東方不死死 第44章 「炎の目覚め」


 上白沢慧音と里の重役らの極秘の会合は終わり、参加者は全員外に出てそれぞれの帰路に着いた。
「(どうすればいいんだ・・・。)」
 慧音は幻想郷をあるべき姿に戻す為に、神々と人間との間に大きな絆を作ろうとしている。しかし、それは博麗神社以外の存在に信仰を一時的に譲り渡す危険性があり、これは明らかに幻想郷のルールに反する行為である。一歩間違えば幻想郷を構築する基礎構造が崩壊する。
 幻想郷が崩壊すればそれまでだが、そうならずに済んだとして、事はそれで終わりという話ではなく、この様な行為は大罪であり間違いなく死に値するものである。それは即ち慧音の死は確実という事である。
 一人項垂れて通りに立ち尽くす妹紅。その時視線を感じその方に振り向くと、先程の仮面の妖怪、妖酔乃瀧の主人がこちらを見ている事に気づく。そして妹紅と目が合うと自分の店がある繁華街の方ではなく、すぐに横道に入って路地裏に姿を消した。
「着いてこいということか・・・。」
 慧音の事も重用だが、自分を見逃したあの妖怪の意図も知りたい。それにあの男なら何か慧音を助ける手段を知っているかもしれない。
 妹紅は仮面の妖怪が消えた路地裏に向かった。

