東方不死死 第74章 「必至必死」


 天空を支え押し上げた巨大向日葵の群立は、次第にその密度を減らしてゆき最後の一本がその短い生涯を終えて残骸を中空に霧散させると、幻想郷は再び静寂に支配された。
 不死鳥の浄化の炎を防ぐ結界を張った博麗霊夢と、巨大向日葵で墜ちてくる空を支えた風見幽香の活躍によって、幻想郷最大の危機は今正に取り除かれたのだ。
 しかし、不安要素はまだ存在していた。結界の向こうに未だ存在する不死鳥の浄化の炎である。
 
 八雲紫が不死鳥の転生を期に滅却しようとしたスキマ爆弾が誤爆してしまい、彼女の主要能力であるスキマの能力が一時的に制御不能に陥っていた。
 スキマ爆弾とは、月と地上の境界を消し去る爆弾で、八雲紫が1000年前に自ら引き起こした月面戦争の敗北における報復の為に、その場の思いつきで造ってしまった制御できない非常に危険な爆弾である。
 この爆弾は周囲の制止によって使われずに済んだものの、処分出来ずにスキマの彼方に封印した、制作者本人が造った事を後悔している汚点、負の遺産である。
 八雲紫は、異変に託け不死鳥の浄化の炎でそれを焼却しようと目論んだが、これを藤原妹紅に利用され誤爆させられたのである。
 このスキマ消失の事実は極一部の関係者しか知らず、異変の作戦総司令官に抜擢された吸血鬼レミリア・スカーレット以下会議のメンバーは、何れ浄化の炎はスキマによって外界に少しずつ排出され、異変はそれほど遠くない未来に無事解決するものと信じて疑わなかった。
 そのスキマ消失の事実を知らない会議のメンバーにとっての当面の問題は、結界の向こうに取り残されている人間の魔法使い霧雨魔理沙の安否であり、彼女の帰還を以て異変解決を宣言するところであった。

「魔理沙は無事なの?」
 レミリアの問いかけに瞑想する紫にかわって九尾の八雲藍が応える。
「先程の爆発で魔理沙は回避行動を取って脱出予定位置からだいぶ離れてしまっている。今、現在地点から脱出地点までナビゲート中だ。今暫く時間を要するだろう。」
 これは、スキマの力が消失し魔理沙に関する情報を完全に失った藍の完全なホラ話だったが、魔理沙を脱出させる上で実際に紫がナビゲートし、スキマ砲と同じ原理で来た道を戻る単純な脱出方法や、万が一に備えた保険を幾つも用意していたのは事実で、スキマが正常に働いていれば藍の尤もらしい嘘は現実のものとなっていたはずである。
 八雲藍は霧雨魔理沙は既に死んでいると確信していたので、十六夜咲夜の口車に乗ってしまったが、彼女の言う通り黒い魔法使いは未だ存命のようである。俄に信じられないが藤原妹紅と裏で手を結んでいるという事実を知らされた後では、魔理沙が生き残っている可能性も万に一つくらいはありえない話しではないだろう。
 覆水盆に返らず。藍としては過ぎた事よりもこの後が問題だと睨み思考を巡らす。

 『どうやって魔法使いを脱出させるのか?である。』

 灼熱地獄から身を守る事は出来ても、霊夢の結界を物理的に超える事は人間の魔法使いの今の能力では到底不可能であるし、紅魔館の魔法使いでも無理だろう。頼みの綱である妹紅も自爆して今は現世にいない。魅魔のような実体のない霊的存在なら物理的にも魔法的にもすり抜ける事は簡単であろうが、今彼女は存在しない。
 何か魔法以外の別の能力を使えば或いは何とか出来るかもしれないが、その能力が空間を自在に行き来出来るスキマの能力だけである以上、その手段は今現在この時間帯にそれは存在しない。仮にその能力が使えたとしてスキマ砲の様に炎熱を逃がす空間を作らずに直接結界に穴を空けるような安易な真似をすれば幻想郷を焼き払ってしまいかねない。
 或いはこの黒い魔法使いにコアの破壊だけをさせて、後は見殺しにするという可能性もある。いや、むしろこちらが本命だろう。どう考えても霧雨魔理沙と紅魔館、藤原妹紅との間に接点が見いだせない。こちらが魔理沙を利用した様に、彼らも小賢しい魔法使いを利用し、使い捨てたと考えるのが自然である。
 特にあの邪悪な藤原妹紅が絡めば尚更であると、人間、特に藤原妹紅を信用していない藍は率直にそう考える。
 異変という名の演劇の舞台から下りた八雲紫と藍側には、立場的にも能力的にも手出し出来ない状況である。ただ、周囲は未だ主導権をこちらが握っていると認識しており、紫が魔理沙の命を預かっていると見ている為、周囲の期待に合わせて茶番を演じるしかなかった。
「(あのメイドめ・・・。)」
 幻想郷が滅びるという予測に自信があった為、メイド長十六夜咲夜の提案に従い異変を放棄して舞台を下りてしまったが、幻想郷の滅亡が直ちに起こらなくなってしまった為、完全に無意味なものになってしまった。
 魔理沙がこのまま想定通り死ねば、それは作戦を立てたこちら側の責任になるし、無事脱出したとしてそれは当然の結果で、功績は黒い魔法使いと指揮官側に帰し、八雲紫が賞賛されることはない。そもそも、魔理沙を突入させてしまうという最後の手段に出なければならない状態に追い込まれた事が既に失敗なわけで、この時点ではもはやこちらが賞賛される要素は皆無なのである。
 このまま幻想郷が滅ぶのなら当初の予定通り幽冥結界を経由して冥界に逃げるだけだが、もし、逃げた後で幻想郷が維持されていれば、こちらは敵前逃亡したと受け取られ、逃亡者、裏切り者、臆病者と誹られる。
 舞台を下りたはいいが、劇場から出る事を許されず観客席で見たくもない演劇をひたすら傍観させられるだけで苦痛でしかに。立場的には飛び入りの人形使いや河童と同じであり、この状況は策士である藍のプライドを著しく傷つけるものだった。
 腑が煮えくりかえる藍としては、ここでネタをばらして紅魔館の茶番を衆目に曝したい気分に駆られるが、それをやれば、紅魔館に上手く乗せられ罠にはめられたこちらの無能を際立たせるだけである。
 紫は一見すると静かに瞑想しているように見えるが、廃人に近い危険な状態である。しかし、そこは腐っても妖怪なので直ぐにまた持ち直すだろう。その時間を稼ぐ上でも、ここは紅魔館側に合わせてこのまま茶番を演じ続けるしかなかった。


