イエスは人々の間で多くの働きをしたが、全人類の贖罪を完了し、人間の罪の供え物となっただけで、人間の堕落した性質をすべて取り除くことはなかった。・・・そのため、人間が罪を許された後、人間を新しい時代に導くために、神は肉体に戻られた


突っ込みどころが無数にあるので、要点だけ。

1.

贖罪が有効なのは「信じた人」だけであって、無神論者や反キリストを含む全人類が罪を贖われたわけではない。

薬があるのに、飲もうとしない人は、病気が治らない。

扉が開いているのに、そこから出ようとしない捕虜は、解放されない。

裁判所で無罪判決が下り、法的に無罪になっているのに、それを受け入れない人は有罪の責めを自らに負わせ続ける。

2.

「人間の堕落した性質をすべて取り除くことはなかった」

人間の堕落した性質が完全に取り除かれるのは、血肉のからだを離れる時である。

つまり、昇天して、新しい「御霊のからだ」を受ける以外には解決はない。

人間の「完全な聖め」は、法的な事実ではあっても、実際的なそれではない。

3.

「人間を新しい時代に導く」

イエスにおいて新しい時代は来たのである。

さらに新しい時代は不要であり、それは来ない。

イエスの御業を失敗または不完全として描き、新しい救いや時代が必要だと説くのは、ディスペンセーション主義や統一協会と似ている。

この教義の隠れた目的は「新しいメシア」を提示することである。

イエスを廃位させ、新しい救い主を提供したいのは、サタンである。

タルムードユダヤ教はイエスをメシアとして認めていない。

そのタルムードユダヤ教は、ローマ・カトリックやディスペンセーション主義やものみの塔や統一協会を作って、イエスとは似て非なる「再臨のメシア」を作り出した。

ローマ・カトリックでは「ローマ教会」がメシアに、ディスペンセーション主義やものみの塔では「再臨のメシア」が、統一協会では「文鮮明」が、その「新しい救い主」として提示される。

聖書では、はっきりと「キリストは昇天され、その代わりに御霊が地上に下った」と教えている。


しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。(ヨハネ16・7)


イエスは「私は昇天しなければならない。なぜならば、御霊が降臨されないから」と言われた。

われわれは、地上を歩むキリストを必要としていない。

キリストは天におられる。

地上におられるのは、御霊である。

われわれクリスチャンの体の中におられる御霊こそがわれわれにとって必要なお方だとイエスが言われているのに、「それじゃあ足りない。イエスがもう一度地上に来られる必要がある」というのは、聖書啓示を無視する重大な違反である。

だから、ディスペンセーション主義の切迫再臨説は、悪魔に由来する。

4.

「神は肉体に戻られた」

イエスは、今でも「からだ」を持っておられる。

昇天したら霊だけになった、と考えてはならない。

イエスは今も「復活したからだ」を持っておられる。