テオトコス論争は小生もネストリウスを支持しますが、ネストリウス派(の一部?)神格と人格の分離を強調する余り、バプテスマを受けたときに聖霊が下るまで、ナザレのイエスはただのひと(つまりその時点までは神格はなかった)と主張した、だから「聖霊を受ける」とひとはイエス様と同じわざが出来る、即ち(いわゆる)「聖霊のバプテスマ」は信仰告白や「水のバプテスマ」とは別個のもので、「力あるわざ」のためにすべからくクリスチャンは「聖霊のバプテスマ」を受けるべし…T牧師らや例のウィットネス・リーのグループなどカリスマ派の主張です。
ネストリウス本人の論説ではないかもしれません。
手持ちの書籍から:↓
ネストリオスはキリストの人間性にのみ執着した結果、彼の神性と人間性を分離し、人間性は自由意思によって神性と結合すると語る。キリストはもはや神ではなく、神の宿る人間主体と考えられた。この教説の当然の帰結として聖母マリアのもつ「神の母」(テオトコス)という称号も否定されることになる。
(ロースキー「キリスト教東方の神秘思想」勁草書房1986 24ページ)
1.
キリストが処女降誕で生まれたのは、物理的にアダムの子孫であってはならないからです。
アダムの遺伝的性質を受け継ぐことになれば、キリストの肉体は罪を帯びてしまいます。
なぜならば、エデンの園において、アダムは全的に堕落し、その霊も肉体も堕落したからです。そして、聖霊はアダムから去りました。
アダムから生まれてくる人々は、すべて「生まれながらに御怒りを受けるべき子」となりました。
もしイエスが、「バプテスマを受けたときに聖霊が下るまでただのひと」であったのであれば、イエスもアダムと同じように自分の罪のために刑罰を受けなければならず、他人の罪を背負うことはできなくなります。
ネストリウスは、完全な異端です。
イエスは、ヨセフとマリアのいずれの遺伝子も受け継がれず、そこに絶対的な断絶があります。
ですから、マリアは「神の母」ではない。
イエスが女性から生まれたのは、契約を守るためです。
アダムが本来守らねばならなかった契約を身代わりに成就するために、あえて普通の人間の誕生をされた。
しかし、普通の人間の誕生であれば、遺伝子を受け継ぐことになり、アダムの罪の肉体と一体であるということになる。
そこにおいては、アダムとキリストの間には、絶対的な断絶がありました。
物理的には別の人間です。イエスは完全に新人類。聖霊はマリアの胎内で新しい人類を「創造」された。
しかし、イエスは契約的には正真正銘の人間であり、それなるがゆえに、われわれアダムの子孫の身代わりになることができる。
2.
それゆえ、アダム族として生まれてくるわれわれは、アダムとの契約的絆を断ち切って、新人類であるキリストと契約を結び、キリスト族になるべきです。
それが、「信仰のみ」によって可能になる。
誰でもイエス・キリストを救い主として信じるならば、もはやアダム族ではなく、キリスト族になる。
そして、キリストと運命共同体を形成し、キリストと同じように復活し、永遠の命を受けて、世界の王と祭司になる。
「水のバプテスマ」はその信仰の契約的象徴であり、人は水のバプテスマによって救われるわけではない。
また、新たに「聖霊のバプテスマ」を受ける必要もない。
それは、救いの条件ではなく、信仰者にもれなく与えられるもの。
この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。(エペ1・13)
聖霊は、われわれが救われていることの「証印」であり、それゆえ、信仰を持つ誰にでも与えられるものです。
もしサタンが「おまえは本当に救われているのか」と聞いてきたら、「私のうちにお住まいである聖霊がその証拠です」と答えるべきです。
それゆえ聖霊のバプテスマは、信仰したときに与えられるものであり、「力あるわざ」のために特別に与えられるものではありません。
たしかに、聖霊の特別の力づけはあります。特別な働きをする際に、聖霊が励ましてくださることはある。
しかし、何か特別な儀式や現象のようなものとして別格扱いをするべきではない。
3.
この世界で、キリストおひとりが「新創造」です。
その他は、六日創造のときに作られたものの延長。
われわれの体も、細胞一つ一つに至るまでアダムの性質を帯びている。
われわれのDNAは2分の1は父または母から受け継いだもの。
その父や母もその父母から受け継いでいるので、われわれのDNAの4分の1は父方の祖父、母方の祖父、父方の祖母、母方の祖母から受け継いでいる。
つまり、私たちの両方の手と足はそれぞれ4人から受け継いでいると考えたらわかりやすい。(実際はどの部分が祖父母から受け継いでいるかは個人個人別である)
その祖父母すらもその父と母から受け継いでいるので、われわれの体の8分の1は曽祖父母から、16分の1は高祖父母から、32分の1は・・・
こう考えると、われわれの体の何百何千もしくは何万分の1かは、アダムとエバから受け継いでいるとわかります。
つまり、われわれは物理的にアダム族なのです。
しかし、信仰に入ることにより、物質的・物理的アダム族であるわれわれは、契約的にキリスト族になる。
キリストの物理的子孫ではないが、しかし、神は契約によってキリストの物理的子孫とみなしてくださる。
ですから、われわれは養子縁組で神の子供となった。
本当の物理的な「神の子」はキリストだけです。処女降誕の際に直接イエスの体は聖霊によって創造された。
われわれは、直接物理的に創造されたわけではないので、法的、契約的に、神と親子関係になった。
この世の法律でも養子縁組で子供となった場合、親から遺産を受け継ぐことができますが、同じように、われわれも神からキリストへのすべての相続財産に与ることができる。
法的・契約的な子供を実の子供よりも低く見る考えは聖書的ではない。
なぜならば、それを言えば、多神教になるから。
神は3人おられるが、契約を結んで一人である。
聖書において「神はおひとりです」と言われているのは「法的に一人」ということであって「存在論的に一人」ということではない。
もし「存在論的に一人でないならば、一人とは言えない」ということであれば、それは、神のものの見方に対する挑戦です。
われわれは、神のものの見方にしたがって世界を見るように命令されているのです。
だから、養子を実子よりも低く見てはならない。
契約的一人が存在論的一人よりも劣っていると考えることができないように、契約的子供が物理的子供よりも劣っていると考えることはできません。
4.
キリストおひとりだけが、物理的にも契約的にも「神の子」。
クリスチャンは、物理的にはアダムの子孫だが、契約的には神の子。
ネストリウス派は、キリストも物理的なアダムの子孫といい、キリストとクリスチャンの区別をしない。
カルケドン会議で、「キリストの二性二人格」が否定され、「二性一人格」が決定されたことによって、
キリスト以外、この地上のいかなるものも、神格化できない
という原則が確立されました。
動物も人間も、国家、世界政府も、いかなるものも、神としてはならない。
なぜならば、物理的にも契約的にも神の子である存在はイエスおひとりであるから。
「クリスチャンが聖霊のバプテスマを受けるとキリストと同じように力あるわざを行える」というのは、人間の神格化であり、偶像礼拝です。
クリスチャンが力あるわざを行えるのは、信仰によって「契約的に」イエスにつながっているからです。
クリスチャンは契約的に神の子であっても、存在論的にはアダムの子です。
アダムの子は、被造物であり、それゆえ、神格化してはならない。
この世界にあるもので、神格化してもよい存在はキリストだけです。