 上空2000メートル。ここは不死鳥の浄化の炎に包まれた霊夢の結界の外側。
 永琳の防御要塞の中枢コアの大爆発で、現在地が全く分からなくなった人間の魔法使い霧雨魔理沙は、生命の危機に直面してパニック状態になっていた。
「どっちだ!どっちに逃げればいいんだ!」
 妹紅の呪符を魅魔の体で補強した魔理沙を保護する結界内の室温が40℃を超え、魔理沙は汗だくになり肩で大きく息をしながらがむしゃらに飛び回っていた。
「落ち着け、冷静になれ魔理沙。ここが魔法使いとして真価を問われる場面じゃ。」
 何とか宥めようとする魅魔だが、氷の妖精チルノの瀕死状態を背中で感じ、流石の魔理沙も気が動転して耳を貸す状態ではなくなっている。
 魅魔も流石に少し焦ってくる。空間転移の魔法で外に分子転送するのは簡単なのだが、魔理沙を正常に戻すために一度正しく人として殺さなければならず、その為に妹紅の用意した次のアクションを待たねばならず、そのタイミングは全て妹紅の手の内にあるので、魅魔は手も足も出せずに、魔理沙と共に無為の時を過ごすしかなかった。
 藤原妹紅は用意周到に前準備をして異変に臨んでいるが、一旦自爆した後は擬似的な死の狭間に追いやられるため、現世に対し一切の干渉が出来なくなる。その為、段取りを予め決めておかなければならなかった。
 妹紅はこの次の段取りに移るタイミングを時の長さではなく温度で管理しており、時間と共に上昇する結界内の室温で予定を組み立てていたのである。
 氷の妖精の影響で想定より室温が上がっていない為、この様な待ちの時間が発生してしまったと魅魔は考えている。温度をほんの少し上げれば次の段取りに進むと思うが、温度は大幅に上げ下げは簡単なのに、小幅の変化は大魔導師といえども簡単ではなく、妹紅が1℃や2℃の僅かな温度差でスケジュールを管理していたとするなら、こちらの力添えが仇となる可能性が大きい。
 少しの時間待てばいいのだが、余り時間が経ちすぎれば魔理沙が平常心を失い錯乱してしまうので魅魔はジレンマに襲われる。
「頼む誰か助けてくれ!」
 自分ではどうにもならない状況にとうとう泣きが入る魔理沙。
「魅魔様、速くしないとチルノが解けちまう!」
 懇願の表情で魅魔を見る魔理沙。何故そこまでしてこの妖精にこだわるのかわからない。
 魅魔はこの氷の妖精をすぐに元気にさせる氷の魔法をかけてやることができたが、その必要性を感じず魔理沙の行動に一定のベクトルが働くのでこの妖精の瀕死状態をむしろ利用していたりもする。密かに魔法を掛けて融解しないよう延命措置だけは施していたので直ちに死ぬことはないだろうが、ここで氷の妖精を元気にしてしまっては、室温が下がって妹紅の段取りが台無しになってしまうので、これ以上は介入出来ない。
「(魔理沙・・・。)」
 死霊術の解除によって封印していた忌まわしい記憶が魔理沙を責め続けており、チルノの助命は自分の犯した罪の大きさ故の代償行為、或いは無理矢理連れてきてしまった責任感や罪悪感なのかもしれないと魅魔は感じている。
 魅魔はそんな苦痛と苦悩の中にいる魔理沙を何とか助けてやりたいと母親としての本能が呼び覚まされようとしていた。ある日、突然目の前に現れた10歳の少女を見て母性が再び目覚めた時の様に。だが、それは同じ過ちを繰り返す行き過ぎた危険な愛憎の現れであり、この想いが強くなれば妹紅の計画よりも魔理沙の命を優先し目先の大義を履き違えてしまう。これは妹紅が最も懸念していたものだった。

