区別しなければならない。 

紀元70年に世界の弟子化は法的に完了した。 

世界の諸民族はすでに「法的に」イエス・キリストの弟子である。 

それゆえ、われわれが伝道するときに、彼らは「実際的に」弟子化される以外にはない。 

帰化人は帰化申請が通った瞬間から「法的に」日本人である。 

実際の生活を通じて言葉を覚えたり、習慣を日本に合わせる作業を通じて「実際的な」日本人になる。 

紀元70年に、イエスの臨在は「法的に」完了した。 

それ以降は、イエスは「実際的に」伝道者に臨在される。 

4. 

聖めは二度必要である。 


その者は三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。 
身のきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられる。その者は、衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方にはきよくなる。 
あなたがたは七日間、宿営の外にとどまれ。あなたがたでも、あなたがたの捕虜でも、人を殺した者、あるいは刺し殺された者に触れた者はだれでも、三日目と七日目に罪の身をきよめなければならない。(民数記19・12、19、31・19) 


紀元70年は、「三日目の聖め」なのである。 

世界の終末は、「七日目の聖め」である。 

前者は法的な聖めであり、後者は実際的な聖めである。 

それゆえ、紀元70年の第一の再臨だけではなく、世界の終末において第二の再臨が必要なのである。