 建物と建物の間には隙間がある。こういう場所は人が通る事を想定していない隙間なのでゴミや物が散乱して通れない事が多いのだが、妖怪が入った場所は壁や地面に色々な物が置かれているにもかかわらず、人一人通れる隙間が出来ていた。
 この辺の地理に明るくない妹紅は、ここが妖怪達の縄張りで逃げ道や先回りなど様々な状況に対応出来る様に予め獣道ならぬ妖道(あやかしみち)が形成されている事に気付く。よそ者が迷い込めば無事では済まないだろう。
 向こうはこちらが不死身だと言う事は知っているだろうし、誘い込んだのは戦闘をするためではないだろうと予測出来る。この先危険なのは承知の上で、妹紅は意を決して路地裏の通路に乗り込んでいった。
 長い間人が入った形跡がない埃臭いその狭い通路は、隣接する家同士の形状が違うので奥に進むにつれて曲がったり分岐したりを繰り返す。共同井戸、誰かの家の中庭などを横切る。夜なので人の気配はしないが、人が生活している痕跡が伺える場所も通り過ぎる。人間の里は大きな通りに隣接する家々はそれなりに立派な家が多いが、一本裏道に入るとその様子は一変する。
 里には犬猫といった人に飼われている小動物はとても少ない。その為、吠えられる心配がないので助かる。
 そうした小動物が少ないのは、妖怪に食べられてしまう為である。飼い猫がいないわけではないが、そうしたペットは家の外に出さないのが一般的である。ちなみに大きな犬は天狗に連れ去れて駒天狗として使役される存在になる。
 里以外でも動物が少ないのは天狗が使役するために連れ去る為で、その所為で天敵が少なく兎が大繁殖するのである。兎は人間の糧としても貴重だが、肉食妖怪の餌にもなり、幻想郷の食物連鎖に大きな役割を果たしている。
 妹紅は今まで見たことがない町裏の光景を興味深げに観察しながら戻りのルートも忘れるほど歩き回り、やがて一本の長い路地に出る。そこが袋小路である事に気付いたのはしばらく歩いて三方が壁の路地の終点に着いた時である。
 左右の壁は家などの建物だと分かるが目の前の壁は丸太をそのまま地面に突き刺した砦の柵の様に見える。
 里の北と西は太い丸太の高い柵で囲われ外から見ると砦の様に見える。恐らく目の前の丸太は里の北か西の端の柵の一部だろう。おおよそだが自分の位置が分かった。
 巧みに袋小路に誘い込まれている事は気付いている。躊躇なく罠にはまって見せたのは誘い込んだ相手に会って話をするためだ。
「さて・・・。」
 どうするか思案すると背後に気配を感じ、妹紅は追っていたにもかかわらずいつの間にか背後に回られたその気配の主に声を掛けられる。
「私に何か用ですかな?」
 振り向くと、そこにはあの時の仮面の妖怪、妖酔乃瀧の主人がまるで偶然居合わせたような様子で狭い通路の真ん中に仁王立ちしている。
 服装は森近霖之助のそれに似ていると今ようやくこの妖怪の姿を冷静に捉える事が出来た。裕福層では長着に羽織が一般的だが、平均的な家では半襦袢にステテコである。
 仮面の妖怪は、霖之助などと同じ、地の厚い裾が腰下までの半襦袢で、帯ではなく胸部から下腹にかけて大きめの胴当てを帯で硬く締めている。ちなみに霖之助の胴当ては革の小さな鞄がついている。
 下は上着と同じ厚い生地の袴に似た幅広のズボンで、太もも辺りは大きく膨らみ、脛当をした膝下から細く引き締められている。動きやすそうで、このままいつでも戦闘に入れる状態だ。
「ここに誘ったのはあなたでしょ?」
「話がし易い様に人気のない場所に案内して差し上げた・・・とは思いませんか?」
 妖怪のその言葉から、こちらの内面が見透かされている事に気づく。完全に後手に回ったと表情は変えず悔しがる妹紅。相手が優れているということに異を唱えるつもりはない。それよりも慧音の事で気が動転して、自分から隙を与え過ぎているのが後手に回るそもそもの原因だと猛省する。
「聞きたい事は幾つかあるけど・・・まずは、何故私の存在を誰にも言わなかったの?」
「ふむ・・・それは簡単です。貴女が先生ととても親しい間柄というのを知っていましたから・・・。」
「それは嘘よ、それなら・・・。」
 妹紅はその言葉が嘘だと見破り、間髪いれずに異を挟む。
 親しい間柄なら何も隠れる必要もなく堂々と会合に参加すればよいのだ。しかし、そんな妹紅の反論を予め想定していたかのように、妹紅の言葉を無視して言いかけていた話しの続きを始める仮面の妖怪。
「と、言うのは建前でしてね。」
「うっ!」
 焦りすぎだと心の中で自分自身を罵る妹紅。完全に遊ばれているではないか!
「先生は既に貴女を敵性勢力であることを私に教えておりました。」
「なら!・・・いえ、何でもないわ。」
 また反論しようとして、今度は思い留まる。どしたと言うのだろうか?妹紅は自分でも気づかない程に動揺して平常心を保つのに苦労している。永遠亭と闘った時とまるっきり正反対の状況と言える。あの時の永遠亭の心境は今の自分の様なものなのだろうか?だとするならさぞ気分が悪かったことだろう。
「敵に計画を見られれば、計画は途中で頓挫してしまいます。そうならないように敢えて見て見ぬふりをしたのです。」
「・・・。」
 何も言わずじっと聞く態勢になる妹紅。妖怪はそれを見て一度頷いて話を続けた。
「先生は貴女を敵性勢力とみなしておりますが、貴女は先生を敵性勢力と見なしてはいない。違いますか?」
「違わないけど・・・何でそれが分かるの?」
「何となくです。第六感といいますか。貴女があの時私を見て驚きつつも行動を起こさずその後私に全てを委ねる判断をしました。私もあの時は腹の底から驚きましたよ。でも、貴女があの場で何もしなかったので、私はあなたを信じたのです。」
「・・・。」
 そう言えばあの時何故かこの妖怪を信用していた事を思い出す。この妖怪には独特の魅力があり、大勢を束ねる器量が見える。それとも交渉事が上手い種族的な特性でもあるのだろうか?
「私は先生のやろうとしている事に対し全身全霊を捧げ協力する事を誓いました。私達妖怪の誓いは絶対。しかし・・・。」
「しかし?」
「先生を失うのはやはり辛い。」
 この妖怪は慧音の行う事の意味を十分承知しているようだ。
「慧音は何をしようとしているの?」
「あれを見て貴女は何をすると思います?」
 あれというのは商工会館の奥の部屋に保管された各種書類の山の事である。
「アレは神事の準備、守矢神社に繋がる諏訪の神様を幻想郷に呼び込もうとしている。」
「流石ですね・・・で、それをやるとどうなるか分かりますか?」
「幻想郷の仕組みを根底から覆す行為、それはすなわち幻想郷に対する謀反。知れれば打ち首必至。」
「その通りです。」
 妖酔は拍手をするが、それは馬鹿にした態度ではなく敬意が込められていた。
「貴方は慧音と友達なのでしょ?なら何故止めないの?」
「先生は友達ではありません。命の恩人です。」
「それなら、なおさら!」
「先生に大恩ある私が、それを止めなかったと思いますか?」
「そ、それは・・・。」
 妹紅は唐突に理解した。何故この妖怪が自分の心を見透かす事が出来たのか。簡単な事だ。この男もまた自分と同じ葛藤を心に抱き、苦しみ、泣き、そして諦めたからだ。この妖怪は妹紅に昨日の自分を見出しているのだ。だからこちらが何を考え何を思っているのか手にとるように理解できたのだろう。
「実は迷いました。貴女があそこにいた時、それを報せて騒ぎを起こせば、この計画は露呈し取りやめになる可能性が高く、ただの酒宴で終わったはず・・・ですが、先生はこの計画に文字通り命を賭けていた。」
「・・・。」
「貴女は先生の友人として、先生との信頼を完全に失い、憎まれ、軽蔑される存在になったとしても、落胆し廃人になって口がきけなくなったとしても、心の臓が機械的に動いてさえいれば、それで構いませんか?」
「それは・・・。」
 仮面の妖怪の迫力に圧されて即答出来ない妹紅。肉体的に生きていても心が死んでしまえば同じ事である。だが、それでも、それでも生きていて欲しいと思ってしまうのだ。
「私は・・・先生の計画に協力し成功させる事で恩に報いる道を選びました。貴女はどちらを選びますか?今、先生の命を助けられるのは貴女だけです。」
「う・・・。」
「何故こんな話を貴女にしたのか分かりますね。私は先生の計画を成功させたい。しかし、その一方で先生に死んで欲しくないのです。」
「貴方の変わりに・・・慧音の未来を私に選べというの?」
「卑怯者と罵ってもらって構わない。私は既に先生の野望に与してしまった。もう後戻りは出来ないのです。」
「そ、そんな・・・。」
 この妖怪に問題解決の糸口を見出そうとした妹紅だったが、逆にこの妖怪が妹紅に助けを求めていたのだ。
 慧音の計画を阻止すれば彼女の命と引き替えに裏切り者として扱われる事は必至だろう。仲違いし以後交わる事無くそれぞれ別の人生を歩んだとしよう。事がこれで済むならそれほど悩む事はない。この妖怪か自分か、とにかく誰かが汚れ役を買えばいいだけである。
 しかし、慧音の計画は、博麗神社の奪還であり博麗神社の復活と繁栄である。これが失敗すれば博麗神社は現状維持のままで神主も巫女もやがていなくなり完全に博麗神社の存在意義が消滅してしまうことになる。つまり幻想郷はそこで破綻するのだ。
 幻想郷でしか生きられない妖者はそこで終焉を迎える事になる。一時の感情で先を見誤れば今すぐではないにせよいつかは終わる。慧音一人の命で幻想郷が長く繁栄するなら、上に立つ者ならそちらを選ぶのが正しいといえる。
「しかし!」
 唇を噛みしめ肩を震わせて突然罵るように吐き捨てる妹紅。納得出来ない!到底受け入れられない!何か良い方法は無いのか?
「貴女はこの異変の重要な存在だと聞きました。貴女なら八雲紫に物言いが出来るのではないですか?」
「・・・。」
 妖酔の言う通りではあるが、妹紅は自爆後にどうなるか予想が出来ない。長期間復帰出来なかったら物言いも出来ない。すぐに復帰出来れば命懸けで慧音を守る!しかし、その保証が全くない。
「くそ!」
 妹紅は跪いて地面を両手で思い切り叩いた。
 慧音の計画が実行され、何事も無くただの酒宴で終われば問題ない。しかし、話は既に守矢神社に行っているという。恐らく慧音の作戦は上手くいってしまうだろう。
 慧音を生かせば幻想郷の未来は立たない。その逆も然り。考えても考えても話が同じところをぐるぐる回る。
 どれくらいの時間を考え悩んでいただろうか?気付くと仮面の妖怪は消えていた。
 妹紅は重苦しくよろよろと立ち上がった。その目は虚ろで、何か独り言をぶつぶつと呟いている。心ここにあらず・・・そんな面持ちだった。