 魅魔の中で何かが変わろうとした時だった。魔理沙の握っていたホウキの柄に貼られた妹紅の呪符が突然小さく爆発したのである。魔理沙は『ぎゃっ』と言う小さな悲鳴を上げ手を離し、魅魔も少し驚いて今は必要のない危険な母性本能を一旦引っ込める。
 小さな爆発で沸き起こった小さな煙の塊は直ぐに消えたが、そこに見覚えのあるシルエットが浮かんでいた。
「も、妹紅?」
 そこに現れたのは身の丈7寸ほどの藤原妹紅だった。頭身がやや高いので本物のミニチュアというより、良く出来た人形に見える。
「私がここにいるということは、魔理沙の身に危険が迫っているということね。」
 小さな妹紅は、出現したホウキの柄の上にふわふわ浮いたまま正面の魔理沙を見ながら喋り始める。これが生身の本物の妹紅でないことは一目瞭然で、前に見た分身の術と同じ類のものだろうと魔理沙はすぐに理解できた。予め用意されたメッセージを伝える、所謂メッセンジャーというやつだろう。
「私は、メッセンジャー。私は魔理沙を安全に脱出させる為に必要な情報だけを伝える存在。分かると思うけど対話は出来ないからそのつもりで。」
 魔理沙の予想通り、この小さい妹紅はメッセンジャーで、一方的に情報を伝達する人形である。
 環境の変化で発動するトラップ型の呪符を応用し、設定した温度に達すると小型の分身が出現するように仕込んでいたのだろう。
「脱出方法は簡単よ。私が指さす方向に向かって兎に角速く飛ぶこと。」
「それだけか?」
 魔理沙は対話出来ないと事前に注意を受けていたがつい聞き返してしまう。
 小さなメッセンジャーは当然魔理沙の問いには答えず、くるりと後ろを向き体を正面に向け、魔理沙から向かって右下を小さな右腕全体を使って指す。魔理沙は言われた通り、妹紅の指の方向にホウキを先端を合わせ、その動きに合わせて真っ直ぐ正面を指す妹紅の腕先に向かって飛行しはじめる。
 先程まで八雲紫がすぐ横にスキマを開いてナビゲートをしていたが、今は魅魔とチビ妹紅と自分に近しい者がそれをしてくれるので何だかとても心強い。暑いのは相変わらずだがパニック状態も解けて今は平静を保つ事が出来ている。
「いくぞー!」
 スピードを上げる毎に妹紅の背中から炎の翼が生えて少しずつ大きくなっていくのに気づく。速度を緩めると翼が小さくなることからこの炎はスピードメーターの役割を果たしているようだ。この熱くはない炎の翼が最大になった時が脱出の時なのだろう。
 助かる見込みが生まれた魔理沙は、俄然やる気が湧いて一気に加速し自分の出せる限界のスピードに挑む。
「まだ全然たりないわ。もっと速く!」
 小さな妹紅は翼が一定の大きさに達する毎に魔理沙にスピードが足りないと前を向いたまま注文をつけてくる。
「まだ、足りないのか?」
 誰に言うわけでもなく、理不尽とも言える注文に次第に不安が膨らむ魔理沙。
「まだ全然たりないわ。もっと速く!」
 同じ台詞を繰り返すチビ妹紅。
「分かってるよ!くそ!」
 魔理沙は小さな妹紅に怒られながらシフトアップし、もっと速く飛べる筈だと自分に言い聞かせる。
「もう少し!もう少し速く!」
「むぅ?メッセージが変わった!もう少しだ!」
 自分で出せる限界のスピードに近づいた時、妹紅の翼が虹色に輝きだし、メッセージの内容が変わった。
 魔理沙は心の中で『よし』と頷くが、この辺りが限界でもうこれ以上のスピードは出せなくなっていた。しかし、それでも諦めず必死に喰らい付く。
 先程のパニック状態から一転冷静になり、火属性の密度から天地方向を割り出した魔理沙は、一旦妹紅の指すルートから逸れて、天頂方向に重力に逆らって上昇する。そして、重力加速度を利用してそこから真下に一気に急降下して速度を上げ、目標に向かって大きく弧を描きながらスイングバイし更に速度を上げる。
「・・・。」
 そんな魔理沙を後ろから静かに眺めていた魅魔は、愛娘の必死の試みで上昇するスピードとは反比例するかのように、気持ちがどんどん沈んでいく。
 妹紅の要求するスピードに達した時魔理沙は死ぬ。そう思うと胸が張り裂けそうになる。この事は事前に打ち合わせて分かっていたはずなのに、いざその場面になると自制出来ない本能の様なものが現れ拒絶反応が出てしまう。
 これが正しい選択だとしても、自分の可愛い娘が死に直面しているのだ。親としてこれを黙って見ている事は出来なかった。
 魔理沙が本当の娘ではないことなど重々承知している。しかし、悪霊となった原因が乳飲み子だった実の娘の命のやりとりなのである。子を想う親の愛情とそれが果たせなかった未練、恨み、復讐の闇の心こそが魅魔を悪霊として存在させている基礎的な動機なのである。
 魅魔は何度も何度もスピードを落とせと言いかけて喉元でそれを無理矢理呑み込み、理性と母性の狭間で耐え忍んでいた。
「(魔理沙・・・。)」
 魔理沙をこんな体にしてしまったのは自分の責任だと後悔する魅魔。悔やめば悔やむ程に心の中にどす黒い感情が芽生える悪霊の定め。我慢すればするほどに後悔の念は増幅する悪循環。
 いっそこのまま可愛い娘と共に死のうかとも考える。いやダメだと首を振り涙を散らす。
 何より憎らしいのが、この妹紅の施した仕掛けである。魔理沙では出せないスピードでも魅魔なら簡単に出すことが出来る。そのスピードで脱出用のスキマが開く仕掛けであり、つまりこれは魔理沙への引導は魅魔の手で渡せという妹紅のメッセージなのだ。
「(これは、罰なのだ。)」
 魅魔は自分にそう言い聞かせ、妹紅に対する黒い感情を受け流す。
 八雲紫が休眠中の間、幻想郷の運営を任され、霊夢を神社に向かえ親代わりとなって彼女の成長を見守るはずだった。しかし、博麗霊夢が来る前に霧雨魔理沙が目の前に現れてしまったのだ。魅魔は霊夢に注ぐはずの愛情をどこの者とも分からぬ小汚い小娘に注いでしまったのだ。
 運命の歯車はそこで狂った。
 妹紅に言わせればそのことも吸血鬼王アルカードの大計の一環なのだが、運命とは皮肉なもので魅魔は二度我が子を失おうとしており、その心痛は計り知れないものだろう。

