「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。 

それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。 

私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。 

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。 

それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。 

このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(1テサロニケ4・14-17) 


これはいわゆる「携挙」と呼ばれる記事である。 

「生き残っている私たち」とあるので、携挙は、パウロと同時代に起きたのである。 

「神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られる」 

旧約時代において、クリスチャンは死ぬと「眠った」。 

まだよみがえりがなかったからである。 

彼らは黄泉の中の「なぐさめの場所」に行って、アブラハムとともにいた。 

旧約時代のノンクリスチャンは、黄泉の中の「地獄」に行って、火の中で苦しんだ。 

旧約時代のクリスチャンは、イエスとともによみがえり、携挙のときに「いっしょに連れて来られ」た。 

ノンクリスチャンはそのまま地獄にとどまった。 

携挙の順番は次のとおり: 


1.イエスが、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られる。 

2.キリストにある死者が、まず初めによみがえる。 

3.イエスが、よみがえった死者を連れてやってくる。 

4.生き残っているクリスチャンが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う。 

5.クリスチャンは、いつまでも主とともにいる。 


紀元70年以前に、文字通りこのことが起きた。 

それゆえ、現在、死んだクリスチャンには、体がある。 

よみがえっているからである。 

紀元70年以降に死んだクリスチャンは、眠ることはない。 

なぜならば、紀元70年以降において、黄泉の「なぐさめの場所」の人はよみがえって主とともにいるから。 

パラダイスがある以上、その中間地は不要である。 

黄泉の「地獄」は、今もそのまま存在する。 

歴史が終わり、永遠の世界が到来するときに、地獄にいた人々は、体を与えられて「火の池」に投げ込まれる。 

ノンクリスチャンは、死後、黄泉の地獄に行く。 

そして、歴史が終わるのを魂の状態でそこで待つ。 

そこは「火の池」と比較すれば序の口である。 

火の池では、永遠の体で過ごさねばならないからである。 

魂の苦痛に、体の苦痛が追加される。 

永遠をパラダイスで過ごすのか、火の池で過ごすのか。 

決断は今だ。 


こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8・1)