 陽が沈んで霖之助が帰宅の途に着き、辺りが暗くなると妹紅が酒蔵組合の調査に出かけた。
 風見幽香は一人藤原邸に残され、妹紅の帰りを気長に待ちながら今後の事について考えていた。
 霖之助の言う事が正しければ巨大な物体が幻想郷に落ちてくる。どんなにがんばっても霊夢一人の結界ではどうにか出来るものではないと思う。
 八雲紫と八意永琳が会見した事は妹紅から聞いた。ならばこの物体に対する対策は既に話し合われているだろう。しかし、どうも信用出来ない。紫のやることは結構な確率で失敗する。例えば月面戦争のように・・・。

 結界を張るなら少なくとも直径42kmの球体とそれを巻き込んで自爆する妹紅をすっぽり包み込む非常に大きな結界が必要だ。
 例えば1秒間だけ張るという限定的なものならそれも可能かも知れない。しかし大爆発すると想定されるがその膨張するエネルギーを押さえ込み、尚且つそれが収まるまで結界を維持し続けなければならないとしたらどうだろう。こんな事が可能だろうか?
 幽香は歴代巫女ナンバー1の誉れ高い500年前の吸血鬼戦争で天照大神を卸した現巫女と同名の博麗霊夢という人物を今でもよく覚えている。その力量を今の巫女と比べて見るが、その力の差は歴然である。そしてそのナンバー1巫女でも妹紅の自爆と要塞を封じる結界の施行は無理だと判断せざるを得ない。
 力とは範囲を狭めれば狭める程、硬く強くなるが、逆に範囲を広げれば広げる程威力は分散され薄く弱くなる性質がある。これは当然結界にも同じ事が言える。
 そんな非力な霊夢の力を補うには何か別の存在に頼るしかない。それは例えば強力な神様を卸して、その神様に結界を張らせるか、神様にお願いをして力を授けてもらい、その力で結界を張るかである。或いは力を補う増幅装置や充電池のような道具を使うというアイデアもないわけではない。ただ、幽香は神社や神具に関する知識がないので具体的にそれが出来るのか分からない。
 幻想郷という世界の中に、神様以外で神社の巫女に力を授与出来る存在はいない。神様なら何とか出来るかもしれないが、里周辺にいる落ちぶれた神様では何の助けにもならないだろう。神様の力とは信仰の量に比例するので、大きな信仰を持つ大きな神社にいる神様でなければならない。しかし、博麗を中心とする狭い幻想郷にそんな大きな信仰を持つ神様はいてはならない。いれば信仰のブレが生じ幻想郷そのものが成り立たなくなる。
 諏訪の神様が現在妖怪の山に居座っているが、本格的な人間の里への侵略行為は行っておらず今の所は助かっているが、これもいつまで続くか分からない。少なくとも博麗を消してしまうのはまずいと思って自重しているというところだろう。ただ、何かを企んでいる事は間違いなく、紫も警戒している。
 基本的に神社とか神様が嫌いな幽香は妖怪の山の神様の話だけは聞いたいるものの、それ以上詳しい事は全くわからない。まー分かろうともする気はないが・・・。

