『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」(マタイ15・8-9)
「人間の教えを、教えとして教える」ならば、教会活動は、全部無駄である。
そのような教会では、人間の教えを教え、聴衆もそれを喜ぶ。
なぜか。
「その心がわたしから遠く離れている」からである。
「口先で神を敬う」がその教えを敬わないならば、神の御心から遠い。
イエスは「律法を廃棄するために来たのではない」と言われたのに、律法は今日無効である、という。
また「天地における一切の権威を与えられた」と宣言されたのに、「イエスが王になるのは再臨後だ」という。
「牧会生活○十年」と言っても、「人間の教えを教え」、信じてきたのなら、無駄である。
要するに、神を愛しているのかの問題である。
神を愛するならば、神が伝えようと望んでおられることを伝えようとする。
神が信じるよう期待しておられることを信じようとする。
だから、神を愛しているクリスチャンは、必ず「聖書は何を言っているのか」にこだわる。
聖書そっちのけで、癒やし、預言、異言、霊的な賜物、終末、繁栄、可能性・・・を唱えているならば、その教会に参加しても無駄である。
「聖書を学ぶと暗くなります。それより祈りなさい」というような牧師は偽預言者である。
「神の御心なんてどうでもいい。自分が幸せになれるかどうかが問題なのです」と言っているようなものである。
人間は「自分が幸せになれるかよりも、神が幸せになれるかに関心を持つように」創造されたのである。
堕落によってわれわれの肉の部分にはこのような意識はない。
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考える
肉の思いは死である
肉の思いは神に対して反抗するものである・・・(ローマ8・5-7)
しかし、われわれに与えられた御霊は御心に集中される。
御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。(ローマ8・5)
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5・22-23)
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペ1・14)
御霊が与えられたのは「神の栄光がほめたたえられるため」である。
聖書の学びを軽視するグループには、御霊がない。
御霊があれば、御心を知ろうとし、聖書信仰に立つようになる。
だから、ヴァン・ティルの前提主義に立つようになるし、カルヴァン主義の5条件や再建主義の5条件を信じるようになるはずである。
しかし、私がこれまで会った大部分の牧師たちは、教理に無関心であった。
なんだか人間受けのする説教をしていた。
その教派教団の教えの中でぐるぐる回るだけで、真摯に聖書から学ぼうとする人はきわめて少なかった。
学生時代、聖書の学びに熱心だった友人たちも、教団の中に入ると、そこの教えの中でぐるぐる回りだした。
たしかに、その集団の中では出世したかもしれないが、そんなことどうでもいい。
御心は何か、である。
神は何を喜ばれるのか、である。
私は自分の一生を無駄にしたくなかったので、教団での出世よりも、聖書の学びに集中してきた。