東方不死死 第43章 「虚虚実実」
博麗神社本殿の中で眠っている力を呼び覚まそうとするかのように、集中し気を高める少女がいる。博麗神社の巫女、博麗霊夢である。
自分の中で何かが変わったのは、そう、藤原妹紅が神社を訪れた時からだ。
これまで特別な事でもない限り修業などしなかった霊夢。そんな彼女の重い腰が上がったのは、これから起こる異変が特別だと予感させるからでもあるが、藤原妹紅と会い、彼女の術師としての能力の高さに触発されたからである。
神事に関する修業は一通り済ませている。主に作法が中心で時々思い出した様に試してはみるが、こうしたものは一人でひっそりやるようなものではない。虚しいだけである。いつも偶然居合わせる霧雨魔理沙にまじないを披露して見せるが、彼女がその手品に有難味を感じることはない。
必要とあらば神を卸す事が出来るが、高い地位の神様は様々な契約が必要だ。
訓練をして高められる部分は結界や退魔など陰陽道の系統になるだろう。異変について解っている限りでは、妹紅の爆発エネルギーを押さえ込む強力な結界が必要で、これは陰陽師の力が主となる。
何をするにしても集中力と気力の持続力が必要で、それを補うために自分に力を与えてくれる神をその身に卸す事も念頭に入れている。
現時点で八意永琳の介入を知らない霊夢は、結界の範囲は非常に狭いものとして考えており、それ相応の訓練しかしていなかった。
「今日もいい天気ねー。」
休憩を兼ねて神社周辺を散歩する霊夢。暇を見つけては外を見回るが、これはどこの誰が持ってくるのか不明だが、境内に時々野菜などの食べ物が置いてある事があり、マメに見回りをしていないとせっかくの贈り物がカラスや妖精に取られてしまうからである。
お賽銭箱にお金が入っている時は大抵紫の仕業で、縁側に山の幸が積まれている時は萃香の仕業。この2人から良くしてもらっていることは霊夢もわかっており大変有り難い事だと思っているが、それ以外の贈り物については誰が持ってくるのか心当たりがない。
家内安全、合格祈願などのお札を香霖堂に卸して現金収入を得られるが、最近里ではお札も売れず赤字覚悟で無理に買い取ってくれていることを知って自重している。周囲から気を遣われている事は分かっている。ならば何か恩返しでもしようかとガラにもなく考えるものの、一体何をすればいいのか分からない。自分に出来る事はせいぜい妖怪を退治するくらいだ。しかし、その妖怪に便宜を図って貰っているのだから本末転倒と言うものである。
博麗神社に良い噂が無い事は重々承知している。しかし、今更どの面下げて里に下りて神社の宣伝など出来るものか?だいたい信仰を無くしてしまった里の人間に、もはや神社など必要ないだろう。
一通り境内を見回り、何も見つからずがっかりして母屋に向かう霊夢。
妹紅が来てからというもの幻想郷全体が何か妙な雰囲気になっている。頻繁に訪れる魔理沙は先日兎を持って来たきりで、同じく来る頻度の高い3人組の妖精もここ最近姿を見せていない。姿は見えなくても必ずどこかにいる萃香の気配も今は無い。賽銭箱も空、食料庫も空、そして胃袋も空。
「お腹空いたなー。」
閑散とした母屋の縁側に座ってぬるいお茶を飲む。若い盛ならこの境遇や心の葛藤、不満を誰かにぶつけて憂さを晴らしたり、友人と連れだって遊び回ってストレスを発散するものだが、今の妙な方向に達観してしまった霊夢にとっては、そんな無常の様も趣があって良いとすら思えるのだから困ったものである。
座ったままの姿勢から後ろに倒れて仰向けに縁側に寝ころぶ。ぐぐぅーと腹の虫が不満の声を上げる。
朝食は食べたが昼は食事と呼べるようなまとまった食物を口にしていない。普段から昼は食べない事も多いのだが、ここ最近やっている修業は禅を組んでいるだけなのに肉体と精神の消耗が激しく異様に腹が減って困る。
修業も重用だが、今は今晩の食事にありつけるための方策を練るのが得策だろう。手っ取り早いのは近所の魔理沙かアリスの家に行けばいい。魔理沙の家なら茸は絶対あるはずだ。アリスは最初は何だかんだと文句を言うだろうが、基本寂しがり屋なので結局ご馳走してくれる。
そんなことを考えていると、人の気配がして顔を上げる。
「修業も三日坊主か?」
現れたのは九尾の八雲藍である。三賢者会議後、妖夢の件があったので白玉楼での宴会は取り止め、続きを神社でやろうと、先に藍が段取りをしに来たのである。
「一服してたのよ。」
「まーそういう事にしておこうか。」
「何の用よ?」
九尾を目の前にして全く物怖じしない霊夢。
「場所を借りたいのだが・・・。」
「場所?本殿?」
「いや、座敷で構わない。」
「何をするの?」
「客人を招きたい。」
「客?何で私の家に?自分の家に招いたら?」
「異変に関する事を話し合いたい。お前も含めてな。」
露骨に嫌そうな顔をして見せる霊夢。妖怪との会話は「はいはい」と言いなりにならないのが一般的な作法である。要求をそのまま呑むとつけ込まれるので、基本は言葉のキャッチボールではなく、言葉のドッヂボールである。
何事もそうだが、妖怪との交渉はどちらか一方が損をするようなものは受け入れられない。それが例え苦にならない片手間の簡単なものでもだ。
妖怪に馴染んでいる霊夢は、その辺の交渉の仕方もすっかり妖怪化しており、里の人間が見れば喧嘩腰で会話しているように見えるだろうが、これは霊夢にとって普通である。
「異変?」
異変という言葉に反応する霊夢。細目のキツネ顔でコクリと頷く藍。
「何時から?」
「夕餉も兼ねて夕刻から。あとは成り行きで。」
「生憎だけど、今家に何にもないわよ。」
見事なまでに食料の備蓄がないので完全に開き直る霊夢。
「それは承知している。材料はこちら持ちだ。」
「う、それを先に言ってよ・・・。」
久しぶりにまともな食事にありつけそうなので急に機嫌が良くなる霊夢。
「で、客って誰?」
「八意永琳だ。」
「へー・・・何時からそんなに親しくなったの?」
意外な名前を聞いて少し驚く霊夢。永夜異変の後、和解の宴を神社で催しているので彼女とは面識はある。ただ、なんというか住んでいる場所が違うというか相容れない壁を感じ個人的な交流はない。その後は不死人狩りを蓬莱山輝夜と共謀した首謀者として八雲紫らと険悪な関係になり霊夢も疎遠になっていた。
「関係を修復するための宴でもあるかな。」
「宴会!やった!」
宴と聞いて手をパンと叩いて喜ぶ霊夢。双方の関係修復より宴の方が重要である。
「ふふ、食材は既に台所に運んだ。後は任せていいか?」
「ええいいわよ。任せておいて!」
現金な奴と苦笑する藍。霊夢が飢えない様に何かと便宜をはかる紫だが、最近忙しくて霊夢の面倒が見れていなかった。八意永琳と協調して異変を進める手筈が出来た今、余裕が出来てようやく霊夢に目をやれるようになったというわけである。
霊夢の料理の腕前は達人とは行かないまでも一級品である。藍も紫の為に食事を作るが、料理の腕は年季の割りに上達せず15、6年しか生きていない霊夢にも遠く及ばない。紫としてもおいしい料理をご馳走するなら、藍にやらせるより霊夢にやらせたほうが良いと思ったのだろう。
この小さな宴の席で今回の異変の骨組みが出来る上がるだろう。八雲藍は嬉しそうに台所に霊夢の後ろ姿を見送りながらこれが最後の晩餐にならないことを祈った。
陽もとっぷりと暮れた博麗の里。
大通りと北西の繁華街や大通りの大きな店蔵以外、ほとんどの民家に明かりはなく藤原妹紅はそんな闇に包まれた貧困層の農民の家々の隙間を音もなく歩いている。
暗闇を照らす明かりは裕福な世帯層なら蝋燭やランプ、或いは妖力や魔力を封じた光球(こうきゅう)などがあるが、貧困層では薪や松明に点けた炎くらいである。しかしその薪も有限であるため無計画に明かりを取る ためだけに使えず、その為暗くなって何も出来なくなれば大人しく寝るしかない。
燃料となる薪はとても貴重であり、ただ明かりを取る為だけに使われる事は、少なくとも貧困層にはない。
里における山の恵みは主に西にある『豊穣の森』と呼ばれる比較的大きな森から得られ、その先の『厄神の森』が天狗の領地との境界線になっている。あまり奥に踏みこもうとすると哨戒中の駒天狗に警告を受ける。
豊穣の森は人間の領域と天狗側も認めており、ここは人間が自由に山の幸を収穫出来る唯一の場所となっている。天狗の警備網に隣接している事もあり、人間を襲うような危険な妖怪はここには近づかないのだ。
