1. 

異教や異端ほど厳しい規則を設ける。 

ヒンズー教は牛肉、ユダヤ教は豚肉、モルモン教はコーヒー、ものみの塔は輸血を禁じる。 

福音派はアルコールやタバコを禁止するが聖書のどこにも書いていない。 

長老派でもアルコールを禁止する団体もある。 

こういった聖書が禁止していない事柄をいくら守っても、何の意味もない。 

最近驚いたのは、ある教団には牧師や伝道師は女性と2人で車に同乗してはならない、という教えがあるそうだ。 

聖書のどこにそんなことが書いてあるのか。 

たしかに、世に不倫がはびこっているからよからぬことを連想する人がいてもおかしくはない。 

しかし、それは、その人の価値観であって、自分の価値観をクリスチャンに強制するのは間違っている。 

それで、問題は、そのような教えを唱える本人が守っているかだ。 

その教団では、牧師も信徒も本当に守っているのか。 

ありえない。 

結婚を前提に男女が付き合う段階で、二人で将来について話し合う場合、二人だけになることもあるだろう。 

だから、聖書に規定されていない事柄を禁止する人は、偽善者にならざるをえないのだ。 

改革主義の倫理規定の原則は「外形主義」である。 

つまり、「聖書に禁止されていることを明らかに違反した外面的具体的事実が確認されていない限り、教会戒規にかけることはできない」という原則である。 

内面を問題にしたら、自由が失われる。 

「怪しい」というだけで「クリスチャンとしての交わりを絶つ」とか言ったら、クリスチャンに一致などありえない。 

クリスチャンは互いに「相手を大人として扱う」べきである。 

門限を定め、行く場所を限定し、付き合う人間を選ばなければならないのは、子供である。 

自分で作った勝手な教えで他人を縛り、相手の外面ではなく、内面を問題にしたら、互いに精神が退化する。 

2. 

あれをしてはいけない、これをしてはいけないと、禁止事項を設けるのは、幼稚な文化である。 


もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、 
「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。 
そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。(コロサイ2・20-22) 


22節は次のようになっている。 


α εστιν παντα ειs φθοραν τη αποχρησει κατα τα ενταλματα και διδασκαλιαs των ανθρωπων 

which are all unto destruction with the use, according to the commandments and teachings of men 

これは、人間の命令と教えに基づき、すべて用いれば破滅の中に導き入れるものである 


つまり、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めは、神の命令によるものではなく、人間の命令と教えに基づき、それに従うことによって、すべて破滅に導くのである。 

自分勝手に考えた「禁止命令」は、人を地獄に至らしめる。 

牛肉を食べるな、豚肉を食べるな、コーヒーを飲むな、アルコールを控えろ、タバコを吸うな、女性と二人だけで車に乗るな・・・ 

こういう教えは、人を地獄に落とす。 

聖書に明確に禁止されていることがらを禁止しても、地獄には落ちない。 

しかし、明確に禁止されていないことがらを自分勝手に人に強制するのは、地獄行きなのである。 

3. 

なぜ人間の教えを唱えることがそれだけ厳しい裁きを受けるのか。 

「神を捨てているから」である。 

アダムとエバはなぜエデンの園から追放されたのか。 

「自分勝手な決まりを作ったから」である。 

「自分勝手な道徳」を作ったからである。 

神が設定された道徳を超える道徳を作りだしたからである。 


そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記3・6) 


神の法を超える掟を作り出す人は、みな神を捨てている。 

いかにも敬虔そうに見えても、内実は神の否定である。 

聖書に禁止されていないことを禁止する人は滅びる。