「今の○○学では××と考えられているので、お前のは間違いだ」というような論の立て方は、自己矛盾しており、科学的な態度ではない。なぜならば、
(1)人間の認識能力に限界がある以上、科学は、反証の可能性を常に残さねばならないから。つまり、科学的な態度は、「今の科学的知識は、暫定的であり、新しいデータの獲得とそれに基づく論証によっていつでも覆される可能性がある」と認めなければならない。だから、絶対に正しい学説などこの世には存在しない。ある学説を絶対視することは、人間の認識能力の限界を認めない態度であり、科学の否定である。
(2)それゆえ、科学は、仮説を立てることを常に許容しなければならない。歴史的事実や文献から、ある出来事が起きた可能性について推測し、仮説を立てることは、常に許容されなければならない。実証されていないものだけが公表でき、仮説は公表してはならないという規則はない。もしそのような規則があるとすれば、議論は不可能になる。そもそも(1)の原則に従えば、すべての学説は仮説である。仮説を立てたり、公表することを禁じる行為は、教条主義であり、科学ではなく宗教の認識の方法である。仮説を立てたり公表することを禁じるならば、科学の発展はそこで停止する。
(3)科学的知識は、もっぱら経験に基づくゆえに、限定的であり、それ自体が世界観を形成できるようなものではない。科学は、いわばチーズに穴を開けて、その穴の部分だけを食べるようなものである。チーズ全体を食べるには、世界観を利用しなければならない。例えば、Aさんの面接において、面接官が、学業の成績、性格検査、適性検査などのデータを集めたとする。それらのデータだけではAさんの人物を評価できない。一つ一つのデータは科学的に得られたものであり、その人のその一部分を示しているかもしれないが、全体の人物評価にはそれらのデータの総合が必要である。これは、科学的な認識方法である「論証的認識」ではなく、「直感的な認識」の方法によって行われる。それゆえ、科学だけでは人間は生活できない。直感的な認識法を利用し総合判断をしない限り、生活は不可能である。
(4)ある仮説について「今の○○学では××と考えられているので、お前のは間違いだ」という人は、科学的ではなく、宗教的である。科学的な批判をする人は、相手の矛盾や論理の飛躍などを具体的に指摘しなければならない。そういう作業を吹っ飛ばして批判するならば、その批判は直感的であり、科学的態度ではなく、宗教的である。自分が科学の側に立っていると自覚しているならば、相手の説について、具体的に反証を試みるべきである。
だから「アダムとエバが本当にいたと思っているなんて馬鹿みたい」というような人は、科学的ではなく、宗教的である。その人は、自分では気づいていないが、宗教家なのである。科学的であろうとするならば、アダムとエバの不在を具体的に理由を示して証明しなければならない。