豊穣の森では誰でも自由に薪が調達でき、里の貧困層はここで薪を得る。薪を売って商売をする業者としてみれば、ライバルが多くここは余りおいしい場所ではない。その為、薪業者は多少危険を承知でも奥の厄神の森まで足を運んだり、博麗神社の建つ本陣山まで足を伸ばすのである。
魔法の森は吸血鬼戦争の名残で妖怪達から不吉な場所とされているので誰も住まず近寄る者もいない。人間側としては人を襲う妖怪が居ないこの森は、比較的安全な場所ということになるが、魔法の森は風向きによって危険地帯が常に変化するので、安定的な長期間作業が出来ず、豊穣の森などと比べ手入れされておらず、人間が糧として得るものは少なく、得られる薪も極僅かだ。神社までのルートが辛うじて人が歩けるところで、それ以外の場所は気軽に足を踏み入れると危険なのだ。
魔法の森を越えた先にある博麗神社には妖怪が寄りついているものの、人間にあまり関心が無く、むしろ他の弱い妖怪が恐れて近づかない魔除けにもなっているので、本陣山は比較的安全な場所となっている。
一人で行動すると神隠しに会うとの事で薪を求める業者は複数人で行く。作業の安全を祈願する為、神社の参拝を欠かさない彼らは、霊夢にとってはとても良いお客様で、彼らに神社の本殿を開放している。業者はここで数日かけて大量の薪を確保して戻っていくのだ。
実際問題として人間が来て神社に参拝するのはこんな時だけである。
そんな貴重な薪だけに大量の湯に全身つかるような風呂は、少なくとも貧困層には存在せず、里における風呂は金持ちの道楽のようなものとなっている。
ちなみに藤原邸には薪で沸かす立派な風呂場があるが、妹紅は垢が出ず身体が汚れないので風呂に入る必要がなく、この風呂は使われていない。神社の母屋にも風呂はあるが、薪が貴重なので霊夢も風呂は沸かさないのだ。人間達にとっての風呂は桶に湯を張って手ぬぐいで身体を拭く程度である。
酒蔵が何軒も連なっている大通りの裏に貧困層の長屋が建ち並ぶ農村部落がある。長屋で数世帯が一緒に生活するのは、貴重な燃料を共有するためでもある。
妹紅は暗闇の中を歩きながら、時々すれ違う寝ずに徘徊する農民に視線を合わせ、一種の催眠術のような術を掛けていく。
この術は自分の姿を見た者に自分の存在を意識させなくする術で、術にかかると目の前にいてその姿をしっかり目で捉えているにもかかわらず、その存在を意識しなくなって、無視してしまうようになる。
物理的に姿を消すのではなく、暗示をかけて術者の存在を感覚的に見えなくするというわけである。
この術の肝は人に見られる事である。その為、術者は敢えて目立つ格好をする。
潜入調査というとコソコソと人目をはばかって目立たない格好で行動すると思われがちだが、少なくとも岩老系ではこの術で人の目から意識させないという方法で相対的に姿を消す方法を使う。
里の南側に広がる農家が主の貧困層の区画から北に向かうと、立ち並ぶ酒蔵とそれを取り囲む塀が見えてくる。そして、森近霖之助から教えて貰った現在の酒蔵組合長の蔵屋敷の裏手に出る妹紅。
「見張りがいるな・・・案山子か?」
案山子というのは金持ちの屋敷に慣例の様に必ず置いている衛兵で、能力は低くほとんど衛兵としての体を為していない飾り者を言う。重要な機密を守っている施設なら当然案山子ではなくプロの傭兵を雇っているはずだ。
妹紅は敢えて姿をさらし殺気を向けて屋根の上の影に自分の存在を気づかせる。その影はそれに反応して翼を広げるとすぐに妹紅に向かって飛んでくる。翼ということは鳥系の妖怪だ。
「(傭兵か。)」
長い両手持ちの棍棒の一撃を避けずわざとまともに頭に喰らった妹紅。衛兵の妖怪はただならぬ気配から侵入者と思ってすぐに攻撃をしたわけだが、避ける気配もなくまともに打たれたので酒を狙う妖怪ではなく民間人を攻撃してしまったと勘違いして激しく動揺する。
殴られた事など全く意に返さない妹紅はその妖怪の動揺した心の隙を狙って、顔を寄せて視線を合わせる。
術と同時に催眠術も掛ける。姿を意識から消してもこの妖怪には持ち場からこの場所に移動したという事実が残る。それを疑問に感じて侵入者がいることを報告されてもまずい。先程の見えなくする術と一緒に、ここに来た理由を妖怪に与える。
「お前は小便に来た。」
「あ、あれ・・・あ、そうだション便っと・・・。」
妹紅の姿が意識から消えた衛兵は見られている事も知らず、妹紅の言葉通りその場で立ち小便をはじめる。
「(たまたま腕の立つ奴を雇ったのか・・・。見られたくないものがあってこんな高度な警戒態勢なのか・・・。)」
この衛兵の妖怪は殺気に対する反応スピードから手練れだろうと妹紅は判断する。
妹紅は知らなかったが、酒蔵は酒を目当てに外部から妖怪の侵入をよく受けるので、手練れを多く雇って常に外を厳重に警戒しているのだ。
妹紅は慧音の企みを調べる為に、幾つかの施設に何か手がかりが残っていないか探っている。
酒蔵組合で監査が行われているらしいが、これは慧音が意図的に異変の時期に合わせて仕掛けた策略の一環と捉えている。一体何の目的で酒を利用するというのだろうか?まずはそこを調べるのが一番だろうと考え、問題の酒を調べようとしているわけである。
「(外の警戒は厳重だな・・・やっぱり正面から堂々と行くか・・・。)」
警戒が厳重なのに正面から行くというのは普通なら矛盾することだが、妹紅にとっては正当手段である。警備がザルならそのまま外から侵入しても良かったが、施設全体の警備状況を見るにはやはり一度外からアプローチするのが良いのでそうしただけで、最初から正面突破でも良かった。
妹紅は一旦南に下がって酒蔵組合長の蔵屋敷から離れる。
西に移動した妹紅は寺子屋の母屋に行き、外から覗いて同居している3人の女の子が寝ている事と慧音が留守であることを確認してから大通りに出る。
「(慧音は外出中か。)」
妹紅の服装や髪型、色は非常に目立つので、すれ違う人は結構な頻度でこちらを見つめてくる。そういう輩は術を掛けて視界から姿を消してやりすごす。予めこうしておけば何かの事件で騒ぎが起こっても自分は人の目に映っていないので目撃証言も出ず容疑者にならないのだ。
背が低い妹紅は人混みの中に紛れると遠くからは見られる事もなく、すれ違う人を意識していればいい。わざと人混みに紛れてすれ違う人々を目で捌きながら目的の場所に到着する。
門番が一人立っており、その門番が通りすがりの知り合いと挨拶を交わし別れる瞬間にすすっと門をくぐる。当然門番は驚いて妹紅を引き留めようと追いかけて屋敷の敷地内に入るが、そこで振り返って待ちかまえた妹紅の目を見てしまい、術にはまって一瞬自分が何をしているのか分からず首を傾げて持ち場に戻る。
厳重な警備が為されている施設において最も守りが薄いのが正面の入り口だったりする。常識的に考えて正面突破などしない、入るなら外からだという固定観念がそうさせる。厳重な門さえ越えてしまえば庭は巡回と立ち番だけで、外の守りが堅い程中の警備は緩かったりする。
妹紅は敷地内に入ると、警備の者が詰める詰め所を探す。巡回を一人発見し後ろを歩く。やがて敷地内に建っている詰め所として使っている納屋に巡回者と一緒に入る。中に2人いて花札に興じており入室した者が交代を叫ぶ。花札をしている2人はそれに集中してこちらを向かないので、妹紅はパンと手を叩いて音で振り向かせる。花札の2人と巡回の1人が驚いて振り向き、そしてことごとく妹紅の術にはまる。
3人は一寸首を傾げると一人が渋々席を立って交替する。妹紅はそれを尻目に壁に掛かっている名札の数を数える。
「(10人程度か・・・。ここは外回りばかりで中とは関係ない蔵番か・・・なるほど。)」
物々しく見える警備は酒蔵を守る連中だと理解する妹紅。衛兵は特に緊張している様子がないので、警戒態勢ではないと判断する。これが平常勤務なのだろう。
交替の者の後について外に出た妹紅はしばらく巡回ルートを後に付いて一緒に辿り、不足の事態に何時でも対応出来るように脱出口になるような扉や窓の位置を確認する。
2回程別の巡回とすれ違い、その都度術に落とす。屋敷を一回りした妹紅は堂々と玄関から中に入る。裏口ではなく玄関から中に入るのは、裏口などは使用人が多くたむろしていて面倒だからである。また、こういう大きな屋敷では使用人と屋敷の者とで行動エリアが分かれている。使用人エリアに用事はない。
番頭と番台付きの守衛一人、入店した妹紅に顔を向けた計2人を瞬時に落とし、そのまま中に上がり込む。番台の座卓の上の帳簿に目をやったが有益な情報は見当たらなかったので奥に向かう。
