代官鈴木重成の仁政

島原の乱後、復興

 

 昨日12月18日(水)の日経新聞の文化の欄に、鈴木重成をまつる鈴木神社(天草市)の宮司を務める田口孝雄さんの記事が出ていました。

 島原の乱の鎮圧で荒廃してしっまった天草を懸命に立て直した代官鈴木重成の仁政について書かれていました。「天草島原一揆後を治めた代官鈴木重成」(弦書房)の本まで著されています。

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 初めて知ったことが一杯ありました。

・耕作者が激減した両地方の復興にあたり、必要なのは人手だった。幕府は重成の献策をいれ、近隣諸藩に1万石につき1戸の移住家族を出すよう要請。移住者には住まいや当面の食料、農具、種苗を与え、3年間年貢も免除するなど優遇した。

 

・荒れた人心の復興にも努めた。大きな役割を果たしたのが実兄の僧、正三(しょうさん)和尚である。庶民のための仏教と勤勉の哲学を説いて重成の復興政策を後押しした。当時、幕府は新たな寺院の建立を原則として禁じていたが、2人は幕府を説得し、資金の投入と寺社領300石を認めさせ、一揆で無残に失われた寺社を再興していった。

仏式のキリシタン供養の碑

 日経新聞より

 

・重成は原城で落命したキリシタンを慰霊したことでも記憶される。死者のため、原城近くと天草富岡の首塚に供養碑を建て、怨親平等(おんしんびょうどう)の鎮魂慰霊を尽くした。

 

・天草の石高4万余石は明らかに過大評価であり、島民は過剰な負担を強いられていた。年貢上納にあえぐ百姓を目の前にして、重成はじっとしていられなかった。年貢4~5割徴収が当たり前の時代に、天草では2割前後しか徴収されない年が11年も続く。幕府代官決死の決断だった。