1.
「存在論的に誕生した」と言ったら「存在していなかったものが、存在するようになった」ということである。
それゆえニケア信条の「神よりの神」「光よりの光」がもし存在論的にそうであるというならば、それぞれ「存在しなかった神が存在する神から出た」「存在しなかった光が存在する光から出た」という意味になる。
これは「御子は、存在する神である御父から創造された」ということを意味し、当然の帰結として「存在しなかった時代があった」ということを示す。
それゆえ、このことを主張する人は、ニケア信条の「主の存在したまわざりし時あり・・・と宣べる者らを、公同なる使徒的教会は、呪うべし」の規定に該当するので、教会は彼または彼女を除名すべきである。
では、「神よりの神」「光よりの光」は、どのように解釈すべきか。
「御子は御父より『契約的に』発出した」のである。
「存在しなかった時が一時もない御子」が「存在しなかった時が一時もない御父」より「契約的に生まれた」のである。
「契約的に生まれた」とは「法的に生まれた」と同義である。
あたかも「養子縁組によって成立した親子関係」のようである。
存在論的に父ではない人が、存在論的に子ではない人を「子にする」のが養子縁組である。
しかし、法的には「子」であるから、父の遺産を相続できる。
存在論的三位一体と、契約的(または経綸的)三位一体を区別すべきである。
2.
第一位と第二位の神の間には、存在論的に父子関係はない。
存在論的には「同質」「同等」「同権威」「同権力」「同永遠」である。
しかし、契約的(法的・経綸的)には「上下関係」「父子関係」が存在する。
イエスは「わたしは去って行く」と言われ、事実、昇天された。
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。(ヨハネ16・7)
こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。(使徒の働き1・9)
イエスはこの昇天後、現在に至るまでずっと「天におられる」。
しかし、イエスは、弟子たちに「わたしはあなたがたとともにいつもいる」と言われた。
・・・見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28・20)
これは「契約的に」である。
イエスは、存在論的には天におられるが、契約的にはわれわれとともにおられる。
なぜならば、御霊がわれわれとともにおられるからである。
昇天後イエスは「助け主をあなたがたのところに遣わ」された。
それがペンテコステである。
ペンテコステ以降、御霊はわれわれとともに常におられる。
御霊がおられることは、イエスがおられるのと同然である。
なぜならば、イエスと御霊は契約的に一人だからである。
父、子、聖霊は、「法的に一人」なので、御霊がおられることは、イエスがおられることと同義である。
この三位が「存在論的に一人」であるならば、イエスが昇天されたら御霊も天におられる。
父、子、聖霊は、三者とも天におられ、地上にはおられない。
逆に、聖霊が地上に下ったのであれば、父、子、聖霊も地上におられ、天にはおられない。
「存在論的に一人」と解釈すると、聖書の無数の箇所を解釈できなくなる。
「いや、神は空間的にも絶対だから存在論的に一人でも、天にも地上にも同時におられる」というだろうか。
では、なぜわざわざイエスは「わたしは去って行きます」と言われ「助け主を使わします」と言われたのか。
明らかに、御子と聖霊が存在論的に「他者」であるからこそ、そのような表現をされたのである。
4.
これで「神は存在論的には多、契約的には一」ということがおわかりいただけたと思う。