「魅魔様!私に力を貸してくれ!」
 もう少しで届きそうな妹紅の要求するスピードの領域。しかし、届きそうで届かない。でも、何としても届いて見せる。魔理沙は自分に足りないものを素直に師匠である魅魔に求め助力を乞う。
「これ以上スピードを上げる事は危険だ。脱出したとしてもお前の命が危ない!」
 魅魔は思わず結末を明かしてしまう。そう、高速でスキマを飛び出し、湖に激突して魔理沙はそこで即死するのだ。
「はっ!」
 魅魔は言ってはならない事を口にしてしまったことに気づき母親になっていた自分から冷静冷徹な魔導師に引き戻された。
 死を予感させる事を告げれば勘のいい魔理沙のこと、気づいてスピードを落とし、自分を騙そうとした魅魔や妹紅を裏切り者と罵るかも知れない。
 しかし、魔理沙は魅魔の予想になかった答えを出した。
「危険なのは分かってる!でも、速くしないとチルノが死んじまう!」
「そんな妖精の命どうでもよいだろう?」
 予想外の魔理沙の答えに狼狽え、大人げなくムキになって反論する魅魔。
「だったら人間の命だってどうでもいいだろう?」
「な、何を言ってるんだ魔理沙?」
 返答する魔理沙の話しの脈絡が分からず思わず聞き返す魅魔。
「何で、何で魅魔様はあの時私を助けたんだ?死んで当然の事をした私を!」
「ま、魔理沙、お前・・・まさか記憶が?」
「思い出したんだ。5年前のいろんな記憶を・・・。」
 魅魔の死霊術が解けた事で封印されていた記憶が復活し、バラバラになった記憶の断片があるべき場所に完全に戻っていた魔理沙。
「さっきまであんなに暑かったのに、今は全然暑さも寒さも感じないんだ。そうりゃそうさ、だって私とっくに死んでたんだから・・・。」
「そんなことはない。お前はちゃんと生きている!」
 思わず魔理沙を包み込む魅魔。
「だったら、なんで魅魔様と同じで心臓の音が聞こえないんだ?」
「魔理沙、もう何も言うな。悪いの私だ。お前は何も悪くない!」
「悪いのは私さ、全部私が・・・そのせいで母さんが私の身代わりになって・・・。」
 そう言うと魔理沙は大粒の涙をこぼし始める。
 魅魔から魔法を習った10歳の魔理沙は、急激に力を伸ばし、力に溺れ増長の極みにあった。
 父親から勘当され、苦言を呈す師匠の言葉も無視してその元を飛び出し、危険地帯として近づくことを禁じていた吸血鬼始祖の霊の眠る西洋墓地に単身乗り込み、怨霊退治と称してその安息を破壊し、激怒した霊達に返り討ちにあって死んだ。母、サーヤの守護霊がそこで魔理沙の魂を守るために自らの魂を売渡して賭けに出て何とか魔理沙の命を繋ぎ止める事に成功した。
 その後、魅魔に助けられた後、魔理沙は肉体も記憶を改竄され、偽りの命を生きてきたのである。
「私バカだから、妖精だからダメとか人間だから良いとか、そんなの全然わからなくて、でも、自分の所為で誰も殺したくなくて・・・ここでチルノを殺して生き残ったとして、私・・・私、これからどんな顔して生きていけばいいのか、そんなの全然わかんねーよ!」
 魅魔は理解した。魔理沙が1個の妖精に執着していたのは、自分の所為で母親が囚われの身になったことに対する贖罪だったのである。
「もう私は死んでる。放っておけば冷たくなる。だったら、死ぬ前にチルノだけでも助けてやりたいんだ!」
 10歳の悪ガキのまま時間が止まっている魅魔の中の魔理沙とは違う、成長した15歳の魔理沙がそこにいた。自分のことしか考えなかったあの魔理沙が、他者の命を心配している。自分がもうダメだと悟り、生きた証を他者に託そうとしている。
「お前は助かる。助ける為に私がここにいて、妹紅は向こうで待っているのだ。」
「だったら何でそんな顔するんだよ!」
 魅魔ははっとなって自分の顔を両手で覆う。そう、今の今まで魔理沙を止めようと必死に考え、いっそ共に死のうなどと思い詰めた考えをしていたのだ。口では助けると言っておきながら、顔は悲愴感を漂わせた顔をしていたのである。
 内面を見透かされ戸惑う魅魔の心の動きを感じた魔理沙は、抱きつかれたままになっていた魅魔を強く抱き返した。
「妹紅が急に私の前に現れて、色々と面倒見てくれた。楽しかったけど、やっぱ変だと思った。今思うとあの時から何かが始まったんだ。」
「妹紅がお前の中に隠れていた、誰にも見つけられなかった私を見つけだしてくれたのだ。」
「やっぱりそうだったのか。やっぱすげーよな、妹紅は。」
「妹紅は、見ず知らずの悪霊の信任に応えようと必死に動いてくれた。お前を助けようと文字通り粉骨砕身となって動いてくれた。どんなに感謝してもしきれんほどだ・・・。」
「魅魔様、私をどうするつもりだったんだ?」
 魔理沙は自分の身に降りかかっている問題を、元通りになった記憶から逆算してある程度認識しているが、魅魔や妹紅がやろうとしている最終的な結果は完全には理解していなかった。
「不完全な死でただの動く屍だったお前をもう一度正しく殺し、人間として正しく復活させるのだ。」
「そんなこと出来るのか?」
「私には出来ぬ。しかし妹紅ならば出来る。」
「なるほど・・・。」
 魅魔の簡潔な説明を受け、魔理沙は自分自身の肉体が思っている以上に酷い状況であることを報され驚くものの、妹紅なら出来るという言葉を聞いて、妙に納得し安心する事が出来た。
「魅魔様は、本当に私が生き返ると思ってる?」
「もちろんだ。」
「嘘だな。さっきそういう顔じゃなかった。」
「さっきはな。今は違う。」
「どーだか・・・。」
 愛娘からそっぽを向かれしどろもどろになる魅魔。
「魅魔様、私は魅魔様も妹紅もゆうかりんもコーリンも母さんも、みんな信じてる・・・だから、魅魔様も私を信じてくれ!」
 魅魔の中で何かが弾けて5年前に止まっていた時計の針が動き出す音を聴いた。
「魔理沙、私は慕ってくれる幼い魔理沙のままでいて欲しいと、身勝手な願望でお前を縛っていた。死んだお前を、あの時のままの形でずっと手許に置き保存しておきたいと思っていた。」
「全く傲慢な悪霊だぜ。」
 戯けてニカっと笑う魔理沙。 
「育てたかった・・・あの娘を我が手で育てたかった・・・。」
「魅魔様・・・。」
 魔理沙は蹲って泣きむせる魅魔の背中を優しく撫でる。
 あの娘というのは恐らく自分ではないと魔理沙にも分かった。魅魔の生い立ちは知らないが恐らく死に別れた娘がいたのだろう。魔理沙は魅魔の背中をさすりながら両親の事を思い浮かべる。
 母親は肖像画でしか知らないが、存命の父とは袂を分っている。今まで忘れていたが、急にその顔を思い出し後悔の念に苛まれる。もし無事に生き返る事が出来たら一度ちゃんと話しをしなければならないだろう。
「さぁ、そろそろ逝こうぜ!魅魔様!」
 落ち込む自分自身を奮い立たせ、もう一人の母親を元気づける魔理沙。
「楽しそうに言うな!」
 魅魔は意を決した。もう迷わない。魔理沙復活とそこに後に訪れる素晴らしい未来を信じた。
「あっ・・・。」
 何の前触れもなく加速した魅魔。魔理沙はこの加速の衝撃に耐えられず気絶する。せめて苦しまずに逝って欲しい。これが、数秒後に死ぬ愛娘へ出来るせめてもの手向けだった。

