1.
もし地獄が存在しなければ、神は義ではない。
神は、法制定者である以上、どうしても罪を裁かざるをえない。
法制定者が違反者を裁かなければ、その法律の無効を宣言したに等しい。
たとえば、警察が「今後、交通違反は取り締まらない」と発表し、実際に、目の前でスピード違反があっても取り締まらなければ、交通法規は存在しないも同然である。
交通法規が存在しなければ、道路は危なくて車を運転できなくなる。
なぜならば、赤信号を突破する車が増えるから交差点での事故が激増するだろうから。
交通事故死者の激増、車の利用者の激減。
結局、交通秩序は崩壊し、市民は自動車という文明の利器を利用できず、不自由を味わうことになる。
社会を維持するためには法律が必要であるだけではなく、刑罰も必要なのである。
だから、「罪人を裁く神は愛ではない。」という人は、創造秩序の破壊を推進している。
サタンの究極的な目的は、神の作られた世界を毀損し、破壊し、無に帰することである。
それゆえ、地獄を否定する人は、サタンの仲間なのである。
2.
「天地が作られる前から救われる人の数は決定されているなんて、予定論は愛がない。」という人が多い。
もし救われる人があらかじめ決定されているのでなければ、神は、人間の決断に依存するということになる。
人間が救いを受け入れるかどうか、はらはらしながら待っている神。
こんな行き当たりばったりの神は聖書のどこにも記されていない。
ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
わたしがあなたとともにいるのだ。・・・この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。(使徒の働き18・9-10)
神は、まだ福音が伝えられていないその町に「わたしの民」をたくさん用意しておられた。
だから「語り続けなさい」と。
神は救われるべくパウロの話を受け入れる人をあらかじめ用意しておられた。
救いはこのように神の一方的な決定によって実現する。
予定された人だけが救われるのである。
これは、愛のないことなのだろうか。
人間が滅びるのは、自分の罪による。
借金を作った人が、貸主に返すのは当然である。
罪を犯した人が、刑罰を受けるのは当然である。
選ばれていない人間が滅びるのは、当然である。
神を責めるのはお門違いである。
たとえば、ある監獄にAとBの二人の囚人がいたとする。二人とも同じ強盗の罪を犯して服役している。
Aには恩赦が与えられて釈放されたが、Bには与えられなかった。
Bは、恩赦を与えた政府に文句を言えるだろうか。
「Aだけずるい。不公平だ」と。
不公平だと責めるのは、自分が何も悪いことをしていない場合だけである。
自分はたしかに強盗を働いた。
その当然の報いを受けている。
だから、牢屋に閉じ込められているのが彼の「正常な状態」である。
Aが釈放されたのは、一方的な恩恵であり、Aにとって「当然の報い」ではない。
Aは「本来ならあのまま牢屋に入っているべき人間なのに、こうやって自由になれて本当に感謝です」と告白しなければならない。
神の救いは、当然の報いではなく、特別な恩恵である。
神がある人を救い、ある人を滅ぼしても、何も責められるべきところはない。
予定論を信じるカルヴァン主義者と信じないアルミニウス主義者の違いは、救いを「純粋な恩恵」と見るか見ないかの違いである。
前者は救いを「身に余るお取り扱い」と感じ、後者は「当然」と感じている。
予定論を否定するほうが愛がある態度と誤解する傾向があるが、逆である。
予定論の否定は、パリサイ的である。
さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、
泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。
するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。
「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。
そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。
あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」(ルカ7・36-47)
罪を赦されたことを「当然」と考えていたパリサイ人。
アルミニウス主義者は、実際のところ、神には感謝していないのである。