身体的な感染のリスクを避けなければならないのと同様に、道徳的な感染のリスクも避けられなければならない。
この点について明白に記されている。

<ついで主はモーセに告げて仰せられた。
「イスラエルの人々に告げて言え。わたしはあなたがたの神、主である。
あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。
あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。
あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。(レビ記18・1-5)
あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており(レビ記18・24)
あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行なわれていた忌みきらうべき風習を決して行なわないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ記18・30)
あなたがたが、わたしのすべてのおきてと、すべての定めとを守り、これを行なうなら、わたしがあなたがたを住まわせようと導き入れるその地は、あなたがたを吐き出さない。
あなたがたは、わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国民の風習に従って歩んではならない。彼らはこれらすべてのことを行なったので、わたしは彼らをはなはだしくきらった。
それゆえ、あなたがたに言った。『あなたがたは彼らの土地を所有するようになる。わたしが乳と蜜の流れる地を、あなたがたに与えて、所有させよう。わたしは、あなたがたを国々の民からえり分けたあなたがたの神、主である。(レビ記20・22-24) >

最後の宣言において神は、ご自身のことを、他の民族から御民を分離する神と称された。これは救いの基本である。宗教的及び道徳的な分離は、聖書法の基本的な側面である。病気からの分離が感染予防に必要であるのと同様に、宗教的及び道徳的な悪からの分離は、真の秩序を維持するうえで必要である。

このように、分離または分離は、宗教と道徳に関する聖書法の基本的な原理である。この原理を破壊するすべての試みは、社会を最小公倍数に落とそうとする努力である。寛容とは、この平準化の試みを成功させるための弁解であるが、寛容の概念の背後には根本的な不寛容さが隠れている。寛容の名のもとで、クリスチャンは、無神論者や背教者、犯罪者、他の宗教者と、あたかも両者の間にはいかなる違いもないかのように、完全許容という共通基準のもとでかかわり合うことを求められる。クリスチャンには、万人に対して合法的に接する義務があり、しかるべき時に恵みと福祉を示す義務があるが、クリスチャンとノンクリスチャンを区別する違いに価値があることを否定する義務はない。寛容の名のもとで、クリスチャンはすべてを許容することを求められる。なぜならば、ノンクリスチャンが何も許容しないからである。つまり、これはノンクリスチャンの条件に基づく生活なのである。聖書的秩序は存在を否定される。なぜならば、すべてのことは低いレベルで一致しなければならないからである。

この不寛容を示す穏健な一例が、アン・ランダーズのコラムで紹介されていた。

<アン・ランダーズ様:なぜあなたは、事実を知らずに処女を称賛するのですか。この白人のフラワーガールの何人かに会うことができるならば、あなたは、彼女らがそれを渡すことができないとわかるでしょう。四六時中男性に追いまわされ、時々つかまるような人気者のセクシーな女の子を賞賛するためになぜあなたの貴重な新聞スペースを使わないのですか?

私は、速記会社で若い女の子とともに10年働いてきた40代半ばの女性です。小さな白いシャツとウエストブラウスを着、オックスフォード靴を履いた、清純を鼻にかけ、自分に選択権があるかのようにふるまう善良ぶったタイプを見かけますが、気分が悪くなります。

つい先週の金曜日に、すてきな小柄の赤毛の21歳の女の子が、女子部屋ですすり泣きながら打ち明け話をしてくれました。ルーシーは、6ヶ月間付き合った社長に捨てられたのです。彼らはとても親密で、ルーシーのほうは結婚を期待していました。このようなひどい事をされたのは、4回目でした。ルーシーのような女の子には、アン・ランダーズが「あなたは悪くないのよ」と言ってあげる必要があります。けなすのではなく、励ましてあげてください。私は12年間あなたの無分別なコラムの読者です。あなたは大ばか者だと思います。―ママ・レオーネ。

ママさん、お世辞をありがとう。でも、完全な人は誰もいません。私は、寝室が玉の輿への近道であると思う女の子にあげられるような善行勲章を持ち合わせていません。そして、同じミスを4回もするような女の子は、(丁寧な言葉を使えば)学習能力のない人と言えるでしょう。3 >

「ママ・レオーネ」からの手紙には、身持ちの悪い女の子に対する強い同情と、美徳に対する苦々しい敵意が現れている。この女の子は、ママにとって素敵な人なのである。ここには、いかなる寛容もない。あるのは、野蛮な不寛容さだけである。

現代における寛容の原理の基本的な前提は「すべての宗教的及び道徳的な見解は等しく真実であると同時に等しく間違いである」である。要するに、この寛容が依拠しているのは、次のような過激な相対主義とヒューマニズムである。「どの宗教にも、特定の真実も道徳的な価値もまったく存在しない。真の価値は人間そのものであり、その道徳的または宗教的な見解がどのようなものであれ、人間自体は完全に受容されるべきである。」 ウォルト・ホイットマンは『普通の売春婦へ』という詩の中で「太陽があなたを退けない限り、私はあなたを退けない」と宣言した。この相対主義的ヒューマニズムは、完全な受容と完全な統合を要求する。それゆえ、この立場は、すべての非ヒューマニズムの見解を同じレベルにまで貶め、人間をそれらの上に主人として据えるがゆえに、基本的に反キリストである。(つづく)