 幽香は間近に迫る『その時』を想定して自分なりに霊夢に何かしらの助力が出来ないかと考え始める。
 自分の力なら植物を使って一時的な支えを作る事は可能だと思う。しかし、明らかに強度不足だ。大きくすればするほど密度が薄くなって弱くなる。
「密度か・・・萃香ならあの玉っころを持ち上げる事も出来るかもしれないけど・・・あの相当な質量を支えるにはかなり大きな足が必要でしょうね。玉が落ちる前に萃香に踏み潰されちゃうわね、きっと・・・。」
 萃香を利用するアイデアは良いと思い、そこを基点に構想を膨らませる幽香。楽しそうにむふーっとしながら一人考える。
「あ、そうだわ!」
 ひとつ名案が浮かんで手をポンと叩いた時だった。中庭に誰かが来た事に気づき、夜目が効かない幽香は目を凝らして相手を確かめる。確かめるまでもなくそれは恐らく妹紅だろうと予測出来たが、どうも様子がおかしい。
「ん?妹紅?」
 引きずるような足取りでとぼとぼと力なく縁側に腰を下ろしがっくりと肩を落とす妹紅。そう、確かにこれは藤原妹紅だ。
「どうしたの?」
 目の前にいるのは明らかに妹紅なのだが、数時間前にここで別れた時と全く違う気を放っている。いや、放っているというより覇気が全く感じずむしろ生物として正常な気が失われている様に感じるのだ。
 これが誰か妹紅に化けた別人なら蹴飛ばしてやるところだが、これが妹紅本人ならかなりやばいのではないだろうか?不安になる幽香。
「ねえ!妹紅!どうしたの?」
 座敷に正座をしていた幽香は立ち上がって縁側に移動し靴を履いて一度中庭に下りて、座ってうな垂れる妹紅を正面に捉える。
「妹紅・・・?」
 幽香は妹紅の正面に立ち、膝の上に両手の握り拳を置いて何かを必死に堪えているかの様に小刻みに震えている妹紅の左の手の甲にそっと右手を添え、下を向いている妹紅の顔を覗き込む。
「も・・・はっ!」
 幽香はもう一度妹紅の名を呼ぼうとして絶句する。
 小さな女の子が母親とはぐれてその寂しさ心細さをぐっと堪えている様な、今にも泣き出してしまいそうなか弱い少女の顔がそこにあった。
 幽香は一瞬何者かの術か能力で力を根こそぎ奪われて、何の力も持たない12歳前後の少女になってしまったのではないかと咄嗟に感じる。しかし、それはすぐに自己否定する。そんな術は存在しないし、相手はあの妹紅である。八雲紫にも八意永琳にも不可能だろう。では、この目の前の女の子は誰だ?
「どうしよう・・・。」
 少女の口から消えそうなか細い声がもれる。そして今にも溢れ出しそうだった少女の涙の粒が、瞬きの僅かな力が呼び水となって、ついにとうとうと流れ落ちはじめる。そして頬を伝って幽香の手に零れ落ちて雨粒のように弾ける。
 その涙の小さな重さと熱さを感じた時、幽香の背筋は凍り全身の毛が逆立った。やばい!妹紅の心が完全に折れている!異変の直前に妹紅がこんな状態になっては、幻想郷の未来にも大きな影響を与えるだろう。もちろん悪い方にだ。
「妹紅!」
 幽香は両手で妹紅の肩を掴んで少し強く揺さぶって気を確かに持てと気合を入れる。
「どうしたの妹紅!言いなさい!何があったの?」
 溢れた妹紅の涙は顔を揺らされ上下左右に不規則に弾け飛ぶ。この時ようやく妹紅の焦点の定まらない視線が幽香を捉える。
「幽香・・・どうしよう・・・わたし・・・。」
「だからどうしたの?説明しなさい。」
「慧音が・・・慧音が・・・。」
「慧音がどうしたの?」
「慧音が死んでしまう・・・どうしよう・・・どうしよう・・・。」
 慧音と死と言う2つのキーワードが出る。不吉な予感が過ぎるが、その言葉から慧音はまだ死んでおらず、しかし、このまま放っておくと死んでしまうと言うニュアンスに取れた。
「慧音が病気にでも罹ったの?」
 首を振る妹紅だが、ここで必死に我慢していた感情の箍が外れ、顔面をくしゃくしゃにして大声で泣き出す。
「う、うう、うああああああああああああぁぁぁぁぁー!」
 もはや凄腕の妖術使い藤原妹紅の面影はどこにもなく、そこに居るのは心の支えを失った哀れな少女の姿だけだった。

 両手の拳を強く膝に押し付ける様にして全身を震わせて大声で泣き叫ぶ妹紅。涙と鼻水で顔が濡れても構わず大きな口を上に向けてびーびーと泣いている。こんな風に泣いている3、4歳の幼子を里で見たことがあると不意に思い出す幽香だが、まさかあの妹紅がそんな子供の様になるとは思いもよらなかった。
 何か見てはならないものを見てしまったという背徳感を覚える幽香。どうすることも出来ずオロオロと妹紅の肩に手を置いたまま助けを求める様に周囲を見渡すがもちろん誰もいない。
 端から見たら子供を泣かせているいじめっ子妖怪の図であると、自身を省みて冗談っぽく笑って誤魔化すところであるが、この時ばかりは幽香も冗談を言ったり考えたりする余裕が全くなく必死だった。赤子をあやす様に『居ない居ないバー』でもすれば泣き止むのだろうか?それとも飴玉など甘いもので気を引くとか・・・。いや違う。真剣にくだらない事を考えて首を振る幽香。冗談ではなく真剣に戸惑ってしまう。
 完全に予想外、想定外の妹紅の行動に見っとも無く狼狽えると同時に、異変の事が心配にもなってくる。このままでは妹紅は完全に少女返りして異変どころの騒ぎではなくなるだろう。
 こんな時に誰を頼れば良いのか頼りになりそうな人物を思い浮かべるが、閃めいて浮かぶ顔は数時間前の藤原妹紅の顔だ。何だかキツネにつままれているようで、アホらしくなってこのまま放って逃げ帰りたい心境になる。しかし、当然このままにしておくことは出来ないのでぐっと堪える。
 ここは意表を突いて殴って黙らせるかと言う最も幽香らしい発想が頭を過ぎるが、こんな可愛らしく哀れな少女をどうして殴れよう?と、いつも平気で殴る自分を棚上げする。
「もう!どうしたらいいのよ!」
 幽香は居たたまれず妹紅を強引に立たせるとそのままぎゅっと抱きしめた。普通の女の子なら痛くて悲鳴を上げそうな力であるが、それに応えるように妹紅の腕が幽香の背中に回り強く抱きしめ返す。そして同時に泣き声が悲鳴の様な絶叫に変わる。
 こうなったらもう妹紅の内に篭った何か悪い物を涙と声と一緒に外に吐き出させるしかない。それしか出来ない幽香は何も言わず痛い程強く小さな妹紅の身体を抱きしめ、銀色の美しい髪に頬を寄せた。

 慧音の身に何かがあった、もしくはその身に何か良くない事が起こると判明したのだろう。それにしても妹紅のこの変わりようは何だろうか?それだけ慧音という存在が妹紅に大きな影響を与えていたということだろう。
 幽香は妹紅と会ってまだ十日も経っていないわけだが、まるで何百年も前からの親友の様な感覚になっていた。それなりに強い信頼関係が結ばれたと自負していたが、慧音との絆はもはや別次元であることを見せ付けられた。軽い嫉妬と同時に羨ましいと思う自分がいる事に気づく。自分と慧音の差はどこにあるのだろうか?やはり霊獣と妖怪との間には埋められない溝があるのだろうか。
 そしてそれと同時に、どんなに強くても妹紅は人間なのだと言うことを思い知らされる。一瞬で感情が変わり、それが体調にまで及んでしまう。人間固有の非常に面倒くさい性質である。妖怪は感情に殺される事はないが、人間に感情で容易に死ぬ事が出来る。
 数時間前と全く違うその妹紅の姿に、一時これは演技ではないかとも疑ってしまう。しかし、幽香の目からは明らかに本物に見える。もしこれが演技だというなら、騙された方ではなく騙した方の勝ちだと認めてもいい。