番台の裏の襖の奥にに数名の気配を感じるが恐らく守衛が詰めているのだろう。
詰め所に入った妹紅は手を叩いて注意を引き4名の守衛を落とし、名札や帳簿を見て中の警備状況を確認する。番台の守衛と合わせて5名の守衛を落としているが名札の数から他に3人いることがわかる。恐らく巡回していると思われる。大きな屋敷に相応しい数の守衛がいるが、妹紅としては特に問題を感じないので、そのまま中に侵入調査を開始する。
妹紅は皆が花札に集中している隙に詰め所をそっと抜け廊下に出る。時々後ろをチェックしながら人の気配がしない襖を開けて中を見て、何か手がかりになるものを探す。
「一番大事なものは、やっぱり一番偉いやつのところ・・・よね。」
建物の外観からある程度部屋割りは分かる。それと同時にどこが重要な区画かも経験上わかってくる。妹紅は急がず着実に屋敷の主の部屋を目指す。
次の角を曲がれば恐らくお目立ての場所だろう。そっと角の向こうを覗き込むと廊下に面した襖から一人若い娘がお盆を持って出てくるところだった。お茶か何かを運んで来たその帰りだろう。
女は背を向けて向こうにパタパタと歩き出したので直ぐに後を追うように角を曲がって、女が出て来た襖に聞き耳を立てる。恐らくこの中に屋敷の主人であり酒蔵組合の組合長がいるはずだ。
妹紅はこのまま襖を開けて乗り込み術で落とすか、もうしばらく様子を見るか迷う。
「(晩飯は終わってる時間か・・・就寝まで待つか・・・。)」
しばらくすると先程この部屋を出た女が戻ってくる。呼ばれてすぐに五十歳前後の痩せ形で背の高い屋敷の主人らしき男性が外に出てくる。そして襖に鍵を挿し施錠する。
二人が遠ざかった後、襖に忍び寄った妹紅は、まさか襖に鍵がついているとは思わず感心してその仕掛けを注意深く探る。
鍵を開けて中に入るのもいいが、咄嗟の時に対応できない恐れがあるので、分身に精神を移す『移身転心』の呪符を襖の隙間から滑り込ませて発動させる。
部屋の中で分身を出現させ、それに乗り移った妹紅はすぐに手がかりを探しにかかる。部屋の外に自分の本体を残したままだが、もし食事で外に出ているなら五分やそこらで終わらないだろう。それにここは書斎の様な場所で寝室ではない。食事の後にここに戻る可能性は高くないと思われる。ただ守衛が巡回していると思われるので気を付けなければならない。
お目当ての物は直ぐに見つかった。それは座卓の上に開いたまま置いてあった。
「慧音の書状だ。」
見慣れた文字の形にサイン。間違いなく慧音が書いたものだ。
「供出願か・・・やはり監査は名目で酒の供出が目的か。慧音は何らかの目的で大量に酒を必要としている・・・ということか。」
書状を元に戻し他をあたる。封をする前のたった今書いたばかりのような酒蔵組合全員の判が押された供出願に対する返書が見つかる。
「・・・これをあとで慧音に届けるつもりか・・・。」
その時遠くから声が聞こえ、妹紅は咄嗟に術を解いて本体に戻り、来た道を戻って角の向こうに隠れる。
「(これから出かけるのか・・・そうか、慧音に会いに行くのか。)」
付き人らしき者と会話しながら近づいてくる。聞こえてくる内容からこれからどこかに出かけるようだ。もしかしたら重要な会合があるかもしれない。先程の返書を持って慧音に会いに行く可能性は高い。
「(酒だけじゃなく、もっと何か多くの物を準備しているかもしれないな・・・。)」
これだけの情報では、霖之助が言うようにただの酒宴の準備にしか取れない。しかし、妹紅は慧音が何かを企んでいると確信している。この酒は何か必ず裏があるはずだ。そして、酒だけに留まらず、里全体を巻き込んだ大掛かりな企みが裏で進行していると妹紅は予想する。
屋敷を出た妹紅は組合長と付き人、そしてその護衛2人らを尾行する。予想が正しければ寺子屋兼孤児院を留守にしている慧音の居場所に導かれるはずだ。
商工会と酒蔵組合は別の組織体系で商工会には建設業から飲食業まで様々な業種が加盟している。それぞれの業種毎に例えば建設業組合など各組合が存在する。商工会はそうした各業種毎の組合を束ねる組織といえる。
一方『酒蔵組合』は酒蔵持ちの組合という意味で、『酒造組合』は別に存在してこちらは商工会に加盟している。酒蔵組合は別名杜氏組合で完全に酒の生産に特化した組織である。酒造組合は酒の販売全般に関係する業者も連なるので組織の性格が変わってくるのだ。
そうした各組合は商売上互いに干渉しないのが礼儀であるが、そうした中で起こる揉め事やその調停役として商工会が大きな役割を持っているというわけである。
酒蔵組合長の一行は、繁華街に入る手前の商工会館に辿り着く。
商工会では業者が集まる大きな会議施設が必要で加盟店が共同で出資して建てた商工会専用の建物が存在している。
妹紅は、酒蔵組合長及び上白沢慧音の密談が行われるであろう場所を探しているわけだが、予想通り、それだけには留まらず商工会も巻き込んでいるようだ。いや、まだわからない。単に会合の施設を借りるだけかもしれない。
商工会館は物物しい警備はないが接待側の商工会が当番の人員を出して中はほどほどに騒がしい。どうやら酒蔵組合長と慧音以外にも客が来そうだ。
妹紅は組合長宅に侵入するのと同じ様に堂々と正面から敷地に入り、視線を向ける人々を速攻で落とす。
入り口すぐ向かって左横の待合室に通された組合長と別れて奥に侵入する妹紅。入り口から向かって右横は会館の従業員らの準備室のようだ。ここに人が多くたむろしている。
妹紅はさっそく何か手がかりがないか探るため歩き回る。
大人数を収容できる施設だけあって、玄関の土間は広く一段上がった廊下もちょっとした広間になっている。その広い廊下の正面に突き当たると左右に通路が分かれているので、妹紅は右の通路を選んで進む。
大きな建物の中央部に道場の様な縦に広い大きな部屋がある。大会議室のようだ。廊下の灯が部屋に差し込んでいるだけでこの部屋に明かりは無い。今回行われるであろう会合はここでは行われないようだ。そもそも少数で極秘の話をするなら奥まった狭い部屋が良いだろう。それとも先程の待合い室でやるのだろうか。いや、流石にそれはないだろうと一旦振り向いた顔を再び前に向けて廊下を奥に進む妹紅。
廊下を挟んで会議室の逆側にも引き戸が何枚かあり立て札に資料室や倉庫と書かれている。待合室と準備室が入り口を挟んで両隣にあることから、どうやらこの建物は長方形で完全に左右対称の部屋割のようである。左側の廊下にも同じようになっているはずである。
外に妖怪と思われる衛兵の気配を2つ感じるが中は誰も見回っていない。
左手が会議室、右手が資料室の長い廊下を進みながら奥に突き当たって左に折れる曲がり角に来る。そっと覗くとそこも一本の廊下で、反対側の廊下と合流している事がわかる。そしてその廊下の丁度中程に守衛が一人暇そうに立ち番をしていた。向かって右側に背を向けて立っているが、恐らくその守衛の背中に扉か通路があるに違いない。妹紅は音もなく忍び寄って術の有効射程距離に入るとまだこちらに気付いていない守衛にこちらを向かせる為、パンと手を叩いて注意を引き、振り向いた守衛に視線を重ねて術に落とす。
「ここか・・・。」
立っている守衛の後ろに小さな格子窓がついている頑丈なドアがあった。見るからに大事な物を守っているドアだと分かる。しかしドアの奥から感じるお宝の気配とは裏腹に、それを守る守衛のやる気の無さといったらどういうことだろうか?恐らく中に何があるのか知らずに立っているだけなのだろう。
守衛は扉の真ん前に立っているので中に入るには守衛をどかさなければならない。しかし、触れたりすれば術は消える。この術は油断している者の心の隙を利用する術なので警戒心が強いと効きずらい。催眠術のような少し強い妖術を使うのもいいが、外にいる衛兵に気づかれる可能性がある。中にいる守衛はともかく外で見張りに立っている恐らく妖怪の衛兵の感知能力は高そうで危険だ。
「(慧音らが来た時に一緒に入ればそれで済むところだが・・・。)」
妹紅の姿が目の前にあるにもかかわらず完全にその姿が視界から消えている守衛は、目の前でしゃがんで見上げる妹紅に全く気づかず退屈そうに鼻をほじったりあくびをしている。
衛兵につられて妹紅も貰いあくびをすると、入り口の方から誰かを呼ぶ大きな声が聞こえ、それに守衛が反応して持ち場を離れる。
「(ん、交替もしないで持ち場を離れるか・・・。)」
守衛といっても所詮は案山子という事だろう。だが呼ばれた意味が気になる。客を案内する役目で入り口に戻ったのか、食事やら勤務時間の終了か?