 前を向いたまま、魔理沙と魅魔のやりとりに無反応だったチビ妹紅の背中の翼が極彩色の炎となって輝きだすと、くるりとこちらを向き口を開く。
「規定スピードに到達。これよりスキマを開く。」
 そしてほんの少し間をおいてチビ妹紅が別の台詞を口にする。
「魅魔、魔理沙に引導を渡す役目を貴女に託した事、本当に申し訳ないと思っている。でも、これは魔理沙だけではなく、貴女の将来にとっても必要な事。よくぞ決心してくれたわ。魔理沙を信じてくれてありがとう。」
 メッセンジャーのチビ妹紅は予め用意していた台詞を述べると、驚いた魅魔のリアクションを待たずに光の粒子となってホウキの先端に移動し、一瞬巻物の形になると、次の瞬間その巻物が発動しホウキの先端にスキマが開く。
 獄炎地獄から身を守っていた妹紅の呪符は効果を失い魅魔の体との融合が解かれてしまったが、猛烈な速度で飛翔する魅魔と魔理沙は、侵食されていく周囲の炎を置き去りにして幻想郷の地上側に飛び出すのだった。


 紅魔館の館内に避難していた威勢だけはいい臆病な妖怪達は、異変の終息を感じぞろぞろと庭に出て思い思いに行動を始める。
 この状況でも屋敷の正門で門番を努める紅美鈴は、騒がしくなった庭を振り返り、それでも敷地内に留まって決して門から出ようとしない妖怪達に苦笑を向けて再び空を見上げる。
 目まぐるしく変わっていた先程までの状況とは打って変わって、ここ30分は膠着したままである。こちらからどうすころも出来ず成り行きを見守るしかない状況になっていた。
「魔理沙はまだなの?」
 近くは見えるが遠くがあまり見えない河童の河城ニトリがどこからともなく双眼鏡を取り出し、空に向けて必死に盟友の姿を捜している。
 人形使いアリス・マーガトロイドはそんなニトリを尻目に、何度かすぐ後ろにいる八雲藍に顔を向け、あからさまに不信感を漂わせた表情を向け無言の抗議をする。
 八雲紫は先程からずっと『パチュリーの地図』が置いてあるテーブルの席に着いたままほとんど動かずにおり、その姿を隠す様にバルコニーの先端に集まった会議のメンバーの最後尾で邪魔な9本の尻尾を扇状に拡げている。
 紫は魔理沙を脱出させる為にナビゲートをしているとの事だが、アリスには居眠りをしているとしか見えなかった。何度か苦情を言おうとしたが、同じ返答しか返ってこないだろうと思いとどまっていた。
 その時、上空にスキマが開き炎が吹き出て直ぐに閉じたのが見え場が一瞬ざわめいた。
「あれは念の為に用意していた時限式の緊急脱出口だ。」
 どよめきが起こったバルコニーに対し、その気勢を削ぐ様に藍が間髪入れず説明する。
 これはその場凌ぎの出任せではなく本当の事で、念には念を入れて、こうした脱出口を複数準備していたのである。巻物と同じ様に媒体に術を仕込んで中空に設置し、周辺環境に擬態させ、任意のタイミングで開くように予め仕掛けていたものである。紫の能力消失によって任意に操作する事が出来ず、事前に設定していた有効時間を過ぎて自動的に発動してしまったのを藍が尤もらしく脚色したわけである。
 こうしたスキマの発動が何回か起こり、用意していたもの全てが発動し終える。
 これで八雲紫が準備万端、念には念を入れて用意した全ての仕掛けが終了し文字通り万策尽きる。
「(さて、どんな言い訳をするかな・・・。)」
 八雲藍は魔理沙死亡の言い訳を既にいくつか用意し、どの段階で打ち明けるかそのタイミングを計っていた。
 レミリアがバルコニーの手摺りによじ登るようにして上半身を乗り上げ、周囲を見渡して魔理沙が脱出した形跡を探る。呪いによって成長出来ない身であっても基本性能が高い吸血鬼始祖であるレミリアの五感はここにいる強妖怪に勝るとも劣らず、とりわけ聴覚と嗅覚が優れているので、目を閉じて神経を耳と鼻に集中する。
 藍はいつの間にか横に立つ主を感じつつ、驚きを押し殺して平然といつも通りに主より一歩下がった定位置に移動する。先程から紫は、自失したり持ち直したりを繰り返しながらゆっくりと精神が蝕まれている状態で、今、何度目かの持ち直しでそこに立つ事が出来た。これは、万策尽きてもはや思い悩む必要がなくなり開放感を得たからだろう。
 元々血色が良い方ではない紫の顔色だが、今は誰が見ても明らかな蒼白で、焦燥感が表情から読みとれた。
 今更強がってもこれまでの経緯から白々しくなるだけで、むしろ『お疲れ様』と同情の声を掛けやすい表情ではないかと藍は思わず苦笑してしまう。
 実際、今日に至るまでは全てこちらの思惑通り事が進んでいたのに、今日一日最初から最後まで想定外の事が起き、藍も心身共に疲労困憊で、酒でも飲んでゆっくり休みたい心境である。
 八雲藍は緊張が解れ少し気が抜けた。万策尽きて最後に残った仕事が霧雨魔理沙の件だが、その生死に興味はなく、たかだか50年の寿命しかない人間の死に対する一時の悲しみなど、藍にとっては時間の無駄で、適当に言い訳して終わりにするつもりだった。
 この大きな異変で活躍し、死して英雄となって歴史に名を残すなら、むしろその方が魔理沙にとっては幸せだろう。
 問題は知らせるタイミングだけである。今は生きていてもずっとあの中にいることはできないだろう。暑さや空腹でそう長くは生きられないはずである。
 魔理沙が助かる方法は、主八雲紫の失われたスキマの能力が早めに回復すること以外に存在しない。
 3日以内に回復し、短時間で浄化の炎を外に逃がす事ができれば、魔理沙も助かり異変も全て丸く収まるというもので、これが現時点での最良である。しかし、それ以上時間がかかれば、今度は霊夢が結界を維持出来なくなる可能性がある。こうなると魔理沙の命は二の次で、霊夢がどこまで持たせられるかが重要となる。
 結界のこちら側にいて干渉出来る霊夢なら、周囲の援護である程度持たせられるだろう。その際、魔理沙の救出は断念せざるを得ない。
 スキマ回復より霊夢が先に力尽きる事態になれば、予定通り幻想郷を放棄するだけである。今の藍の心境としては、幻想郷事業はある程度成果があったとして、次のステップの為に一度リセットした方が良いと考えている。なので事態の推移を見ながら、持ちこたえそうなら次のステップの為に敢えて霊夢を暗殺し、幻想郷に終止符を打つのも有りだと本気で考えていた。
 何にせよ、あの黒い魔法使いを殺した言い訳などいくらでも吐ける簡単な作業だ。
「(これで終わりだな。何れにせよ、紫様の心労となる要素は全て消えた。後はゆっくり事の顛末を見守ろう。)」
 心の中でほくそ笑む藍だが、異変はまだ最終段階にようやく入る段階であり、八雲紫にとって本当の地獄はこれからなのである。