 恐らく30分以上そうしていただろうか?妹紅も既に泣き止み幽香は少しずつ妹紅から事情を聞きだす。
 たどたどしくか細い声で事情を説明する妹紅の声が、まるで別人のようで、しっかりと支えていないと消えてなくなりそうで怖い。薄く淡い桃色の唇口の先だけでぽそぽそとしゃべるのでとても聞きづらく、問題の慧音の死というところにくるとまた涙が溢れ出して振り出しに戻る。先程からこれの繰り返しだ。
 こうなると流石の純白幽香もイライラしてだんだん暗黒幽香になってくる。このままだと埒が開かないし、病気の様にどんどん症状が悪化して取り返しが付かなくなるのではないかという危険性を感じはじめる。
 妖怪ではあっても人間とそれなりに長い付き合いである幽香は、人間の扱い方を知っている。それ故に妹紅に対して柄にも泣く優しく対処していたわけである。しかし、それは間違いではないだろうか?このまま妹紅の気持ちに追従して調子を合わせていたら、完全に別人に変わってしまうのではないか?
 意を決した幽香は、弱弱しい妹紅を突き放して、両手で妹紅の両の頬を大きな音がするほどバシバシと叩いて正気に戻させる。
 最初は驚いて更に泣き出しそうになった妹紅だが、身の危険を感じると隠れていた防衛本能が呼び覚まされ、次第に目に力が戻り始める。それを見て正しい選択をしたと確信した幽香は最後の仕上げとばかりに背中を思い切り叩いて妖力を注ぎ込む。
「痛!」
 地面に膝をついて背中を押さえて痛みに耐える妹紅。その声が普段の妹紅に戻っていると見て一安心する。
「おかえり妹紅・・・やっと正気に戻ったわね。」
 いつもの調子に戻れば報復されるかもしれないと受けて立つ準備をする幽香は、首の骨の一本や二本覚悟する。
 か弱い妹紅もまたそれはそれで中々楽しめたが、ずっとあのままでは流石に気持ちが悪い。というかもう懲り懲りである。
 正気を取り戻して立ち上がった妹紅は、幽香に背を向けてぐちゃぐちゃになった顔を袖で必死にぬぐって元に戻そうとする。それを見て肩をすくめて苦笑しながらハンカチを渡す幽香。それを奪い取るようにして涙を拭き、そのまま鼻をかんでそれをポケットに突っ込む妹紅。
 妹紅は身体を幽香の正面に向けたものの顔は横を向いて鼻の頭をポリポリ掻いて何事も無かったかのように誤魔化す。格好悪いところを見せてしまったが、未だ問題は解決されたわけではなく、心のもやもやが全く晴れない妹紅。
「落ち着いた?」
「ありがと・・・後で洗って返すわ。」
「そんなことはいいから、ちゃんと話して?」
「・・・。」
 押し黙る妹紅。
「あーあ、服が誰かさんの涙でびしょびしょ・・・。」
 この期に及んでまだ話そうとしない妹紅に嫌味を言う幽香。
「・・・慧音のやつ、外から神様を呼び込もうとしている・・・守矢神社を利用して・・・。」
 萎縮した心に気を叩き込んで戻してくれた恩もある。この際だから幽香に全部話して相談に乗ってもらおうと思った妹紅は縁側に腰掛け、それに応じて隣に体をくっつけて座った幽香に全てを話した。


「・・・そりゃー死刑になって当然だわね。」
 全て聞かされた幽香の開口一番がこれだった。今の妹紅には辛い言葉だが、変に慰められるより気持ちは楽かもしれない。
「・・・。」
「泣くほど苦しんだってことは、慧音の作戦を黙認するって事でしょ?」
 慧音の死を受け入れないというのなら今ここで泣いたりはせず、すぐに行動に移っているはずである。
「頭では分かっているつもり・・・でも。」
「あっちを立てればこっちは立たず・・・か。」
 妹紅も何度考えても必ずループする。
「・・・。」
 幽香はうな垂れる妹紅を横目に、自分なりに考えてみるが、そもそも慧音が死と引き換えに直訴のような見っとも無い策をとるだろうか?不思議に思い始める。
 何故不思議に思うのか?根拠としては彼女が霊獣という点である。妖怪の自分が言うのも何だが、自分の命と引き換えに・・・というくだらない発想は人間固有の思考である。いくら半分人間であっても霊獣である慧音はまずそんな発想をしないだろうと思うのだ。
 人間である妹紅には見えず、慧音と同じ人外の存在である妖怪の幽香にしか見えない現実がある。
 少なくとも慧音は妹紅を完全に掌握しているだろう。しかし、妹紅は慧音の全てをしっかり理解しているのだろうか?単なる片思いなら慧音が可愛そうではないだろうか?
 異変の事もあるのであまりキツイ事は言いたくないのだが、しかしこのまま妹紅に迷いを持たせたままにしておくのもまずい。ここはちゃんと言っておいた方が妹紅の為にも異変の為にも良いのだろうと心を決める幽香。
「ねぇ、妹紅?」
「ん?」
「私、妹紅と慧音は一心同体の存在かと思ってたけど・・・あなた、全然慧音の事理解してないみたいね。」
 誰よりも慧音を理解していると自負する妹紅は当然カチンと来て立ち上がり、隣に座っていた幽香の前に立って恐ろしい形相で見下ろした。
「もう一度言ってみろ!」
 喰い付いたと幽香は内心ニヤリとする。妹紅のあの取り乱し様は、偏向した愛情がそうさせたと確信する。いつも一緒だった二人が離別したことで、想いが強く歪んで判断力を低下させたのだ。幽香はやれやれという心境になる。ここは妖者のなんたるかをしっかり教育してやらなければならない。