恐らく慧音等会議のメンバーが待合室に揃ってこの奥の間への案内を待つ状態と考える妹紅。
待合い室には酒蔵組合長が一番乗りだったので慧音と鉢合わせにならずに済んだ。組合長の風貌からかなり神経質な性格と思われ、待ち合わせには先に来て相手を待つタイプなのだろう。妹紅にとっては先回り出来たので都合が良い。
守衛の歩調から往復して戻ってくる最短時間を計り諸々含めて安全に自由に動ける時間を瞬時に割り出し行動を始める妹紅。
牢屋とも思える頑丈な扉に掛かっている大きな巾着錠の鍵穴に髪の毛を束にして詰め込み瞬時に鍵を外して無音で中に滑り込むと、先程と同じ様に『移身転心』の術を今度は分身を外に出現させる。これは開いた鍵を元に戻す為である。
鍵を閉め本体に戻った妹紅はさっそく小さな部屋の中を調べにかかるが、中央のテーブルに見るからに重要そうな書類の山が既に置かれている事にすぐ気づいて興味を示す。必要な書類等は準備だけは前々から進めていたようだ。
帳簿をパラパラとめくり、時間が無いので速読する。目から得た情報は映像として目に焼きつけ後から頭でそれを読んで追いかけて考える。
荷車が十二台、大樽が二十樽の発注書。いずれも既製のものではなく特注とある。帳簿の文字だけでは特注品の形状はわからないが荷台に対して大樽がその約二倍の発注というところを考えると何となく想像は付く。
既に発注済みということはそれらを作る業者に設計図か、既に完成したものがあるはずだ。後で調べられるように発注先の名前をしっかりと頭に入れる。
妹紅は収集した情報を分析しつつ慧音が何をしようとしているのかだいたい見えてきた。
「これは・・・正に宴会だな・・・。」
料理皿、椀、朱塗りの銚子と盃、漆塗りの銘銘膳、一升酒徳利、それらを一セットとして五十セットの借用書とそのた諸々の注文書と借用書が大量にある。何かしらの大きな宴会に必要なものを取り扱う店から借りるつもりらしい。その取引先の大口の一つにマルキもある。
「しかし・・・これは・・・。」
帳簿を調べるうちにただの宴会ではない事が分かってくる。榊と紙垂、所謂玉串の材料も大量に発注されている。
「神事でもするのかな・・・。」
神社の神事などに使うようなものも大量に発注されている。そうした道具一式を保管・運搬する大きな葛篭、目隠し用の囲い幕もある。飲食店組合に食材の備蓄願書もあり、荷車などの件からも推察して、どこか別の場所で大規模な神事を執り行うということがわかる。
「困った時の神頼みか・・・悪くない考えだが、博麗神社は恐らくそれどころじゃないだろうし、あそこは何か特定の神様を祀っていただろうか・・・。」
事前に申し出ても恐らく断られると思って密かに霊夢を支援しようとしているのかもしれない。霖之助の言葉も冗談ではないようだ。
「・・・しかし。」
ただそれだけの事だろうか?妹紅はもっと何か別の目的があるような気がしてならない。
妹紅が思案にふけっていると外に数名の人の気配がして鍵が開けられる。
「(来たか・・・。)」
妹紅は帳簿や書類を元に戻し、開く扉の正面に仁王立ちした。
上白沢慧音はある計画を立てて、里の有力者と事前に協議して隠密裏に事を進めていた。
「これはヤマセンのご主人、忙しいところ申し訳ない。迎えを出したら既に向かったと言われましてな。」
既に商工会の待合室に来ていた招待客の酒蔵組合長のヤマセンの主人に挨拶する慧音。ヤマセンは屋号である。
「いえいえ、待たせるのが嫌いな性分で、こちらこそ早くから申し訳ない。」
「もうじき他の者も来るでしょう。それまでお茶でも。」
「お構いなく。既に頂いてますから。」
待ち合わせの時間よりだいぶ早く来る事で有名なヤマセンの主人に合わせて約束の時間よりもだいぶ早く使いを出したにもかかわらず、それよりも早く来るヤマセンの主人。
ちなみに魔理沙の父、マルキの主人が現在商工会の会長をしており、当然この会合に参加する予定である。先刻まで慧音はマルキにいて、ヤマセンが早過ぎるだけで慌てる必要はないと言って先にマルキを出たのである。
酒蔵組合長と商工会長の2人の他、『妖酔乃瀧』(ようすいのたき)の主人が来る予定である。妖酔乃瀧とは、主に妖怪を相手にする自身も妖怪である主人が経営する酒場で、単に酒場の経営だけでなく、妖怪の衛兵や傭兵の斡旋と両替もやっている、里ではかなり重要な地位にいる者である。
今回の会合に参加するメンバーの4人全員が揃ったのは、ヤマセンの主人、つまり妹紅が侵入してから約15分後の事である。
最後に来た『妖酔乃瀧』の主人は人間ではなく妖怪で、上白沢慧音とは古くからの付き合いである。吸血鬼戦争にも魅魔の部下として参戦した猛者であるが、外見は妖怪にしては華奢で人間と名乗っても疑われない平均的な人間の男性の体格をしている。戦争時に負った醜い顔の傷を隠すため、鼻の上から顔半分頭頂部まですっぽりと骸骨のような仮面を被って顔のほとんどを隠している独特の風貌を持つ。
慧音がまだ里に受け入れられておらず外で活動していた頃からの付き合いで、里の人間と融和を果たした妖怪の中でも最古参の者である。
そうした経歴があるため、里の妖怪酒場で妖怪を傭兵として斡旋したり、妖怪の力を必要とする各種仕事の紹介から妖怪達の人生相談まで何でも請け負っている。妖怪と揉め事が合った時は彼に相談すれば大抵の事は解決出来、妖怪だけでなく人間からも頼りにされている存在である。現在店の名前である『妖酔』と名乗っているが本名かどうかは不明である。
案内されて奥の間に辿り着いた4人は、会合の主催とも言える上白沢慧音から順に部屋に入室する。その時慧音は一瞬目眩のような錯覚を覚えて立ち止まった。
「ん?」
部屋に入ろうとして立ち止まってしまった慧音はすぐ後ろにいたヤマセンの主人に背中を押される。
「失礼、どうかしましたか先生?」
「あ、いや、何でもない。」
何か見たような気がした慧音だったが、何を見たのかも全く思い出せない妙な違和感を感じたものの、すぐに声を掛けられて我に返って部屋の奥に進む。恐らくこの部屋には何かしらの結界が張られているため、違和感を感じたのだろうと自分に言い聞かせる。まさか先回りして侵入していた妹紅に術をかけられたとは夢にも思っていない慧音である。
予め部屋の中で待ち伏せしていた妹紅は、慧音、ヤマセンの主人、マルキの主人と順に落として行く。そして4人目が入ってきた時、驚いて思わず息を呑む。
隙が全くない強い妖怪が入って来たのだ。しかも仮面を被っているので視線がよく分からない。
「(ヤバイ!)」
仮面の奥の視線が自分を捉えた事を妹紅は確認する。見られた!どうする?逃げるか?それとも多少乱暴でも強い術で全員を一旦無力化させるか?いや、この妖怪はただ者じゃない。他の3人に気づかれずに術を掛けるなど無理だ。それに強い妖気を出せば外の衛兵が気づく。万事休すか?