「魔理沙はどうなの?」
 スキマが幾つか開き、やがてそれも無くなり周囲がシンとなった頃、異変の総指揮を務めるレミリア・スカーレットが最後の確認を行うと、周囲が沈痛な空気になる。
 未だ魔理沙は存命かもしれないが、場の空気に合わせ藍は横に数回振り助からない事を告げる。いつの間にか会議の輪の中に復帰していた紫は申し訳なさそうに下を向く。
 魔理沙の親友を自負する河童のニトリががっくりと腰を落としその場で声を上げて泣き崩れる。
 あの爆発後、時間の経過と共に魔理沙の帰還の可能性が加速度的に低くなっている事を皆は薄々感じており、皆覚悟を決めていたのだ。
 しかし、一人だけその覚悟が決まっていない者がいた。魔理沙と犬猿の仲アリス・マーガトロイドである。
「冗談じゃないわ!妖怪の賢者が聞いて呆れるわね!弱い人間にケツを持たせておいて、失敗して恥ずかしくないの?」
 妹紅が会議を荒らした時と同じようにキレた人形使いが2人の八雲の正面に立ってその無能さを糾弾し場が騒然となる。
 先程から喰ってかかる元人間の魔法使いを煙たがっていた九尾の藍も、そろそろ我慢の限界にきて、格下に対しそれ相応の態度で臨む。
「自ら望んであの中に飛び込んだのだ。こちらにも責任がないわけではないが、一方的に責められる筋合いではないぞ!」
 凄みをきかせて一歩前に出たアリスを威圧する。気圧されたアリスは右足を戻すも気丈に反論をする。
「さっきから見てれば失敗ばかり、何一つ予定通りにいかなかったじゃない!責められて当然よ!」
「身の程を弁えろ!小娘が・・・んん?やけにあの黒い魔法使いの肩を持つな・・・なるほど、そういうことか。くくく・・・。」
「な、そ、そんなんじゃないわよ!」
 アリスの言は尤もだが、格下の妖怪が言う台詞ではないと本題とは違う別の憤りを覚えた藍は、主と同じく精神的に弱い傾向にあるアリスに精神的に揺さぶる方法で仕返しをする。
 同性の魔理沙に対し恋愛感情など全く無く、そもそも妖怪になってからそんなものには興味がなかったアリス。しかし、周囲にいらぬ詮索を与える様な藍の卑怯なやり方につい感情的になって頭から湯気を出し、顔と耳を真っ赤にして怒りだし、かえって図星を当てられたと勘違いされる。
 純粋な力だけでなく、精神戦や情報戦においても一枚も二枚も上手な藍に翻弄されるアリスは、引くに引けなくなって戦闘態勢をとる。
「上海!」
 上海と名付けられた複数の人形を召喚するアリス。魔理沙の責任問題を有耶無耶にする絶好の機会を得た藍は、本来相手にするまでもない格下の挑戦に喜んで応じる。
「愛する者を失った悲しみ、さぞ辛いだろう。私が相手になってやるからその憂さを晴らすがいいさ。」
「話しをすりかえないで!」
 一触即発の事態に陥り、双方というより、アリスが一方的に後に引けない状況になり、これは戦闘になると誰もが予見した。
 明らかに結果が分かる勝負を挑む無謀なアリスを、会議のメンバー達は人間の様で稚拙だと見たが、それを笑う者は誰もいなかった。会議のメンバーのそのほとんどは、不手際ばかりの八雲陣営と裏で手を結んでいるわけであり、言いたくとも言えぬ苦言をアリス1人が代弁してくれているのだ。誰もアリスを蔑視出来なかった。
「やめさない!二人とも!」
 当然の様にカリスマ指揮官が突発的な私闘の仲裁に入る。今のレミリア・スカーレットであれば、指揮官の顔を立てるという言い分で双方の名誉を守ったまま鉾を納めさせる事が出来き、誰もがそう思ってレミリアの介入を歓迎し、ほっと胸を撫で下ろす。

