「もし携挙が紀元70年頃に起きたら、地上にいるノンクリスチャンやクリスチャンは何らかの反応をしただろうし、記録に残しているはずである、しかし、そんな「人が消えた」などという記録はない。だから、携挙は過去に起こらなかった。」という人がいる。
このような解釈法は「聖書は聖書によって解釈する」という原則に対する違反である。
聖書は最高権威なのである。
最高権威である以上、他の証拠による論証を必要としない。
クリスチャンは、神を礼拝する。
神を至高者として礼拝する者が、神の言葉である聖書を疑いの対象とすることは許されない。
聖書を説明するのは、聖書以外にはない。
歴史的資料は、傍証(補強証拠)でしかない。
クリスチャンは「もっぱら聖書のみから」次の点を信じるべきである。
1.「エノクとエリヤは生きながら昇天した」と旧約聖書に書いてあるので、物理的昇天は存在する。
2.テサロニケの教会の人々は携挙の際に「生き残っている」と聖書に記されている以上、携挙は紀元1世紀に起きた。
3.「人の救いは宣教の愚かさによる」と聖書に書いてあるので、「携挙は限定的に適用され、携挙されなかったが人いる」とわかる。
4.聖書に「人は信仰のみによって救われる」とあるので、携挙された人とされなかった人の違いは、信仰の度合い、献身の度合いではない。
5.聖書に「イエスは教会の頭である」と書かれているので、体であるクリスチャン全員が、イエスと同じように「物理的に復活し、物理的に昇天する」とわかる。すなわち、紀元70年以降、クリスチャンは血肉の体を脱ぎ捨てた直後に「御霊の体」を与えられ、昇天する。
「聖書だけで世界を理解するのは偏狭で、科学的ではない」という人に向かって、われわれは「ということは、人間理性には神の言葉を超える可能性があると信じているのですね」と答える。
人間理性には神の言葉を超える可能性があると信じる人は「私には神を裁く権威がある」と告白しているのと同じなので、別の宗教(「人間教」)の信者であり、クリスチャンではない。
神と神の言葉を最高権威としない人をクリスチャンとして認めることはできない。