なぜキリスト教は「神は存在論的に一人」と考えるようになったのか。 

それはおそらく「契約的に一人」を低く見ているからであろう。 

「え?神は存在論的に一人ではない?法人として一人?それは神の冒涜だ」と感じる人は、神が「契約的一人」をいかに重要と考えておられるか知らない。 

イエスが十字架にかかられたのは「契約的一人」を重視されたからである。 

父、子、聖霊は、互いに同格、同質、同永遠、同権威である。 

しかし、契約的に上下関係がある。 

夫も妻も命の価値は同じである。 

しかし、契約的に妻は夫に従属する。 

「契約的な上下関係だからたいしたことはない」と言う人は、聖書的な考え方をしていない。 

イエスは「御父と自分は同格であるが、契約的に御父に従属している。だから、御父の命令に聞き従おう」とされた。 

そして、「選ばれた人々を救うために、十字架にかかり彼らの罪を背負って身代わりに処刑されなさい」という御父の命令に従われた。 

一人の人の刑罰でも、恐ろしい苦痛である。 

永遠の刑罰なのだから。 

それを、無数の人々の刑罰を身代わりに受けたのである。 

そのような想像だにできない苦しみを「御父の命令だから」という理由でご自身の身に受けられた。 

神にとって「契約」がいかに重要であるのか、これでおわかりだろう。 

「姦淫するな」という戒めは、「契約的関係」「契約的一体」を軽視するな、と教えている。 

「夫婦は存在論的な一体ではなく、契約的な一体でしょう。だからそんなに大切ではない」と言うべきではない。

イエスが契約を重視し、十字架につかれたように、われわれも、契約を「自分の命をかけるほどに」重視しなければならない。