1.
どのような考え方を選択するかは人間から見れば自由ですが、神から見れば、それは「MUST」です。
聖書を権威として持つことがすべての被造物に課せられた義務です。
いくら「自分は何をしてもいい、何を考えても自由だ」と叫んだところで、最終的に聖書に反する考えを持って罪を犯せば神に裁かれます。
究極的に、この世界において人間は主人公ではなく、「臣下」でしかないので、相対主義は許されません。
2.
「イエスが真理である」と聖書に啓示されているので、「イエスは真理ではない」という立場は異端です。
聖書が基準なので、相対的に考える自由は人間にはありません。
クリスチャンでなくても、神の被造物である以上、その縛りからは誰も解放されません。
3.
聖書的キリスト教を採用するのは、自分の決断であり、私たちは誰にも強制できません。
しかし、神の目から見て、それを信じることは、義務であり、信じない人は罪を犯していることになります。
私たち人間にとって、誰がそれを採用するかは自分の責任外のことです。
私たちの義務は、聖書のメッセージを伝えるだけです。
個々人がどのようにそれを採用するようになったかは、各人に導きがあるでしょう。
自分で選択するまでの歴史があるでしょう。
それは私も同じです。
突然「はい。わかりました」と言ったわけではなく、長い葛藤がありました。
その意味において、聖書を相対的に捉える時期がありました。
「やっぱりこれだ!」と気づくまで長い試行錯誤がありました。
だからといって「私には相対的に考える権利がある」ということを意味しません。
人間は「聖書を示されたら問答無用に即座にそれを採用する」という義務があります。
「即座に採用することはできても、腹に落ちるかどうか別物だ」というかもしれません。
もちろんです。
しかし「他人の持ち物に手をつけてはならない」という法律を犯して「まだこの法律について納得がいかないから逮捕は勘弁してください」とは言えません。
法律の存在と、それを納得すること、とは別のことです。
被造物には、神の言葉を即時、問答無用に受け入れて、従う義務があります。
相対主義は、あらゆる点から見て幻想です。
4.
私はこの世界が創造された世界であるとは考えていません。
コンビニに入って「私はこのコンビニにあるものはすべて自由にできると信じている」と言って勝手に持ち出したら、逮捕されます。
それと同じように、自分がどの考え方を持っていたとしても、この世界は創造された世界であり、そのことは「神が万人に被造物を通じて明示しているので言い逃れできない」と聖書にありますので、神の法に反することをすれば裁かれます。
私個人にとっては、誰が何を信じようが自由なので、強制はできませんが、ただ聖書が教えていることを伝えさせていただきました。
5.
積極的にキリスト教に逆らわず、ただどの宗教を選択するか迷っているだけでは罰せられないでしょう。
神の選択肢には、中立はありません。
人間には宗教を選択する権利はありません。
選択する権利があるというのは「人間は被造物ではなく、神を超えた主権者である」という宣言と同値です。
もともと人間は神によって「神の目的のために」創造されました。
会社で仕事をせずに油を売っていたら解雇されるのと同じように、「聖書にしたがって神の国のために働くことをしない」という選択肢はありません。