「(南無三!)」
妹紅詰んだと思った。しかし、その妖怪は妹紅を一瞥しただけでそのまま無視するように入室する。
気づいていない?いや、絶対に気づいている。その上で無視したか黙認したかだ。
「(何故黙っている?)」
この状況なら侵入者と疑うはずだ。しかし、何事も無くさも自分がここにいる事が当たり前という顔だ。妹紅はこの状況を咄嗟に考えこう結論づけた。この妖怪は自分を知っている。恐らく慧音繋がりで、慧音と自分が友人関係だということも知っている。慧音の親友が慧音の護衛として予め部屋についていた。そう考えれば彼がこちらをスルーする理由がつく。
小さな部屋の真ん中に正方形のテーブルがあり、そこに様々な書類が堆く積まれている。妹紅は意識的に慧音の背後に立ち、慧音の対面に立ったその妖怪を正面に見る。
こうすれば慧音の護衛に見えるだろう。妹紅はこのまましばらく様子を見る事にした。
四角いテーブルには椅子は用意されておらず、四方にそれぞれ立つ。
まず、ヤマセンの主人が酒蔵組合の会員の連名で記載された承諾書を慧音に渡す。
「ありがとう。これで書類は全て揃った。」
礼を言う慧音。
「先生、書類は残さない方が良いのでは?」
と、マルキの主人。
「いや、それをやると誰かが責任を取らねばならぬ時に皆が迷惑をする。これはあくまで私個人の計画だ。」
「博麗神社を妖怪から取り戻すというのは、我々人間の使命の様なもの。先生一人で責任を被る必要はないでしょう?」
突然驚くべき言葉出る。博麗神社の奪還?それは八雲紫に喧嘩を売るのと同じ事。紫は幻想郷に於ける天皇の様な存在だ。そんなことは許されるものではない。
「人間か・・・少なくとも妖怪の私も先生には全面的に協力するつもりです。八雲紫と対決するならそれも臨むところですしね。」
術の聞かないあの妖怪は、やはり慧音の知人のようだ。香霖堂の店主森近霖之助が自分を知っていたように、彼も知っていてもおかしくはない。ただ、この妖怪、何やら八雲紫に恨みでもあるようだ。
「私怨で協力するならいらんぞ?」
慧音に睨まれる妖怪。
「八雲紫の事はあくまで私個人の事。先生とは関係ないことです。」
「ふん!」
先程この計画を個人のものと責任を背負い込み反論を与えなかった慧音は、同じ様な台詞で皮肉られて鼻息を荒くする。慧音に皮肉を言えるとはやはりこの妖怪は古い付き合いでしかもかなり親密な間柄のようだ。慧音の親友を自称する妹紅としては軽い嫉妬のようなものを覚える。
「まぁまぁ、で、これらの期限は?」
仲裁し話を変えるマルキの主人。
「出来るだけ早く。もはや秘密にする必要はない。荷車は完成したものから通りに出して搬入してくれ。ただ、表向きはあくまで祭りの準備ということにしてくれ。」
「こちらは既に注文通りの酒は確保出来ている。いつでも構いませんが、かなりの量だ。明日からでも樽に移し替える作業をしたほうがいいですかな?」
「よろしく頼む。」
ヤマセンの主人に頭を下げる慧音。
「傭兵の確保は問題ありません。手練れを多く確保出来ました。ただ・・・。」
一般的に見る他の妖怪と違い低いが良く通る声で知的なしゃべり方をする仮面の妖怪。前線で暴れ回って戦うタイプではなく、例えばそう、軍師の様な物腰である。時々こちらに視線が向くのを感じるがそれ以上何も起こらない。ただこちらが何か行動すればすぐに対応されるだろう。平然としているが全く隙がない。動くに動けず、まるで喉元に刃物を突き付けられている様で背中の冷たい汗が止まらない。
「ただ?」
「里を空にするのはまずいのではないですか?」
「確かに・・・。」
動員する人数が商工会の会員の数より多い。これは会員の従業員や家族まで含まれる。それらが大人数で神社に向かえば、里の中心部から人が消え治安が著しく悪くなる。
「風見幽香に里に入ってもらっては?マルキさんとは仲が良いでしょう?」
「風見様には確かに良くしてもらっているが、こちらから訪ねる事はしませんからね。里に来てくれるならいつでもお頼みできますが・・・。」
「ふむ、一応こちらで調べてはおりますが、風見殿は今太陽の畑にはいないようですな。」
「移動の季節ですか?まだ早いような・・・。」
風見幽香は季節ごとに居を変えるが、この時期は太陽の畑にいるはずである。
「先日尋ねてきたんですけどねー。」
風見幽香は今療養中という事で妹紅の自宅に住みついているが、正に灯台もと暗しといえる。
「先生、ご友人はどうです?」
仮面の妖怪がこちらを一瞥して自分の名を出す。ここで言う友人とは自分、藤原妹紅の事でマルキとヤマセンがそれを聞いて名案だという顔をする。妹紅は心臓が飛び出るほど驚き、目を細くして抗議の意を示したが、仮面の妖怪は何食わぬ顔でこちらを見て見ぬふりをする。
遊ばれているのか?完全に相手の風下に立たされてしまった。これまで全て自分のペースで完璧に潜入調査をしてきたが、妖術使い荒事・裏事のスペシャリストとしてのプライドが著しく傷つけられる妹紅。
「ん?妹紅か?」
「ええ。」
「あれはダメだ。妹紅もやるべき事がある。」
「なるほど。」
そう言って妹紅の仮面の奥の目がこちらを見据える。
「ふむ、この件については何とかしよう。兎に角急いで欲しい。」
慧音がまた頭を下げる。
「もう一度確認してよろしいですか?」
段取りを確認する為にマルキの主人が発言する。
「うむ。」
「祭りの準備の最中に異変が起こる、それも大規模な。」
「天変地異クラスとみて間違いない。」
「そこで、天の助けを得る為に、神社に参拝して神頼みをすると。」
「既に守矢神社には話が通っている。彼らの要求通りの物は揃えた。」
重用なキーワードが出た。なるほど、諏訪の神様達を利用するということか。博麗神社を差し置いて守矢神社に神頼みなど間違いなく八雲紫の怒りを買うだろう。
博麗神社の重要性を知る慧音が鞍替えして守矢神社になびくわけはない。恐らく何か策があっての事だろう。先程誰かが言ったように博麗神社を奪還するという事なので、この場合はむしろ守矢神社に頼ると見せかけて利用しようとしているのではないか?
この幻想郷で博麗神社を差し置いて他の神様が人間の信仰を獲得する事は許されない。これは管理者側の信条的努力目標ではなく、幻想郷を運営する上での絶対に動かせないルールなのだ。幻想郷は博麗神社が八雲紫を制御し、抑制される事で八雲紫は世界を支配する力を得ている関係が成り立っているのである。
慧音はそれを十分承知しているだろうし、最終的に博麗神社そして幻想郷、更には八雲紫にとっても良い方向にもっていくはずだ。しかし、結果オーライでは済まない。慧音のやろうとしている事は正しいことだとしても行為そのものは幻想郷に対する反逆行為になるわけで、これをお咎め無しとして前例を作ればそれこそ技術革新を目論む守矢神社につけ込まれてしまう。外から新しい物を取り込もうと常に画策する守矢神社に対して示しをつけるには、泣いて馬謖を斬るしかないではないか。
「(慧音、お前死ぬぞ?)」
妹紅は慧音が自分を遠ざけたのか、その理由が今ハッキリと分かった。慧音は裁かれる事を最初から分かっていて自分に罪が及ばないように離別したのだ。ここに書類として証拠を残しているのも、主犯者を明確にして里の人間が誰一人罪にならないようにするためのものなのだ。
上白沢慧音は、八雲紫の博麗霊夢に対する誤った接し方を正し、神々の力を人間にもそして霊夢にもしっかり見せつけ、もう一度信仰心を呼び覚まそうとしているのだ。
妹紅は幻想郷に来て一番最初に感じた事は人間の信仰心が薄いということだった。厄神や豊穣の神が目の前に居て何故里の人達は彼らを優遇しないのか?妹紅はその理由はだいたい分かっている。人間と神様が近過ぎるのだ。畏れとは手の届かない存在に対して抱くもの。しかし幻想郷では人間とあまり変わらない平々凡々な神様の姿を間近で見過ぎたのだ。
当たり前にあるものに有難味も畏れも生じない。それが信仰心の薄れに繋がる。博麗霊夢が怠けているから信仰が薄いのではない。元々神様を信仰しない人しか里にいないから、霊夢が何をしても変わらないのだ。
特に博麗神社が本陣山に移って里から神社が消えてから信仰心の低下は著しい。
上白沢慧音は、この異変を通じて神様の強さ、有り難さ、恐ろしさをもう一度人々に与え畏怖の念を喚起し、基礎的な信仰心を再構築しようと考えているのだ。その基礎があってこそ初めて神社に価値が出るのだ。
巫女が生まれない現状、神主も巫女も死んで以後博麗神社に人が居なくなった時幻想郷は終わる。恐らく人々の信仰の力が巫女や神主を誕生させていたのだろう。それは時代と共に衰退する博麗神社の有様を見れば理解出来る。
慧音は紫の責任と言う。しかし、妹紅は紫の責任ばかりではないと思う。紫は博麗大結界以後長い休眠期に入って最近復帰したのだ。紫が知っている100年前の幻想郷はもっと殺伐として里も危険に満ちていた。復帰した紫は現状の幻想郷を見てさぞ驚いたことだろう。
魅魔が吸血鬼に偏りすぎたのも問題で、吸血鬼復権は世界が平和な状態でなければ叶わず、神社の活躍の機会を減らして意図的に平和工作を進め現在の和な幻想郷になってしまったのだ。
