聖書には、 


「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。 
あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。 」 (ローマ6・17-19) 


とありますので、奴隷という言葉そのものは良い意味でも使われています。 

ここで「義の奴隷」とは「どうしても義を行うしかない人」という意味です。 

「罪の奴隷」とは「やってはならないと思うのに、どうしても罪を犯してしまう人」「罪に振り回される人」の意味ですが、それと対照的に 「義の奴隷」 は「自分の本音では義を行いたくはない場面でも、どうしても義を行ってしまう人」「義に振り回される人」という意味です。 

私たちは、イエス・キリストを信じたときに「自分の本音では義を行いたくはないが、どうしても義を行ってしまう人」にさせられたのです。 

イエス・キリストを信じる前には 「自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みました」が、今は「その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進」むようにされたのです。 

その意味において、私たちには自由はありません。 

「クリスチャンになったら罪から解放され、自由人になった」というのは厳密に言えば間違いです。 

クリスチャンになったら、神の計画に従って、神の国のための業を与えられ、その業に進むように強制されます。 

ヨナのように「ニネベに行って預言せよ」と言われたら行くしかないのです。 

行かないと、平安を失い、悪いことが起こります。 

クリスチャンには「自分の人生」はありません。 

極端な話、御許しなしでは、100メートル先のコンビニにすら自由に行けません。 

神の御心ではないことを続けることが不可能になります。 

私たちは、神の奴隷なのです。