 その時だった。

 湖のある南東を向いたバルコニーで、妖狐と人形使いの仲裁の為に湖に背を向けたレミリアの背後で、衝撃音と共に巨大な水柱が立ち昇ったのである。
 バルコニーの会議のメンバーもその他紅魔館の敷地内にいた妖怪達も驚いて湖を向く。
「な、何事?・・・あ、あれは・・・!」
 レミリアが驚いて湖に向き直るが、そこにあり得ないものを見た。
 水柱の上にスキマが開いておりそこから溢れ出した大量の熱気が、氷点下に近い冷たい水を湛えた湖から上がった巨大な水柱とぶつかり、瞬間的に沸騰し凄まじい音と共に大量の水蒸気を発生させていたのである。
 風見幽香と藤原妹紅が防御要塞に攻撃を仕掛けた際、炎と水がぶつかり合った時と同じ様な状況である。先程はそれがはるか上空で起こったが、今はすぐ目の前で起こったのである。紅魔館は騒然となった。
 衝撃波の様に熱風が通り過ぎ思わず顔を背ける。次に顔を上げた時にはスキマは消えており、まるで消火作業でもするように、霧の湖が大量の冷気を吐き出して上昇した周囲の熱気を押し下げる。
「パチェ!」
 高温になった水蒸気の津波がスキマ発生地点から放射状に拡がるのを見た、赤外線を感知出来るレミリアは咄嗟に親友の名を叫ぶ。この時、熱に反応するように霧の湖が突然大量の冷気を吹き出し水蒸気を安全な温度まで下げたが、湖岸に面した紅魔館側は冷気の量が十分ではなく冷却しきれない水蒸気の波が急接近していた。
 異変の途中から急に存在感を増し、名実共に司令官の参謀としての地位を得ていたパチュリー・ノーレッジは、レミリアの要請に応え持っていた杖で床面を数回、何かの合図を送るように不規則に叩く。皆それが何か魔法を発動させるサインであると咄嗟に判断出来た。
 パチュリーによって紅魔館の防衛システムが発動し、館が球形のバリアに覆われる。
 ここにいる猛者達なら各自自力で高温の蒸気を防げただろうが、避難してきた者や雇っている弱い妖怪はひとたまりもなく、又館は火災を免れないだろう。
 レミリアとしては紅魔館の防衛装置とその性能を、部外者に見せたくはなかったが、いざというときの為の装置であり、今がその時であると判断したのである。
 
 最初に張った霊夢の結界の様な薄紅の幕が瞬時に敷地全体を覆うと、その内側が紅い霧に包まれる。これは、幻想郷全体を覆い陽光を遮った紅霧異変の時と全く同じで、紅魔館内にいるほとんどの妖怪はこれに既視感があった。
 押し寄せる白い水蒸気の壁に、紅魔館の敷地内にいた妖怪達は悲鳴を上げて狼狽えたが、紅い霧を見て動きを止める。この霧が発生した当時は目障りだったが、今は何故か頼もしい。
 高温の水蒸気の波は、紅魔館周辺では200℃を超え、バリアの外側の木々は蒸し焼き状態になるが、水蒸気は広く拡散していくうちに急速に温度を下げていき、紅魔館の背後の妖怪の山、鞍馬山領の斜面に到達するころには、白く冷たい濃霧状の塊となり、それもやがて消えて無くなった。
 巨大な水柱を上げ大きくうねった湖面もやがて静かに凪ぎ始め、霧の湖は水蒸気の白い靄から一転して元の冷たく、そしていつも以上に濃い霧に覆われた。
「今のは?」
「スキマから何か水面に落ちましたね・・・。」
 レミリアの問いに八意永琳が答える。それを聞いたニトリがはっとなって立ちあがり、そのままバルコニーから湖へと飛び降りる。
「まさか、魔理沙が!」
 宇宙人の答えと河童の行動から、スキマから飛び出して湖に落ちたのは魔理沙だと判断したアリスは、ニトリの後を追おうとして何かを思いだして立ち止まり後ろにいる藍に向き直ると、軽蔑の眼差しで唾を吐き罵った。
「何て底意地の悪い連中なの!うんざりだわ!」
 そう言ってアリスは複数の人形を纏ったままニトリの後を追った。
 この時アリスは、魔理沙が死ぬと見せかけ、実は無事だったという八雲側の仕掛けた所謂『ドッキリ』だと思い込んだのである。これは勿論アリスの勘違いだが、スキマが八雲紫の固有の能力である以上、これを使った仕掛けは全て彼女の仕業だというのは幻想郷の常識であり、八雲紫と藍以外の者は、この状況を全て彼らの仕組んだ趣味の悪い演出だと捉えていた。
 
 青天の霹靂とは正にこのことを言うのだろうか?この突如のスキマ発生と、その後の何物かがそこから飛び出し水面に激突したという状況は、完全に予想外の出来事だった。
 スキマは未だ使用不能な状態であり、これは八雲紫の仕業ではない。巻物など他の媒体を利用しスキマを開く事は十分可能だが、基本的にこうした簡易的なスキマ発生の道具は藍に渡している物を含め、全て紫自身がその数を管理している。異変に際しそうしたスキマは先程全て発動し、紫が任意で発動出来るスキマ以外のスキマは今現在幻想郷には存在しない。
 先程までのイレギュラーは、他所から入った邪魔、つまり対外的なトラブルがほとんどだが、今回のイレギュラーは完全に自分達に大きく関わるものだった。

 身に覚えのないスキマが存在した。

 これは八雲紫にとって正に痛恨の一撃だった。
 自分以外の誰かがスキマの能力を使い魔理沙を助けたとするなら、それは紫自身の存在価値、存在理由に関わる大きな事件である。
 八雲紫は生涯に於いて最も激しい精神的ショックを受けていた。
 完全に脳が凍結し、思考する力が完全に失われた。そして、紫以上に藍もショックを受け、主が立って居られず寄りかかって来るのも気づかず立ち尽くしてしまい、危うく主に恥をかかせるところだった。
「(どういうことだ!何故スキマが開くのだ!)」
 あらゆる可能性を示唆してもこの状況を導き出せる答えは出てこない。外部からの干渉によるものなら、幻想郷に於いては全知全能に近い自分達が部外者に遅れを取ることはまずあり得ない。しかし、今回はこちら側の主要能力が何者かに使われたことであり、これは正に未知との遭遇である。単純に考えれば八雲紫が敵にまわったようなものであり、謎のスキマ使いが敵だとするなら、これほど厄介な相手は他にいない。
 危うく床に落としてしまうところだった主の八雲紫は、完全に心身を失調し廃人同然となった。人間ならほぼ死ぬまでそのままだろうが、そこは強靱な肉体を持つ妖怪なのですぐに回復する。今日はその失調と回復の繰り返しで、生きたままじわじわと生皮剥がされているような状態である。
 格下のアリスに罵られた藍だが、反論出来ず飛び去る後ろ姿を苦々しく見つめるしかなく、周囲の目も痛く針の筵にいるようである。
 あのスキマに身覚えがないとしても、スキマといえば八雲紫である以上、知らぬ存ぜぬでは通らない。開き直って『ざまあみろ』などと言えば、もはや強妖怪としての品格が疑われ、畏れを大量に失ってしまう。濡れ衣ではあっても、ここは自分達でかぶるしかなかった。
 藍は生まれて初めて無力という名の絶望を味わっていた。