 妖怪である幽香ではあるが長年人間と隣りあわせで過ごしてきた。人間ではないだけに逆に人間の長所短所を客観的に見る事が出来、どのように言えば説得したり諭せるかを知っている。
「慧音は貴女のことをよく知っているけど、妹紅は慧音の事を何も知らない、理解していない。何だか慧音がか・・・。」
 幽香が可愛そうと言い終える前に妹紅に胸座を掴まれる。想定内。
「黙れ!」
「頭を冷やしなさい。こんなくだらない挑発に簡単に乗ってしまう程、今の貴女は精神的におかしくなっているのよ。」
 ハッとなって幽香から手を離す妹紅。
「私は紫と違って上白沢慧音を見下したりはしないわ。まぁ紫が慧音を見下すのは、それだけ慧音を危険視しているという裏返しでもあるのだけれど・・・。」
 幽香は自分の座っている縁側の横をポンポンと叩いて妹紅に座る様に促す。少し頭が冷えた妹紅は素直にそれに応じた。
「そういえば妹紅、さっき妖酔乃瀧の仮面の妖怪と会ったと言ったわね?」
「ええ。」
「彼の事を少し話しましょう。彼は吸血鬼戦争の時、魅魔の部下で千人隊長を努めた用兵家の猛者よ。」
「吸血鬼戦争?」
 またしてもここで吸血鬼戦争の話が出る。幻想郷に関わる上でこの戦争は切り離せないものらしい。
「でも、戦中吸血鬼に捕らわれて、吸血鬼にさせられたのよ。」
「え?」
 衝撃の事実である。
「吸血鬼も皆が邪悪な存在というわけではないわ。血の乾きの拷問に屈しなかった妖酔は吸血鬼側から賞賛され、捕虜交換時に勇者として帰されたのよ。その後、血の乾きに耐えながら終戦まで一人の妖怪として魅魔の下で戦い抜いたの。でも戦後処理で八雲紫は吸血鬼廃絶を訴えた。あれ以来妖酔は私達の前から姿を消したの・・・。」
 妹紅はあの仮面の妖怪が八雲紫に敵意を持っていた事を思い出す。そういう過去があったのだ。しかし、その吸血鬼がなぜ堂堂と里で商売を・・・。
「100年以上経って、慧音が里で受け入れ始めた頃、傍らに一人の妖怪がいた。」
「それが、妖酔?」
「ええ、妖酔は霊獣の血を飲んで血の乾きから開放され、吸血鬼でありながら血をあまり必要としない体質になって、恩人の慧音と一緒に里を守ったの。だから妖酔は里で妖怪の元締めをしているのよ。」
 霊獣の肝や血は、万病の薬とされている。吸血鬼という一種の感染病の症状が緩和されたという事だろう。それにしてもそんな事実、妹紅は全く知らなかった。幽香ですら知っている事を自分が知らなかった事に軽いショックを受ける。
「知らなかった・・・。」
「上白沢慧音は、里では先生と呼ばれ、あたかも里の法と秩序を司る存在と思ってしまう。でもね、慧音は正しい事であれば法や秩序、固定化したルールを簡単に壊してしまう柔軟な頭を持っている。違う?」
 慧音に対する正しい評価だと妹紅は頷く。
「・・・良いと思った事はすぐに皆に提案してルールを変えてきた。不気味がられた私の友達にもなってくれた。好奇心旺盛でよく失敗もしたけど・・・。」
 妹紅の目から先程とは違う涙がこぼれる。そうだ慧音は自分の命と引き換えに・・・などという選択肢はしないはずだ。ようやく真実に辿り着いた。
「慧音は後世の為に自らの命を礎にするなんて発想は持たないわ。後世にまでずっと関わって永遠に世界を見定めるはずよ?違う?」
「・・・違わない。」
「きっと彼女にはルールを破ってもそれが死に繋がらない、紫に勝つ勝算があっての事なのよ。」
「勝算?」
「ふふ、ほんと貴女は自分の事となると全く見えないのね。そう、勝算は妹紅、貴女よ。」
「私?」
「不死鳥はただ世界を破壊する為に転生するのではないわ。世界の行き詰った秩序やルールを破壊して、新しい発想と仕組みが育める土台を作って、世界そのものを次のステップに持ち上げる存在なのよ。」
「!」
「現状のルールが慧音を殺すというのなら。貴女はすべてをぶっ壊して新しい世界を創ればいい。簡単な事よ。」
「そういうことか・・・。」
 妹紅は得心する。それと同時に、慧音の本当の気持ちを理解出来なかった自分が情けなく思う。
「私は前に、吸血鬼の事にあまりかかわるなと言ったけど、それ撤回するわ。」
「え、なぜ?」
「貴女は全てを引き受けなさい。全てを道連れにして壊し再生して世界を造り替えなさい。」
 幽香の妹紅を見る目が期待に満ちていた。
「ゆ、幽香・・・。」
 妹紅は横にいる幽香を大きいと思った。生き物としてのスケールの大きさを肌で感じた。紫や藍といった強い妖怪は大地に君臨する存在といえる。しかし幽香の強さとは大地そのもののようだ。魅魔が何故幽香を認め大事に思っているのか理解出来た気がした。

「さて、私はそろそろ行くわ。私もやるべき事がみつかったから。」
 何も見えてこなかった異変の一部が霖之助によってもたらされてから、幽香も何か出来ないかと考え、ある名案が浮かんで実行してみたくなっていた。そのやりたい事は妹紅と別れる直接の理由にはならなかったが、しかし、状況が変わった。
 里の連中が神社までの道を強行突破するつもりで、その護衛に大量の妖怪傭兵を雇っている事を知ってしまった。博麗神社とその周辺は確かに安全だが、その南側、太陽の畑に至るエリアは非常に危険な場所で人間の集団が通ろうものなら、空を埋めつくような数の人食い妖怪が襲ってくるはずだ。
 幽香がなぜその周辺に陣取っているのか?それはそうした人食い妖怪が人間の里に行かないように抑止力となるためである。
 異変が起こっている混乱した状況では、自暴自棄になった他の妖怪達が最期の晩餐のつもりで人間達を襲う可能性もある。神社に向かう者達には傭兵がつくので大丈夫だろうが、そうなると里はもぬけの殻になって危険である。そしてその里の守りを自分に頼もうとして捜索されていることも妹紅から聞かされた。
 頼りにされれば応えずにはいられない性分の幽香としてはここは行くしかないだろう。そして里に入ればそれは即ち慧音側に付くという事も意味する。慧音と妹紅が建前上でも敵対している事になっているなら、自分もまた妹紅と敵対する立場になる事を意味する。