誰が悪いという訳ではない。誰も悪くなく、そして全員が悪いとも言えるのだ。自分だってそうだ。今になって出て来て偉そうに異変の中心にいてふんぞり返っているが、300年間人間の里を無視して宇宙人との私闘にうつつをぬかしていたのだ。他人の事をとやかく言える立場ではい。
慧音だけ、慧音だけが里の人間から忌み嫌われて居た時代から、ただひたすら人間を愛し守って来た。里に受け入れられてからは人間の里の発展に尽力し、美味しい酒を造れる存在という付加価値を人間に与え、妖怪と人間の新しい共存関係を築き上げた。ずっと、ずっと彼女は人間の里と幻想郷を守ってきたのだ。
どうしてもっと早く彼女に協力してやれなかったのだろう。今までずっと大事にされてきたのに、何故自分は慧音の為に何かをしてやろうと思わなかったのだろう。
慧音と離別する際、どうしてあんなひどい事を言ってしまったのだろう。慧音はそれを聞いてショックだっただろう。今目の前にいる慧音に土下座して謝りたい心境だ。
妹紅は異変の件について、これは公務と捉えている。そして慧音については私事として考えている。公私の狭間でどっちを選べば良いのだろうか?慧音の命を守る為にこの計画を阻止すれば、確かに慧音は助かる。しかし、慧音の信用を失い軽蔑され、親友という関係は完全に崩壊するだろう。真に友と言う間柄なら慧音の思いを汲むしかない。しかし、それは慧音の死に繋がる。
極秘の会合は終わり、全員外に出てそれぞれの帰路に着く。
「(どうすればいいんだ・・・。)」
一人項垂れて通りに立ち尽くす妹紅。その時視線を感じその方に振り向くと、先程の仮面の妖怪がこちらを見ている事に気づく。そして妹紅と目が合うと、自分の店ではなくすぐに横道に入って路地裏に姿を消した。
「着いてこいということか・・・。」
慧音の事も重用だが、自分を見逃したあの妖怪の意図も知りたい。それにあの男なら何か慧音を助ける手段を知っているかもしれない。
妹紅は仮面の妖怪が消えた路地裏に向かった。
博麗神社本殿の中で眠っている力を呼び覚まそうとするかのように、集中し気を高める少女がいる。博麗神社の巫女、博麗霊夢である。
自分の中で何かが変わったのは、そう、藤原妹紅が神社を訪れた時からだ。
これまで特別な事でもない限り修業などしなかった霊夢。そんな彼女の重い腰が上がったのは、これから起こる異変が特別だと予感させるからでもあるが、藤原妹紅と会い、彼女の術師としての能力の高さに触発されたからである。
神事に関する修業は一通り済ませている。主に作法が中心で時々思い出した様に試してはみるが、こうしたものは一人でひっそりやるようなものではない。虚しいだけである。いつも偶然居合わせる霧雨魔理沙にまじないを披露して見せるが、彼女がその手品に有難味を感じることはない。
必要とあらば神を卸す事が出来るが、高い地位の神様は様々な契約が必要だ。
訓練をして高められる部分は結界や退魔など陰陽道の系統になるだろう。異変について解っている限りでは、妹紅の爆発エネルギーを押さえ込む強力な結界が必要で、これは陰陽師の力が主となる。
何をするにしても集中力と気力の持続力が必要で、それを補うために自分に力を与えてくれる神をその身に卸す事も念頭に入れている。
現時点で八意永琳の介入を知らない霊夢は、結界の範囲は非常に狭いものとして考えており、それ相応の訓練しかしていなかった。
「今日もいい天気ねー。」
休憩を兼ねて神社周辺を散歩する霊夢。暇を見つけては外を見回るが、これはどこの誰が持ってくるのか不明だが、境内に時々野菜などの食べ物が置いてある事があり、マメに見回りをしていないとせっかくの贈り物がカラスや妖精に取られてしまうからである。
お賽銭箱にお金が入っている時は大抵紫の仕業で、縁側に山の幸が積まれている時は萃香の仕業。この2人から良くしてもらっていることは霊夢もわかっており大変有り難い事だと思っているが、それ以外の贈り物については誰が持ってくるのか心当たりがない。
家内安全、合格祈願などのお札を香霖堂に卸して現金収入を得られるが、最近里ではお札も売れず赤字覚悟で無理に買い取ってくれていることを知って自重している。周囲から気を遣われている事は分かっている。ならば何か恩返しでもしようかとガラにもなく考えるものの、一体何をすればいいのか分からない。自分に出来る事はせいぜい妖怪を退治するくらいだ。しかし、その妖怪に便宜を図って貰っているのだから本末転倒と言うものである。
博麗神社に良い噂が無い事は重々承知している。しかし、今更どの面下げて里に下りて神社の宣伝など出来るものか?だいたい信仰を無くしてしまった里の人間に、もはや神社など必要ないだろう。
一通り境内を見回り、何も見つからずがっかりして母屋に向かう霊夢。
妹紅が来てからというもの幻想郷全体が何か妙な雰囲気になっている。頻繁に訪れる魔理沙は先日兎を持って来たきりで、同じく来る頻度の高い3人組の妖精もここ最近姿を見せていない。姿は見えなくても必ずどこかにいる萃香の気配も今は無い。賽銭箱も空、食料庫も空、そして胃袋も空。
「お腹空いたなー。」
閑散とした母屋の縁側に座ってぬるいお茶を飲む。若い盛ならこの境遇や心の葛藤、不満を誰かにぶつけて憂さを晴らしたり、友人と連れだって遊び回ってストレスを発散するものだが、今の妙な方向に達観してしまった霊夢にとっては、そんな無常の様も趣があって良いとすら思えるのだから困ったものである。
座ったままの姿勢から後ろに倒れて仰向けに縁側に寝ころぶ。ぐぐぅーと腹の虫が不満の声を上げる。
朝食は食べたが昼は食事と呼べるようなまとまった食物を口にしていない。普段から昼は食べない事も多いのだが、ここ最近やっている修業は禅を組んでいるだけなのに肉体と精神の消耗が激しく異様に腹が減って困る。
修業も重用だが、今は今晩の食事にありつけるための方策を練るのが得策だろう。手っ取り早いのは近所の魔理沙かアリスの家に行けばいい。魔理沙の家なら茸は絶対あるはずだ。アリスは最初は何だかんだと文句を言うだろうが、基本寂しがり屋なので結局ご馳走してくれる。
そんなことを考えていると、人の気配がして顔を上げる。
「修業も三日坊主か?」
現れたのは九尾の八雲藍である。三賢者会議後、妖夢の件があったので白玉楼での宴会は取り止め、続きを神社でやろうと、先に藍が段取りをしに来たのである。
「一服してたのよ。」
「まーそういう事にしておこうか。」
「何の用よ?」
九尾を目の前にして全く物怖じしない霊夢。
「場所を借りたいのだが・・・。」
「場所?本殿?」
「いや、座敷で構わない。」
「何をするの?」
「客人を招きたい。」
「客?何で私の家に?自分の家に招いたら?」
「異変に関する事を話し合いたい。お前も含めてな。」
露骨に嫌そうな顔をして見せる霊夢。妖怪との会話は「はいはい」と言いなりにならないのが一般的な作法である。要求をそのまま呑むとつけ込まれるので、基本は言葉のキャッチボールではなく、言葉のドッヂボールである。
何事もそうだが、妖怪との交渉はどちらか一方が損をするようなものは受け入れられない。それが例え苦にならない片手間の簡単なものでもだ。
妖怪に馴染んでいる霊夢は、その辺の交渉の仕方もすっかり妖怪化しており、里の人間が見れば喧嘩腰で会話しているように見えるだろうが、これは霊夢にとって普通である。
「異変?」
異変という言葉に反応する霊夢。細目のキツネ顔でコクリと頷く藍。
「何時から?」
「夕餉も兼ねて夕刻から。あとは成り行きで。」
「生憎だけど、今家に何にもないわよ。」
見事なまでに食料の備蓄がないので完全に開き直る霊夢。
「それは承知している。材料はこちら持ちだ。」
「う、それを先に言ってよ・・・。」
久しぶりにまともな食事にありつけそうなので急に機嫌が良くなる霊夢。
「で、客って誰?」
「八意永琳だ。」
「へー・・・何時からそんなに親しくなったの?」
意外な名前を聞いて少し驚く霊夢。永夜異変の後、和解の宴を神社で催しているので彼女とは面識はある。ただ、なんというか住んでいる場所が違うというか相容れない壁を感じ個人的な交流はない。その後は不死人狩りを蓬莱山輝夜と共謀した首謀者として八雲紫らと険悪な関係になり霊夢も疎遠になっていた。
「関係を修復するための宴でもあるかな。」
「宴会!やった!」
宴と聞いて手をパンと叩いて喜ぶ霊夢。双方の関係修復より宴の方が重要である。
「ふふ、食材は既に台所に運んだ。後は任せていいか?」
「ええいいわよ。任せておいて!」
現金な奴と苦笑する藍。霊夢が飢えない様に何かと便宜をはかる紫だが、最近忙しくて霊夢の面倒が見れていなかった。八意永琳と協調して異変を進める手筈が出来た今、余裕が出来てようやく霊夢に目をやれるようになったというわけである。
霊夢の料理の腕前は達人とは行かないまでも一級品である。藍も紫の為に食事を作るが、料理の腕は年季の割りに上達せず15、6年しか生きていない霊夢にも遠く及ばない。紫としてもおいしい料理をご馳走するなら、藍にやらせるより霊夢にやらせたほうが良いと思ったのだろう。
この小さな宴の席で今回の異変の骨組みが出来る上がるだろう。八雲藍は嬉しそうに台所に霊夢の後ろ姿を見送りながらこれが最後の晩餐にならないことを祈った。
陽もとっぷりと暮れた博麗の里。
