1. 

不倫、不倫と、出るわ出るわ。 

日本人は堕落した。 

結婚契約が神の御前でどれだけ重要であるか知らないからである。 

だから、簡単に配偶者を裏切れる。 

結婚とは、二人の他人が契約によって合一することであり、神の似姿である。 

神は三人おられ、契約によって一人の法人として存在する。 

同じように、夫婦は一人の法人なのである。 

2. 

神よりも前に存在する法体系はない。 

神は無から世界を創造されたので、すべての法体系は神の法に従属する。 

神は誠実か、という問いは間違いである。「神が誠実の基準」なのである。 

誠実という価値が、神と無関係に、神よりも前に存在したのではなく、神に似ることこそが誠実なのである。 

神は美しいか、という質問は無意味である。 

神よりも先に基準は存在しなかったのであるから、「神が美」なのである。 

神が美の基準であり、醜は神から離れることである。 

太陽の下で、雪だるまが次第に溶けて崩れていくように、醜さの程度とは、「神の似姿としての人間」という理想形からいかに乖離しているかで計られる。 

3. 

よい夫婦とだめな夫婦の基準は、なにか。 

神により似ている夫婦がよい夫婦であり、神から乖離している夫婦がだめな夫婦である。 

神の三位は互いに対して誠実である。 

だから、互いに対して誠実であればあるほど、その夫婦はよい夫婦である。 

神の三位は互いに対して愛し合っておられる。 

だから、互いに対して愛情が深ければ深いほど、その夫婦はよい夫婦である。 

神の三位は互いを完全に知っている。 

だから、互いに対して深い知識を持てば持つほど、その夫婦はよい夫婦である。 

「神と似ているかどうか」が、価値の高低を決定する。 

ローマ・カトリックのように、神以前に自然秩序が存在し、自然法が存在したと考えると、言葉の定義が変わってくる。 

たとえば、「略奪愛」なるものが登場する。 

「他人の結婚関係を破壊するほど激しく愛する愛」 

こんなものは、愛でもなんでもない。 

なぜならば、神は三位が互いに誠実であり、絶対的な信頼関係で結ばれているからである。 

このような神の誠実な信頼関係を構築することが人間の目的であり、それを支援するのが本当の愛である。 

それを破壊するようなのは、愛ではなく、憎悪である。 

結婚関係の破壊に導くポルノは、それゆえ、憎悪である。 

聖書的キリスト教は、価値基準を神に置く。 

ローマ・カトリックは、価値基準を神とは別に本質的に存在する自然秩序と自然法に求める。 

聖書は、「神は無から世界を創造された」と述べている。 

だから、われわれは、神以外に基準はないと考えるべきである。 

4. 

人間はどんなに否定しても、契約的存在であり、生まれたときに、いや、生まれる前から、契約の文脈の中に置かれている。 

われわれはみな、契約違反者の子孫である。 

それゆえ、契約のトップとの関係を続けている限り、そのトップと同じように、滅びる。 

契約のトップをすげ替えるべきである。 

キリストの契約に入るべきである。そうすれば、われわれは、キリストと運命をともにする。すなわち、復活と永遠の命である。 

5. 

ダビデは掟を愛していた。 

なぜか。 

掟によって、間違った道に進む危険を回避できるから。 

掟がなければ、余計な苦労をし、多くの人を傷つけることになる。 

芸能人やら著名人を見てほしい。 

多くの人が、結婚関係を軽視したがゆえに社会的地位を失い、没落していった。 

神は、侮られるお方ではない。 

種を蒔けば刈り取りをすることになる。 

契約違反には必ず結果が伴う。 

結婚関係を破壊して幸せになれる人は一人もいないのである。