「え?」
 妹紅は幽香の言葉を聞いて驚き聞き返した。
「紫は次の段階に進んでいると思うし、私は紫の構想する計画に必要なメンツに入っていないと思うわ。だからもう怪我人のフリは必要ないでしょ?」
「ちょ、ちょっと待って!」
 突然の別れの宣告。立ち上がりそのまま中庭から去ろうする幽香を引き止める妹紅。
「しっかりなさい、藤原妹紅!まだ、貴女を必要としている者がいるかもしれないわ。そうした連中はきっと貴女を頼ってくる。紫、魔理沙、魅魔、サーヤみたいにね。だからしっかり面倒見るのよ?」
「待って、今すぐじゃなくてもいいでしょ?」
 妹紅は去り行こうとする幽香を惜しく感じた。このまま自分を支えて欲しいと思い始めていた。
「ふふ、私もこの異変で自分の力を試してみたくなったのよ。」
「あなたは最強よ。試す必要なんてないわ。」
 根性悪く食い下がる妹紅。
「勘違いしないで。私は力試しをしたいのではないの。フラワーマスターとしての自分を試したいの。」
「フラワーマスター?」
「ふふふ、まぁ見てなさいって。」
 心底嬉しそうな幽香の笑顔を見て妹紅は諦めた。諦めたと同時に感謝の気持ちで一杯になった。
「幽香・・・あ、ありがとう・・・本当に・・・本当に。」
「それはこっちの台詞よ。私の大切な人たちをたくさん救ってくれた。ありがとね妹紅。また会いましょう。」
 真夜中にもかかわらず何故か日傘を差して背を向ける幽香。彼女の日傘は陽除けとして使っているのではなく、単に可愛いから気に入って使っているだけなのだろう。可愛いものをこよなく愛する心優しい最強の妖怪よ。


 風見幽香は去った。十日にも満たなかった藤原邸での滞在だったが、もう何年も前からそうしていたような印象だ。
 縁側を振り返り、帰宅するといつも座敷に正座をしていた幽香の姿を思い浮かべる。全ての始まりは幽香からだった。あの時彼女の首の骨をねじ折った時から全ての因縁が輪となって循環し始めた。
 八雲紫とその妹藍。魔理沙と魅魔から派生した500年前に遡る吸血鬼との因縁、そして永遠亭との因縁が自分を経由して紫と繋がった。八意永琳は、八雲紫が自ら分離した創主であることを知っているのだろうか?
 西行寺幽々子とは、幻想郷とは別の外の世界で間接的な因縁がある。妹紅の予想が正しければ、魂魄妖夢は水子になり半人半霊、幽々子僕という運命を背負わされて生まれ変わったのだ。そして彼女を殺した集団の末裔が自分なのだ。
 吸血鬼の事も不死人狩りでフランドール・スカーレットをいじってしまったことで因縁が生じてしまった。そしてこの不死人狩りは大勢の妖怪と奇妙な因縁を作ってしまったのだ。
 自分は幻想郷の住人とは何の関係もない他人で、過去を全てリセットして慧音と共に新しい人生が始まると思っていた。
 しかし、そうではなかった。色々な人と繋がりそれが複雑に絡み付いている事を思い知らされた。
 吸血鬼に深く関わるのは危険だと忠告されたが、今は逆に全てを引き受けるように言われた。それは身動きが出来なくなった世界、人、妖を全てまとめて浄化の炎に焼き尽くせと言う事か?

 幽香はてっきり中立的な立場で傍観者を決め込むつもりと思っていた。だが違った。彼女は紫のすることを息を潜めて観察し、事態の進展を見て動く機会を虎視眈々と狙っていたのだ。
 八雲紫と八意永琳が同盟し、巨大な物体が幻想郷に落ちるという演出が為される事を知った。そして、水面下で慧音に率いられた人間達が博麗神社奪還に動き出している事も知った。これを見て幽香は何かを企みそして動いたのだ。
 妹紅は紫をまるで天皇のように敬い、彼女の言葉を勅旨として受けとめていた。それは自らの力を抑制するための口実として大いに利用出来た。しかし、それは単なる逃げであり、自らの力を恐れその力が世界を破滅させてしまうという事に責任が持てず、紫にその責任の全てをを押しつけていただけだった。
 だから見誤ったのだ。明確に八雲紫と対決しようとする慧音が、密かに自分を頼っていることを。離別は紫を油断させる一種の計略でもあったのだ。

 慧音は死なない。いや死なせない。慧音の害となるものは全て敵だ。
 妹紅の中に慧音と同じ八雲紫に対する明確な敵対心が生まれ、心の奥底に負のマグマが煮えたぎるのを自覚した。
 しかし、そんな妹紅の暗黒に片足を踏み入れた心に一陣の風が吹き抜け、燻った炎が一気に燃え上がるのを感じた。