「ん?うどんげ、何処へ行くの?」
 師匠の付き人として会議に参加していた月の妖怪兎レイセンが、持ってきた大きな薬箱を取りに一旦部屋に戻った後、そのままニトリやアリスの後を追おうとしたところを永琳が呼び止める。
「今のはあの魔法使いでしょう?あの水柱の高さから想定すると、たぶん重体以上ですよ!」
 この場合の重体以上とは危篤或いは心肺停止状態を指す。永琳はスキマから高速で飛び出してきた物体が、生身の人間だとすれば、間違いなく即死であり、うどんげの見立ては甘いと思ったが、敢えてそれは口にしない。
「何してるんですか師匠、今ならまだ間に合います。速く行きましょう!」
 師匠に呼び止められたレイセンは、呼び止めた当人の所に戻って二の腕を抱え上げて出立を促す。永琳は弟子の意外な行動に面を喰らう。
「私が?」
 傍観に徹しこれ以上異変には関わらないと決め込んでいた永琳は、自分を巻き込もうとする弟子を怪訝な表情で伺う。
「怪我人を救助するのが私達の役目でしょう?」
「それは確かにそうだけど・・・。」
 永琳は弟子に言われるまで忘れていた。会議の主要メンバーであると同時に一応救急医療班という肩書きも持っていたのだ。
「でも、あれでは助からないわ・・・。」
「あのまま放っておけばそうですが、私達には助けられるでしょう?」
「何の為に?」
「な、何の為にって・・・助けられる命がそこにあるからでしょう!」
 何時になく熱く語るレイセンだが、彼女はつい最近まで自分から主体的に動く事はほとんどしない役立たずだった。異変の前哨戦で幻想郷の滅びの前兆を察知した蓬莱山輝夜が強制跳躍し、破滅する未来の一端を垣間見てから、周囲で変化が起こり、そして自身にも大きな変化が生じたのである。師である八意永琳も、妹紅との死闘の末破れ、退化した本能が再起動し今に至っているのだ。
 レイセンが気の入った威勢の良い声で話すので周囲が注目する。その視線を感じたレイセンは永琳に顔を寄せ耳元で囁く。
「(妹紅が言ったんです。目の前の命を諦めるな・・・って。)」
「(妹紅が?いつ?)」
 妹紅の名を聞いて永琳の目の色が変わった。
「(白玉楼に行った時です。師匠とすれ違いで階段を降りてきた時。)」
 あの時、見ず知らずの門番の命乞いでしてしどろもどろになっていた妹紅を思い出す。結局命乞いをしていたことにも気づかず怒らせてしまい、下で待っていたレイセンの命の交換条件を突き付けられた。あの後、妹紅は弟子にそんなことを告げていたのだ。
「行きましょう。」
「あ、師匠待って!」
 連れ出そうとした相手を置き去りにして先に飛び立つ永琳は、直ぐに追いついたレイセンにもらす。
「私達の役目はとっくに終わっているものとばかり思っていたけど・・・。」
「ええ、私達にはまだやることがありそうですね。」
 俄然やる気のレイセンを尻目に永琳は思考に没頭する。
 妹紅は異変を意図的に遅延させた。これは、スキマ砲を撃てなくして、魔理沙を使って直接コアを攻撃させるためだ。
 では何故そんな回りくどい事をするのか?それは魔理沙を利用する為だ。
 では何故魔理沙でなければならないのか?彼女がやる意味は?命を賭けてまでやる意味は?
 結論を導く為に必要な情報が明らかに少なく、これ以上推論を組み上げても確率論の話しにしかならない。
 確かな答えを導く上でのヒントがないわけではなく、それが、妹紅がレイセンに告げた『目の前の命を諦めるな』と言うメッセージである。
 このメッセージから一つだけ分かる事がある。それは魔理沙の死が予め想定されていたことである。そして心臓が停止した魔理沙を蘇生するという任務が遠巻きに依頼されていたのだ。
 生かすなら別に殺す必要はないのではないか?普通に生き続ける事と、死を挟んで蘇生する事と、何か違いがあるのだろうか?死の淵から生還すれば、死生観が変わり魔理沙本人に良い影響が出る可能性がある。妹紅は単にそれを期待してこんな策を弄したのだろうか?
 死生観など魔理沙の教育上の問題なら、別に異変にかこつけなくとも、普段の生活の中で危機を演出しいくらでも同様の事が出来るだろう。
 幻想郷を巻き込む危険を冒してまで魔理沙を殺し、そして生かす意味。
 永琳は心臓の鼓動が普段より速くなっている事に気づく。興奮しているのだ。
 自分に理解出来ない事は無いと自負し、あらゆる事象に理由を付けて、理論的に説明出来ないものに、無理矢理理論を当てはめ異論を全て排除し全知全能と悦に浸っていた。
 今は違う。謎、謎、謎、謎だらけ、分からない事だらけ、理屈の通じない不確定要素で満たされた幻想郷の暮らしが楽しくてしようがない。
「あの娘を助けた先に、きっと答えがあり、そして新たな謎が浮かびあがるのでしょう・・・楽しみだわ、ふふふ。」
 八意永琳は謎に包まれた妹紅に魅了されていた。