大通りと北西の繁華街や大通りの大きな店蔵以外、ほとんどの民家に明かりはなく藤原妹紅はそんな闇に包まれた貧困層の農民の家々の隙間を音もなく歩いている。
暗闇を照らす明かりは裕福な世帯層なら蝋燭やランプ、或いは妖力や魔力を封じた光球(こうきゅう)などがあるが、貧困層では薪や松明に点けた炎くらいである。しかしその薪も有限であるため無計画に明かりを取る ためだけに使えず、その為暗くなって何も出来なくなれば大人しく寝るしかない。
燃料となる薪はとても貴重であり、ただ明かりを取る為だけに使われる事は、少なくとも貧困層にはない。
里における山の恵みは主に西にある『豊穣の森』と呼ばれる比較的大きな森から得られ、その先の『厄神の森』が天狗の領地との境界線になっている。あまり奥に踏みこもうとすると哨戒中の駒天狗に警告を受ける。
豊穣の森は人間の領域と天狗側も認めており、ここは人間が自由に山の幸を収穫出来る唯一の場所となっている。天狗の警備網に隣接している事もあり、人間を襲うような危険な妖怪はここには近づかないのだ。
豊穣の森では誰でも自由に薪が調達でき、里の貧困層はここで薪を得る。薪を売って商売をする業者としてみれば、ライバルが多くここは余りおいしい場所ではない。その為、薪業者は多少危険を承知でも奥の厄神の森まで足を運んだり、博麗神社の建つ本陣山まで足を伸ばすのである。
魔法の森は吸血鬼戦争の名残で妖怪達から不吉な場所とされているので誰も住まず近寄る者もいない。人間側としては人を襲う妖怪が居ないこの森は、比較的安全な場所ということになるが、魔法の森は風向きによって危険地帯が常に変化するので、安定的な長期間作業が出来ず、豊穣の森などと比べ手入れされておらず、人間が糧として得るものは少なく、得られる薪も極僅かだ。神社までのルートが辛うじて人が歩けるところで、それ以外の場所は気軽に足を踏み入れると危険なのだ。
魔法の森を越えた先にある博麗神社には妖怪が寄りついているものの、人間にあまり関心が無く、むしろ他の弱い妖怪が恐れて近づかない魔除けにもなっているので、本陣山は比較的安全な場所となっている。
一人で行動すると神隠しに会うとの事で薪を求める業者は複数人で行く。作業の安全を祈願する為、神社の参拝を欠かさない彼らは、霊夢にとってはとても良いお客様で、彼らに神社の本殿を開放している。業者はここで数日かけて大量の薪を確保して戻っていくのだ。
実際問題として人間が来て神社に参拝するのはこんな時だけである。
そんな貴重な薪だけに大量の湯に全身つかるような風呂は、少なくとも貧困層には存在せず、里における風呂は金持ちの道楽のようなものとなっている。
ちなみに藤原邸には薪で沸かす立派な風呂場があるが、妹紅は垢が出ず身体が汚れないので風呂に入る必要がなく、この風呂は使われていない。神社の母屋にも風呂はあるが、薪が貴重なので霊夢も風呂は沸かさないのだ。人間達にとっての風呂は桶に湯を張って手ぬぐいで身体を拭く程度である。
酒蔵が何軒も連なっている大通りの裏に貧困層の長屋が建ち並ぶ農村部落がある。長屋で数世帯が一緒に生活するのは、貴重な燃料を共有するためでもある。
妹紅は暗闇の中を歩きながら、時々すれ違う寝ずに徘徊する農民に視線を合わせ、一種の催眠術のような術を掛けていく。
この術は自分の姿を見た者に自分の存在を意識させなくする術で、術にかかると目の前にいてその姿をしっかり目で捉えているにもかかわらず、その存在を意識しなくなって、無視してしまうようになる。
物理的に姿を消すのではなく、暗示をかけて術者の存在を感覚的に見えなくするというわけである。
この術の肝は人に見られる事である。その為、術者は敢えて目立つ格好をする。
潜入調査というとコソコソと人目をはばかって目立たない格好で行動すると思われがちだが、少なくとも岩老系ではこの術で人の目から意識させないという方法で相対的に姿を消す方法を使う。
里の南側に広がる農家が主の貧困層の区画から北に向かうと、立ち並ぶ酒蔵とそれを取り囲む塀が見えてくる。そして、森近霖之助から教えて貰った現在の酒蔵組合長の蔵屋敷の裏手に出る妹紅。
「見張りがいるな・・・案山子か?」
案山子というのは金持ちの屋敷に慣例の様に必ず置いている衛兵で、能力は低くほとんど衛兵としての体を為していない飾り者を言う。重要な機密を守っている施設なら当然案山子ではなくプロの傭兵を雇っているはずだ。
妹紅は敢えて姿をさらし殺気を向けて屋根の上の影に自分の存在を気づかせる。その影はそれに反応して翼を広げるとすぐに妹紅に向かって飛んでくる。翼ということは鳥系の妖怪だ。
「(傭兵か。)」
長い両手持ちの棍棒の一撃を避けずわざとまともに頭に喰らった妹紅。衛兵の妖怪はただならぬ気配から侵入者と思ってすぐに攻撃をしたわけだが、避ける気配もなくまともに打たれたので酒を狙う妖怪ではなく民間人を攻撃してしまったと勘違いして激しく動揺する。
殴られた事など全く意に返さない妹紅はその妖怪の動揺した心の隙を狙って、顔を寄せて視線を合わせる。
術と同時に催眠術も掛ける。姿を意識から消してもこの妖怪には持ち場からこの場所に移動したという事実が残る。それを疑問に感じて侵入者がいることを報告されてもまずい。先程の見えなくする術と一緒に、ここに来た理由を妖怪に与える。
「お前は小便に来た。」
「あ、あれ・・・あ、そうだション便っと・・・。」
妹紅の姿が意識から消えた衛兵は見られている事も知らず、妹紅の言葉通りその場で立ち小便をはじめる。
「(たまたま腕の立つ奴を雇ったのか・・・。見られたくないものがあってこんな高度な警戒態勢なのか・・・。)」
この衛兵の妖怪は殺気に対する反応スピードから手練れだろうと妹紅は判断する。
妹紅は知らなかったが、酒蔵は酒を目当てに外部から妖怪の侵入をよく受けるので、手練れを多く雇って常に外を厳重に警戒しているのだ。
妹紅は慧音の企みを調べる為に、幾つかの施設に何か手がかりが残っていないか探っている。
酒蔵組合で監査が行われているらしいが、これは慧音が意図的に異変の時期に合わせて仕掛けた策略の一環と捉えている。一体何の目的で酒を利用するというのだろうか?まずはそこを調べるのが一番だろうと考え、問題の酒を調べようとしているわけである。
「(外の警戒は厳重だな・・・やっぱり正面から堂々と行くか・・・。)」
警戒が厳重なのに正面から行くというのは普通なら矛盾することだが、妹紅にとっては正当手段である。警備がザルならそのまま外から侵入しても良かったが、施設全体の警備状況を見るにはやはり一度外からアプローチするのが良いのでそうしただけで、最初から正面突破でも良かった。
妹紅は一旦南に下がって酒蔵組合長の蔵屋敷から離れる。
西に移動した妹紅は寺子屋の母屋に行き、外から覗いて同居している3人の女の子が寝ている事と慧音が留守であることを確認してから大通りに出る。
「(慧音は外出中か。)」
妹紅の服装や髪型、色は非常に目立つので、すれ違う人は結構な頻度でこちらを見つめてくる。そういう輩は術を掛けて視界から姿を消してやりすごす。予めこうしておけば何かの事件で騒ぎが起こっても自分は人の目に映っていないので目撃証言も出ず容疑者にならないのだ。
背が低い妹紅は人混みの中に紛れると遠くからは見られる事もなく、すれ違う人を意識していればいい。わざと人混みに紛れてすれ違う人々を目で捌きながら目的の場所に到着する。
門番が一人立っており、その門番が通りすがりの知り合いと挨拶を交わし別れる瞬間にすすっと門をくぐる。当然門番は驚いて妹紅を引き留めようと追いかけて屋敷の敷地内に入るが、そこで振り返って待ちかまえた妹紅の目を見てしまい、術にはまって一瞬自分が何をしているのか分からず首を傾げて持ち場に戻る。
厳重な警備が為されている施設において最も守りが薄いのが正面の入り口だったりする。常識的に考えて正面突破などしない、入るなら外からだという固定観念がそうさせる。厳重な門さえ越えてしまえば庭は巡回と立ち番だけで、外の守りが堅い程中の警備は緩かったりする。
妹紅は敷地内に入ると、警備の者が詰める詰め所を探す。巡回を一人発見し後ろを歩く。やがて敷地内に建っている詰め所として使っている納屋に巡回者と一緒に入る。中に2人いて花札に興じており入室した者が交代を叫ぶ。花札をしている2人はそれに集中してこちらを向かないので、妹紅はパンと手を叩いて音で振り向かせる。花札の2人と巡回の1人が驚いて振り向き、そしてことごとく妹紅の術にはまる。
3人は一寸首を傾げると一人が渋々席を立って交替する。妹紅はそれを尻目に壁に掛かっている名札の数を数える。
「(10人程度か・・・。ここは外回りばかりで中とは関係ない蔵番か・・・なるほど。)」
物々しく見える警備は酒蔵を守る連中だと理解する妹紅。衛兵は特に緊張している様子がないので、警戒態勢ではないと判断する。これが平常勤務なのだろう。
交替の者の後について外に出た妹紅はしばらく巡回ルートを後に付いて一緒に辿り、不足の事態に何時でも対応出来るように脱出口になるような扉や窓の位置を確認する。
2回程別の巡回とすれ違い、その都度術に落とす。屋敷を一回りした妹紅は堂々と玄関から中に入る。裏口ではなく玄関から中に入るのは、裏口などは使用人が多くたむろしていて面倒だからである。また、こういう大きな屋敷では使用人と屋敷の者とで行動エリアが分かれている。使用人エリアに用事はない。
