信仰は不可能を可能にする。それゆえ、信仰は世界を征服する。生まれながらの人(Fallen man)は、いかに強力であろうと、時間や空間、因果関係という限界の中にいる。しかし、神から生まれた人々は、神の可能性の領域の中にいるので、人が水の上を歩き、死体が蘇り、暴君が打ち負かされ、荒野が豊かな実を結び、救いが日常的に与えられるのである。 
(カルケドン論説、1月23日) 


ポスト・ミレは、人間の力を見るのではなく、神の可能性を見る。 


歴史上、勢いのある時期もあれば、それを失う時期もあったポスト・ミレは、歴史をキリストの御民の勝利に向かって進展している過程と見る。教会は北極から南極まで勝利に勝利を重ね、全世界の政府が神の法に従い、栄光に満ちた平和の時代が長期間続いた後に再臨があり、世界の終末がやってくると考える。 
(R. J. Rushdoony, God’s Plan for Victory: The Meaning of Postmillennialism (Vallecito, CA: Chalcedon Foundation, 1997), p. 8.) 


もしあなたが、聖書をまるごと神の御言葉と信じ、神が全能であると信じるならば、歴史観もそれに合わせたものにしなければならない。 

イエスの御名によって悪霊を追い出すことができると信じるならば、歴史の中において神が勝利し、世界から悪魔を追い出すことができると信じなければならない。 

イエスの御名によって病気を治すことができると信じるならば、経済や政治の病気も治すことができると信じなければならない。 

一貫性を持ち給え。 

信仰において「できない」は禁句である。 

神が「できる」と言われたのであれば、できるのである。 

「できない」という言葉によって、イスラエルの民は裁かれ、1週間でたどり着く行程を40年間かけるはめに陥った。 

不信仰者に対する裁きは「無駄足」である。 

なぜイスラエルは不毛な荒野を無一文でぐるぐると歩き回ったのか。 

なぜ目の前に肥沃な土地があるのに、それを手に入れることができなかったのか。 

「できない」という言葉である。 

自分があたかも世の人と同じ世界に生きているかのように考えたからである。 

不信仰な世の人は「時間や空間、因果関係という限界の中にいる」。 

しかし、われわれクリスチャンは「神の可能性の領域の中にいる」。 

住む世界が違うのである。 

自分が世の人と同じ世界に住んでいると考えると、世の人と同じように不毛の荒野をぐるぐると彷徨しなければならなくなる。 

2. 

私は、荒川土手を歩きながら祈っている。 

車から降りて歩き始めるときに「これから世界政府を潰しに行きます」と祈る。 

どうだろうか。 

世界のほとんどの富を独占している人々が、混乱に陥っている。 

せっかく完成間近なバベルの塔が、崩壊しかかっている。 

小児性愛者の世界的なネットワークを持つ人々の行状が暴露され、逮捕者が出つつある。 

アメリカを2分する勢力となるのではと見なされていた中国の経済がガタガタになりつつある。 

ヨーロッパに移民を大量投入してEU諸国を混乱に陥れたジョージ・ソロスを呪ったら、心不全で倒れたとか、死亡したというニュースが流れた。 

ロスチャイルドの銀行が世界各国で次々と追い出されつつある。 

クリスチャンは、神の無限の力の領域に住んでいるので、祈れば、いかなる勢力も倒れるのである。 

どうかわれわれの祈りの中に入ってともに祈ってほしい。 

毎朝、10分でも祈れば、それがつもりつもって大きな力となる。 

このような祈りの攻撃を加えるわれわれに対する風当たりは強い。 

私もいろんな攻撃を受けている。 

世界中のクリスチャンがポスト・ミレの信仰に切り替えるならば、世界はあっという間に変わり、善人の勢力が世界を支配するだろう。 

クリスチャンがポスト・ミレにならないように働く悪霊が私を攻撃している。 

どうかご支援をよろしくお願い申し上げます。