集団による接待講

接待について

 

四国遍路その後

 

2024/06/25

 

 今月四国遍路がめでたく結願しました。四国の遍路についていろいろと考えていましたら、接待についての放送がありました。かつての集団接待について、NHKの4Kで蘇る新日本紀行で「お接待船団」という番組です。地元の四国以外の人々の接待講という組織があり、今も続くことを知りました。(私は今回四国巡礼に一緒に行った方々に、おりおりの巡礼の写真をもらっていただきました。私にとっての接待でした。)

 

 和歌山の有田から接待講があり、3,600世帯が参加して、有田ミカンやお茶などを接待品として、漁船20隻を連ねて四国に来たと言います。この放送時の昭和50年(1975)の時は、8隻の船団でした。始まりは1818年頃で200年も続いています。和歌山の有田から、対岸の徳島鳴門市の第1番札所霊山寺に1週間ぐらい寝泊まりして、巡礼者にミカンなどでもてなしていました。それは大師さんを大切にもてなすことにつながり、お遍路さん達が接待を受けてくれること自体に喜びを感じる人々が四国以外にもいました。漁業の船を出して船団を組み、その功徳によって大漁になり、接待をした人々の幸福に繋がっていきます。

 

 あれから50年、今はどうなっているかの報道もありました。今も続いていました。規模は小さくなり、船団ではなくフェリ-に乗って接待のミカンなどの荷物をもって臨んでいました。

 有田特産のミカンをはじめ、お遍路さんに手渡される心づくしの品々は、すべて有田地方の家々から提供されたものです。
かつては帆のついた船で紀伊水道を渡って来ていた接待講。今は交通の便が良くなったとはいえ、千軒以上の家々から品物を集め、お接待が終わると今度はお寺のお札を一軒一軒配って回るなど、大変さは昔と変わりません。
 

 

第1番札所霊山寺

ミカンの接待

--------・--------・

 

  有田接待講その沿革

 有田接待講は、和歌山県の有田市・有田郡全域と海草郡下津町小原地区の人々によって構成され、毎年春に紀伊水道を渡って徳島県鳴門市の一番霊山寺で接待を行っている。その起源は古いとされ、大正7年(1918年)に有田市箕島(みのしま)の天甫(てんぽ)山大師堂(写真1-1-8)に建立された「弘法大師献供物品接待開始一百年記念」の石碑の碑文によると、接待講の活動が開始されたのは文政元年(1818年)ということになる。現在、接待講の責任役員(昭和7年生まれ)は、「有田市を流れる有田川の源流は高野山へと通じており、四国遍路を終えて高野山へ向かう大勢の参詣者が有田の地域を通っていました。この地方の人々は、古くからそういうお遍路さんたちに食事を与えたり宿泊させたりしていたのです。このように、この地方にはもともと接待の土壌があり、その中から有田接待講の組織的活動が始まっていったのではないでしょうか。」と語る。
 その後、この接待講は、明治維新前後の混乱期や明治34~35年(1901~02年)ころの組織の分裂期など、幾たびかの盛衰を経た。さらに太平洋戦争によって一時中断した後、昭和22年(1947年)に再開されて現在までその活動が続いている。なお、有田接待講の活動拠点は天甫山大師堂にあり、ここは僧侶など聖職者のいない宗教法人「有田接待講 天甫山大師堂」となっている。毎月20日・21日には月参りと呼ばれる大師講の例会がここで開かれ、四国遍路への接待は年間で最も大きな行事となっているのである。


昭和40年代の有田接待講

 昭和47年(1972年)時点の有田接待講
  この年の接待講の組織は、講元1名-講世話人21名-各地区の世話人(収集世話人)92名からなり、有田市を中心に有田郡・海草郡の一部を含んだ合計3,657戸の家庭から接待品の提供を受けた。まず2月に各地区の世話人に講側から接待台帳が配布され、世話人たちはそれを持って地区の各戸を回って金品を集める。こうして集められた金品は天甫山大師堂で整理・荷作りされた後、接待を行う世話人や講の遍路希望者たちと共に、地元の漁師たちが出す20隻ほどの漁船で鳴門市の撫養(むや)港へと海上輸送される。この輸送は無料奉仕であり、漁師たちは輸送の功徳で大漁の幸があることを期待するのである。
 撫養港からはバスやトラックに分乗して霊山寺まで行き、その日から接待を開始する。霊山寺境内の山門脇には、同じ和歌山県の野上施待講と共同で建てた接待所がある。接待所で宿泊し自炊して、その軒先に接待品を並べて接待を行うのである。この年は、旧暦3月の節句にあたる4月16日を中日(なかび)として、13日から19日までが接待期間であった。
 接待品の中心は、三宝柑(さんぽうかん)(和歌山特産のミカン)とその上に置いたさい銭の10円王である。ちなみに、この年に霊山寺に持ち込まれた接待品は金銭316,550円・三宝柑70箱(15kgダンボール箱)と、そのほかにも草履(ぞうり)50足・手拭(てぬぐい)130本・靴下150足・襦袢(じゅばん)23枚・下着17枚・軍手87足・チリ紙15束があった。そうして1週間の接待期間が終わると、再び有田からの迎えの漁船に分乗して帰還したのである。


現在の有田接待講

 平成14年の有田接待講を昭和47年当時と比べてみると、時代の流れの中で幾つも変化した点が見られる。まず現在の組織については、責任役員3名のもとに地区の世話人が127名という構成になっており、接待期間は以前の1週間から5日間に短縮されている。接待品などの輸送は、漁船からフェリーで渡海するトラック輸送に変わった。金銭の出し入れを細かく正確につけるため、パソコンを用いた会計処理を始めた。各家庭が出してくれる接待品は、そのほとんどが金銭になった。


 しかし時代は変わっても、接待講の世話を行う役員の苦労は変わらない。有田接待講責任役員によると、役員は接待行事の準備・実行の全般にわたって取り仕切り、無事接待を終えて地元に帰っても、接待後の決算や、霊山寺でもらった御影(みえい)・祈禱(きとう)札などを、各家庭にお礼としてお返しする段取りを行わなければならないという。


 接待講の世話のために年間40日間くらいは自分の仕事ができないということだが、「そうまでしてなぜ接待の世話をするのかとよく言われますが、経済的には全然自分の得にはならないけれども信仰のためだということです。おかげさまで健康であることに感謝して、お遍路さんへの奉仕を続けさせていただいているのです。」と語る。ただ最近、徐々に接待への参加者が減少しつつあるのが気になるようで、「昭和の時代までは、接待への参加希望者は大変多かったのですが、残念なことに、平成に入ったころから徐々に少なくなってきました。ここ数年は15名程度でしたが、今年の参加者は男性2名・女性6名の合計8名です。」と心配する。さらに今後の後継者の問題についても、「これからもずっと接待講が続いていくことを願っています。世話人は責任が重い役目ですし、自分の生活をある程度犠牲にしなければなりません。そろそろ自分の後を継いでくれる人を探したいと思っています。」と気にかけている。