1. 

「われわれのうちにいるイエス・キリスト」という表現は厳密に言うと間違いである。 

イエス・キリストは天におられる。 

イエスが天におられないと聖霊が下らない。 


・・・もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。(ヨハネ16・7) 


人類にとって正常な姿とは、聖霊が下り、聖霊にあってイエス・キリストが支配されることである。 

イエス・キリストご本人は、天におられ、全世界を支配しておられる。 

イエス・キリストと聖霊は一体なので、聖霊がわれわれのうちにおられるということは、イエス・キリストもおられるということである。 

それゆえ、イエス・キリストの臨在はあくまでも「法的なもの」である。 

イエス・キリストは、「法的に」われわれとともにおられる。 

「実際的に」われわれとともにおられるのは、聖霊である。 

2. 

われわれの肉体は「聖霊の宮」つまり「神殿」であるから、われわれの肉体は、神殿が象徴する天である。 

天には御父と、その右の座にイエス・キリストがおられ、「王と将軍」として存在する。 

それゆえ、われわれの肉体にも、御父とイエス・キリストが「王と将軍」として「法的に」臨在される。 

なぜならば、御父とイエス・キリストと聖霊は一体だからである。 

聖霊にあって、御父とイエス・キリストはわれわれの肉体に「法的に」存在し、指令を発し給う。 

われわれのたましいは、その指令を受けて、自分の肉体を動かし、ことを実行する。 

神の栄光と御国の拡大のために行動するときに、この地上に神の御支配が広がり、サタンのそれは縮小される。 

われわれの人生は、このためにある。 

自分の王国拡大のために働こうとするクリスチャンがいれば、その人は、聖霊を通じて与えられる御父とイエス・キリストの命令を無視している。 

自分の栄光、自分の権力、自分の権威、自分の資産、自分の家族、自分の仕事、自分の・・・ 

至聖所において聖霊にあって君臨しておられる御父とイエス・キリストの命令が届かず、自分がその真ん中に座り、神を右の座に座らせている。 

逆である。 

神が中央に座り、われわれが右の座に座らねばならない。 

神は王、われわれは将軍である。 

3. 


また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(黙示録22・19) 


黙示録のみ言葉を少しでも改ざんする者は、「いのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」、つまり、救いの取り消しである。 


イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。(黙示録1・1) 


黙示録の預言は「すぐに起こるはずの事」に関する。 

誰にとって「すぐに起こるはず」なのか。 

黙示録の読者である。 

紀元1世紀に小アジアにあった7つの教会のクリスチャンたちである。 

彼らにとって「すぐに」起きるというのであれば、黙示録は「紀元1世紀」に起きるはずである。 

それなのに、現代のディスペンセーション主義の教会では、黙示録はわれわれの未来に起きるという。 

大患難がやってきて、666の反キリストが世界を支配すると。 

このような解釈は、実質的に「黙示録の改ざん」である。 

だから、ディスペンセーション主義の解釈を採用するクリスチャンは、救われることを期待してはならない。 

うちにおられる聖霊のみ声を聞いて、神を至聖所の中央に座らせ、自分は右の座に座れば、素直に解釈できるようになる。