キリストの贖いを拒むことは、「贖いの蓋」のない契約の箱への接近と同義である。
十戒の板がむき出しの状態になっているので、契約違反者が負うべき刑罰を受ける。
爆発して、遮蔽物を喪失し、核燃料がむき出しになった状態の原子炉に近づく人がいるだろうか。
キリストの贖罪を拒む人は、神の刑罰をもろに受ける。
人生の中で犯した無数の罪の責任を自分で取らなければならない。
たとえちょっとした罪でも、永遠の刑罰に値する。
アダムとエバが犯した罪は「木の実を食べた」という行為だった。
「木の実を食べたくらいで厳し過ぎる」と言えない。
なぜならば、あらゆる罪は「神の主権への挑戦」だからである。
アダムとエバは、善悪の知識の木から取って食べることによって、神の主権に挑戦した。
彼らは「神よりも自分の願望を優先した」。
彼らは主権者になろうとした。
誰でも神が禁止したことを行う人は「あなたは私の主権者ではない」と神に対して言っている。
だから、どんなに小さな罪でも「永遠に排除されるに値する」行為である。
すべての罪は「無限の重みを持つ」。
つまり、罪を犯してそのままの状態で死んだ人は、永遠の刑罰を受ける。
すべてアダムの子孫は、エデンの園において結ばれた「神と人の契約」の中にいるので、贖いがなければ、永遠の刑罰を受ける。
それゆえ、万人にはキリストの犠牲の死が必要なのである。
自分に代わって刑罰を受けてくださる方がいなければ、われわれは己の身でその刑罰を受けなければならない。
神は人を愛しておられるので、その刑罰を与えることを望まれない。
それゆえ、ご自身のひとり子であるキリストをわれわれの代わりに十字架につけて殺し、われわれの罪の刑罰をすべて彼に負わせ給う。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3・16)
「神は罪人を裁くような愛のない方ではない。キリストがいなくても人間が裁かれることはない」というだろうか。
法律制定者が、違反者を罰しなければ、その法律は「ザル法」であり、法律がないのと同様である。
目の前で犯罪が行われているのに、逮捕しない警察官がいるとすれば、その警察官は「秩序破壊者」である。
スピード違反を処罰しなければ、道路は無法地帯になる。
神が神である限り、ご自身が制定した法を破った者を罰せずにはおれない。
違反者を罰せずに秩序を維持するためには、代わりに刑罰を負う人が必要である。
本人が保釈金を払うことができなければ、誰かがそれを払わなければならない。
それを払わないままに釈放すれば、法治国家は崩壊する。
神はご自身の創造された世界の秩序を維持するために、契約違反者を必ず罰し給う。
われわれには、キリストがどうしても必要である。