1. 


ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。 
しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、 
心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。(1コリント14・23-25) 


「預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、 
心の秘密があらわにされます。」 

昔、福音派にいた影響で「個人預言は聖書的ではない」と考えていた。 

しかし、知人が預言をし、自分の心の中を言い当てたのを見て、個人に関する預言があることがわかった。 

個人預言は、個人の「心の秘密をあらわ」にする。 

「その人はみなの者によって罪を示され」る。 

自分しか知らない事柄を言い当てる集会は、「神が確かに・・・おられる」集会である。 

秘密をあらわにされた人は「ひれ伏して神を拝む」。 

つまり、個人預言は、神礼拝の一部である。 

私は、何人かの人から自分の「心の秘密をあらわ」にされたことがある。 

ある兄弟は、私に電話で忠告してきた。 

「人にこういうことを言ったらだめだよ」と。 

たしかに私は彼の知らないところで人にあることを言っていた。 

しかし、それを無視して続けた。 

裁かれた。 

後で彼に「どうして私がそれをしていたことを知っていたのですか」と尋ねた。 

神に示されたのだと。 

これは、明らかに個人預言である。 

最近心の中で「もっと御言葉の働きに集中しないと」と思っていたら、ある人が祈りの中で「tomiさんは、御言葉の働きに集中すべきだ」と預言した。 

ある友人が私に向かって突然「おまえはこういうことを考えているだろう」と言い始めた。 

まったくそのとおりだった。 

後で彼に「なんでわかったのですか」と尋ねると「そんなこと言ったっけ?」と言われた。 

預言する人が、預言したことを覚えていないことがある。 


五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。 
すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。 
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒の働き2・1-4) 

彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。 
それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。 
私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、 
フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、 
ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。(使徒の働き2・7-11) 


預言をした人々は、自分が理解できない外国語で語り出した。 

ちなみに、これは異言ではない。なぜならば、ここで言われているとおり、理解できる人がいたからである。 

異言は理解不能なものである。 


もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。(1コリント14・14) 


預言は自分にとって理解できないことがある。 

「自分が理解できない預言」を非聖書的と切り捨てることはできない。 

すなわち、預言は自分の理性を超えることがあるということである。 

預言は、自分とは別人格の霊の働きであるから、預言した後でその内容を覚えていないということも当然ありえる。 

2. 

近代合理主義は「非超越的な宇宙」を前提としている。 

つまり、この宇宙を超越した神はいないと考える。 

厳密に言うと「超越者はいるかもしれないが、それは人間にとって重要ではない」と理解する。 

しかし、この考え方は、時代が下るにつれて「超越者はおらず、超自然的な出来事は起こらない」という理解に変わった。 

クリスチャンは、この合理主義思想に影響を受けてきた。 

私も、悪霊について話すと父親から「君子、鬼を語らず」と戒められた。 

今日の教会で悪霊について語ると、異端視される。 

聖書において至る所に悪霊の活動が記されているのに。 


私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペ6・12) 


キリスト教から悪霊を除いたのは、サタンである。 

悪霊を語らないクリスチャンは、敵を見失ったのである。 

われわれの敵は「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」である。 

個人預言を否定するのも、合理主義の影響である。 

神の霊がわれわれを通じて語られると聖書においてはっきりと書いてあるのに、それを否定している。 


愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。 
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。 
完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。 
私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。 
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。(1コリント13・8-13、14・1) 


ある人はこの箇所から、「聖書66巻という啓示が完成して以降、完全なものが現れたので、不完全なものである預言や異言はすたれる」と説くが、「完全なものが現れ」るときには「私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることにな」ると言われている。 

聖書66巻がそろい、聖書啓示が完成している今、われわれは神に「完全に知られているのと同じように、完全に知ることにな」っているだろうか。 

もちろん、ノーである。 

神によってわれわれが完全に知られているようにわれわれも「完全に知る」のは、この肉体を脱ぎ捨てて御国に行ってからのことである。 

だから「今日において、預言や異言はすたれている」と考えることはできない。 

パウロの「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい」との勧めは、今日でも適用されるべきである。 

3. 

旧約時代、預言が外れた場合、預言者は殺された。 


ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」 
あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うような場合は、 
預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。(申命記18・20-22) 


しかし、新約時代において、預言は間違うことがある。 


預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。(1コリント14・29) 

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。(1ヨハネ4・1) 


吟味とは「聖書的かどうか」を調べるということである。 

なぜならば、「霊が神からのものかどうかを、ため」す基準は、聖書にしかないからである。 

聖書は聖霊によって書かれたのであるから、聖霊が聖書に反することを語られることは絶対にない。 

だから、預言をする教会は、まず聖書を知らなければならない。 

聖書や正しい教理を学ばず、預言だけ行う教会は、容易に悪霊の餌食になる。 

霊とは微妙なもので、ずっと聖霊が語っておられると思ったら、いつの間にか悪霊が語っていることがある。 

悪魔は狡猾なので、90パーセント正しいことを語って信用させ、嘘を10パーセント入れてくる。 

地獄に行ってきた人の証を聞いたことがある。 

地獄においてイエスと出会ったという。イエスは彼女に「世の終わりが近い」と述べた。 

私は、この人を偽預言者と思った。 

なぜならば、非聖書的だから。 

4. 

日本において犯罪は、具体的な行為に及ばない限り、認定されない。 

単なる「犯罪を犯しそうな顔をしている」ということで逮捕されることはない。 

これが法治主義というものである。 

法律の条文に記された具体的な行為に及ばない限り、誰かを犯罪者と見なすことはできない。 

教会が人を扱うのも、同じである。 

教会の戒規にかけるべき人とは「具体的な罪を犯した」人だけである。 

単なる印象で教会から追い出してはならない。 

証拠を集めて、確証を得てから、はじめて戒規を執行できる。 

罪刑法定主義は、教会においても徹底しなければならない。 

そうしないと、信仰者の自由が著しく制限される。 

神がアダムを裁かれたのは、あらかじめ法律が制定されていたからである。 

「善悪の知識の木から取って食べてはならない」という法律があらかじめあった。 

アダムはこの条文に違反したので、永遠の命を失った。 

聖書契約において、祝福と呪いは、律法に対して具体的にどのように反応したかによって下る。 

「罪人のような風貌だから」とか「嘘つきそうだから」では裁きは下らない。 

律法の規定に違反した場合にのみ、呪いが下る。 

もしこのようなしっかりとした規定に基づいて罪が定義されなければ、イエスの贖いも実現しない。 

なぜならば、イエスは人間が律法に反して行ったことについて、律法の規定にしたがって裁かれたからである。 

聖書には「なんとなく」という要素はない。 

「なんとなく罪人っぽい」とか「なんとなく刑罰を科す」というような世界ではない。 

人間の集団である教会の裁判は、人間の具体的な行為しか扱えない。 

神は心を見られるが、人間は外面的な行為しか扱えない。 

人間が心を扱うならば、冤罪が発生する可能性が高まり、人々は自由を失い、人間を恐れるようになる。 

もし誰かの行為を非難するならば、具体的にその行為が聖書のどの戒めに違反しているかを明示しなければならない。 

個人預言を否定する場合、個人預言が聖書のどの箇所に違反しているかを示すべきである。