 全てを引き受けなさい。

 幽香の声が頭の中に木霊する。すると妹紅の中のどす黒い感情が消える。
 ふぅと息を吐き闇夜を見上げる。振り子のように行ったり来たりしていた揺れ動く感情の波が収まり静かに凪ぎはじめる。
 逆風が追い風となり、前進を妨げていた潮目が変わった。妹紅は一人得心する。
 妹紅は気分のもやもやが晴れ気持ちよさそうに夜風を頬に受ける。そして次の瞬間眉間に皺を寄せ不適に笑う。それは永遠亭との対決に赴く時のそれと似ていた。
 紫の妹藍に対する罪の意識から姉の紫に対して贖罪の念に駆られ遠慮していた妹紅。そして、紫の言いなりになるという下僕宣言。
 自らに制限を設けて行動の自由を無くし、そうした制限下の中で最良の選択が出来るように心を研ぎ澄ませていた。そして、手に負えるものだけを選んで他は切り捨てようとしてきた。しかし、その切り捨てるべき対象が慧音になってしまった時、これまで研ぎ澄ましてきた妹紅の精神は音を立てて崩壊した。
 極端に言えば魔理沙も魅魔も吸血鬼も切り捨てようと思えば出来た。しかし慧音を切り捨てる事が出来なかった。

 風見幽香に救われた妹紅は、自らに課した制限を取り払い自由の身となった。
 八雲紫に対しての遠慮が無くなれば事はとても単純だ。自分の都合の良い方に全てを造り替えればいいだけなのだ。
 別にそれで紫を嫌いになったり敵対するという訳ではない。八雲紫は幻想郷の天皇であり、彼女の言葉は勅旨だと今でもそう思っている。ただし、天皇だからと言っても永遠ではない。世が乱れそれが中々治まらない状況になれば、天災であってもそれは天皇の資質に問題ありとして廃位させられる。実際そうして天皇が替わる事は何度かあった。紫がそうならないように監視するのが、魅魔や幽香達なのかもしれないがこれからは自分もそうするべきだと思う。

 罪を犯した慧音に罰を与える事は幻想郷を管理する紫の正当な職務といえる。それはわかる。だが妹紅はそこを何としても曲げたい。それをするには罪を帳消しにする何かを献上しなければならないだろう。
 筋を曲げれば自ずとどこかにしわ寄せがくる。どんな理由があるにせよ罪人を許せばそれは悪しき前例を作る事になる。それにつけ込む輩が現れるかもしれず、現に山の神様が何度か企みを行っている。
 紫に対して慧音を件を譲歩させるなら、それと引き替えに彼女の譲歩を飲めばいい。簡単な事だ。幻想郷の害悪となりうる山の神様を紫の手を汚さずに自分が殺してやればいい。神崩しなど妹紅にとって何の苦にもならない。神だろうが何だろうが幻想郷に仇を為す者は全て灰にする。
 妖酔が言ったように、自分なら紫に物言いが出来る。ただし自分が自爆後にいつ復帰出来るか見当がつかない。紫に物言いをするにも兎に角慧音が罰せられるまで時間が欲しいと思う。

 どうすればいいか?

 妹紅はすぐに名案が浮かぶ。何をしてもいいというなら答えは簡単だ。紫を完膚無きまで叩きのめしショックでしばらくの間立ち直らせないようにすれば良いのだ。もちろん物理的なショックではない。精神的にだ。
 具体的にどうするか?妹紅は思わずニヤリとする。それと同時に一旦静まった黒い感情が再び沸き起こる。
「くっくっくっ・・・スキマが盗まれたらさぞ驚くだろうな。」
 紫に大きなミスを犯させる。そして、それを自分がフォローして立て直す。自分の愚かさと無力さを思い知らせて立ち直らせないようにするのだ。
「魔理沙・・・悪いけどあんたを利用させてもらうわ。」
 邪悪な笑みを浮かべて、まっ黒な自分の心をしばし楽しむ妹紅。しかし・・・。
「ふー・・・危ない危ない。」
 直ぐに幽香の言葉を思い出し、心のバランスをとる妹紅。
「恨みで動くんじゃない。大義の下に動くのよ。そして大義には常に犠牲が付きまとう。ふふふ。」
 今の妹紅には妖怪を退治する妖術使いとしての心と、幻想郷という世界で生かされている事に対する感謝の念が同居し常にせめぎ合っている状態である。幽香と対戦し紫らの企みに乗った時、妹紅の心は幻想郷に大きく傾いた。そして慧音の件が発覚してから左右に大きく揺れ動き、今し方妖術使い側に逆転した。
 それをまた中庸に戻したのである。これから先もこのような精神のブレが起こるだろう。その時は幽香の顔を思い出せばいい。ポケットに手を突っ込んだ妹紅は、先程洗って返すといってしまった幽香のハンカチを握る。
「全て引き受ける・・・か。」
 考えてみれば傲慢な発想だと思う。しかし、それを言った者が誰なのかを知れば納得も出来よう。
「紫・・・悪いけどこの勝負は勝たせて貰う。その代わり・・・今後はこの身を貴女の剣として捧げましょう。それが慧音を生かす代償。」
 自分の身体が慧音の命の代償というのなら安いものである。


 妹紅はしばし夜空を見上げながら今後のスケジュールを煮詰める。始まりの時がいつなのか、自分にあとどれくらい時間が残されているのか、それだけでも知りたい。
「さて、何から始めるか・・・。」
 先ずは、九尾から頂戴したスキマの巻物だ。
 紫が使うスキマのように自在なものではないが、特定の地域に移動できる仕組みを任意に行う事が出来れば、魔理沙の件で切り札として使えるはずだ。魔理沙は優れた両親の遺伝子を受け継いだ素晴らしいポテンシャルを持っている。魅魔の件で成長を妨げられているが、それから解放されれば成長出来るはずだ。
 迂闊に自分に巻物を見せた九尾に後悔させてやる。術師としての格の違いを見せつけてやる。
「二度と舐めた口を聞けないようにしてやる。」
 舌なめずりをして邪悪な笑みを浮かべる妹紅。今は妖怪の天敵、妖術使いとして動く。
 妹紅は縁側に飛び上がって雨戸を閉め始める。術の研究解析は極秘事項で誰にも見せられない。恐らく誰も来ないであろうが念の為に目隠しをする。
 今妹紅は妖術使いとしての血が騒ぎ始めており、それを抑える事が出来ず本能に身を委ねた。


 異変は新たな局面を迎えた。