番頭と番台付きの守衛一人、入店した妹紅に顔を向けた計2人を瞬時に落とし、そのまま中に上がり込む。番台の座卓の上の帳簿に目をやったが有益な情報は見当たらなかったので奥に向かう。
番台の裏の襖の奥にに数名の気配を感じるが恐らく守衛が詰めているのだろう。
詰め所に入った妹紅は手を叩いて注意を引き4名の守衛を落とし、名札や帳簿を見て中の警備状況を確認する。番台の守衛と合わせて5名の守衛を落としているが名札の数から他に3人いることがわかる。恐らく巡回していると思われる。大きな屋敷に相応しい数の守衛がいるが、妹紅としては特に問題を感じないので、そのまま中に侵入調査を開始する。
妹紅は皆が花札に集中している隙に詰め所をそっと抜け廊下に出る。時々後ろをチェックしながら人の気配がしない襖を開けて中を見て、何か手がかりになるものを探す。
「一番大事なものは、やっぱり一番偉いやつのところ・・・よね。」
建物の外観からある程度部屋割りは分かる。それと同時にどこが重要な区画かも経験上わかってくる。妹紅は急がず着実に屋敷の主の部屋を目指す。
次の角を曲がれば恐らくお目立ての場所だろう。そっと角の向こうを覗き込むと廊下に面した襖から一人若い娘がお盆を持って出てくるところだった。お茶か何かを運んで来たその帰りだろう。
女は背を向けて向こうにパタパタと歩き出したので直ぐに後を追うように角を曲がって、女が出て来た襖に聞き耳を立てる。恐らくこの中に屋敷の主人であり酒蔵組合の組合長がいるはずだ。
妹紅はこのまま襖を開けて乗り込み術で落とすか、もうしばらく様子を見るか迷う。
「(晩飯は終わってる時間か・・・就寝まで待つか・・・。)」
しばらくすると先程この部屋を出た女が戻ってくる。呼ばれてすぐに五十歳前後の痩せ形で背の高い屋敷の主人らしき男性が外に出てくる。そして襖に鍵を挿し施錠する。
二人が遠ざかった後、襖に忍び寄った妹紅は、まさか襖に鍵がついているとは思わず感心してその仕掛けを注意深く探る。
鍵を開けて中に入るのもいいが、咄嗟の時に対応できない恐れがあるので、分身に精神を移す『移身転心』の呪符を襖の隙間から滑り込ませて発動させる。
部屋の中で分身を出現させ、それに乗り移った妹紅はすぐに手がかりを探しにかかる。部屋の外に自分の本体を残したままだが、もし食事で外に出ているなら五分やそこらで終わらないだろう。それにここは書斎の様な場所で寝室ではない。食事の後にここに戻る可能性は高くないと思われる。ただ守衛が巡回していると思われるので気を付けなければならない。
お目当ての物は直ぐに見つかった。それは座卓の上に開いたまま置いてあった。
「慧音の書状だ。」
見慣れた文字の形にサイン。間違いなく慧音が書いたものだ。
「供出願か・・・やはり監査は名目で酒の供出が目的か。慧音は何らかの目的で大量に酒を必要としている・・・ということか。」
書状を元に戻し他をあたる。封をする前のたった今書いたばかりのような酒蔵組合全員の判が押された供出願に対する返書が見つかる。
「・・・これをあとで慧音に届けるつもりか・・・。」
その時遠くから声が聞こえ、妹紅は咄嗟に術を解いて本体に戻り、来た道を戻って角の向こうに隠れる。
「(これから出かけるのか・・・そうか、慧音に会いに行くのか。)」
付き人らしき者と会話しながら近づいてくる。聞こえてくる内容からこれからどこかに出かけるようだ。もしかしたら重要な会合があるかもしれない。先程の返書を持って慧音に会いに行く可能性は高い。
「(酒だけじゃなく、もっと何か多くの物を準備しているかもしれないな・・・。)」
これだけの情報では、霖之助が言うようにただの酒宴の準備にしか取れない。しかし、妹紅は慧音が何かを企んでいると確信している。この酒は何か必ず裏があるはずだ。そして、酒だけに留まらず、里全体を巻き込んだ大掛かりな企みが裏で進行していると妹紅は予想する。
屋敷を出た妹紅は組合長と付き人、そしてその護衛2人らを尾行する。予想が正しければ寺子屋兼孤児院を留守にしている慧音の居場所に導かれるはずだ。
商工会と酒蔵組合は別の組織体系で商工会には建設業から飲食業まで様々な業種が加盟している。それぞれの業種毎に例えば建設業組合など各組合が存在する。商工会はそうした各業種毎の組合を束ねる組織といえる。
一方『酒蔵組合』は酒蔵持ちの組合という意味で、『酒造組合』は別に存在してこちらは商工会に加盟している。酒蔵組合は別名杜氏組合で完全に酒の生産に特化した組織である。酒造組合は酒の販売全般に関係する業者も連なるので組織の性格が変わってくるのだ。
そうした各組合は商売上互いに干渉しないのが礼儀であるが、そうした中で起こる揉め事やその調停役として商工会が大きな役割を持っているというわけである。
酒蔵組合長の一行は、繁華街に入る手前の商工会館に辿り着く。
商工会では業者が集まる大きな会議施設が必要で加盟店が共同で出資して建てた商工会専用の建物が存在している。
妹紅は、酒蔵組合長及び上白沢慧音の密談が行われるであろう場所を探しているわけだが、予想通り、それだけには留まらず商工会も巻き込んでいるようだ。いや、まだわからない。単に会合の施設を借りるだけかもしれない。
商工会館は物物しい警備はないが接待側の商工会が当番の人員を出して中はほどほどに騒がしい。どうやら酒蔵組合長と慧音以外にも客が来そうだ。
妹紅は組合長宅に侵入するのと同じ様に堂々と正面から敷地に入り、視線を向ける人々を速攻で落とす。
入り口すぐ向かって左横の待合室に通された組合長と別れて奥に侵入する妹紅。入り口から向かって右横は会館の従業員らの準備室のようだ。ここに人が多くたむろしている。
妹紅はさっそく何か手がかりがないか探るため歩き回る。
大人数を収容できる施設だけあって、玄関の土間は広く一段上がった廊下もちょっとした広間になっている。その広い廊下の正面に突き当たると左右に通路が分かれているので、妹紅は右の通路を選んで進む。
大きな建物の中央部に道場の様な縦に広い大きな部屋がある。大会議室のようだ。廊下の灯が部屋に差し込んでいるだけでこの部屋に明かりは無い。今回行われるであろう会合はここでは行われないようだ。そもそも少数で極秘の話をするなら奥まった狭い部屋が良いだろう。それとも先程の待合い室でやるのだろうか。いや、流石にそれはないだろうと一旦振り向いた顔を再び前に向けて廊下を奥に進む妹紅。
廊下を挟んで会議室の逆側にも引き戸が何枚かあり立て札に資料室や倉庫と書かれている。待合室と準備室が入り口を挟んで両隣にあることから、どうやらこの建物は長方形で完全に左右対称の部屋割のようである。左側の廊下にも同じようになっているはずである。
外に妖怪と思われる衛兵の気配を2つ感じるが中は誰も見回っていない。
左手が会議室、右手が資料室の長い廊下を進みながら奥に突き当たって左に折れる曲がり角に来る。そっと覗くとそこも一本の廊下で、反対側の廊下と合流している事がわかる。そしてその廊下の丁度中程に守衛が一人暇そうに立ち番をしていた。向かって右側に背を向けて立っているが、恐らくその守衛の背中に扉か通路があるに違いない。妹紅は音もなく忍び寄って術の有効射程距離に入るとまだこちらに気付いていない守衛にこちらを向かせる為、パンと手を叩いて注意を引き、振り向いた守衛に視線を重ねて術に落とす。
「ここか・・・。」
立っている守衛の後ろに小さな格子窓がついている頑丈なドアがあった。見るからに大事な物を守っているドアだと分かる。しかしドアの奥から感じるお宝の気配とは裏腹に、それを守る守衛のやる気の無さといったらどういうことだろうか?恐らく中に何があるのか知らずに立っているだけなのだろう。
守衛は扉の真ん前に立っているので中に入るには守衛をどかさなければならない。しかし、触れたりすれば術は消える。この術は油断している者の心の隙を利用する術なので警戒心が強いと効きずらい。催眠術のような少し強い妖術を使うのもいいが、外にいる衛兵に気づかれる可能性がある。中にいる守衛はともかく外で見張りに立っている恐らく妖怪の衛兵の感知能力は高そうで危険だ。
「(慧音らが来た時に一緒に入ればそれで済むところだが・・・。)」
妹紅の姿が目の前にあるにもかかわらず完全にその姿が視界から消えている守衛は、目の前でしゃがんで見上げる妹紅に全く気づかず退屈そうに鼻をほじったりあくびをしている。
衛兵につられて妹紅も貰いあくびをすると、入り口の方から誰かを呼ぶ大きな声が聞こえ、それに守衛が反応して持ち場を離れる。
「(ん、交替もしないで持ち場を離れるか・・・。)」
守衛といっても所詮は案山子という事だろう。だが呼ばれた意味が気になる。客を案内する役目で入り口に戻ったのか、食事やら勤務時間の終了か?
恐らく慧音等会議のメンバーが待合室に揃ってこの奥の間への案内を待つ状態と考える妹紅。
待合い室には酒蔵組合長が一番乗りだったので慧音と鉢合わせにならずに済んだ。組合長の風貌からかなり神経質な性格と思われ、待ち合わせには先に来て相手を待つタイプなのだろう。妹紅にとっては先回り出来たので都合が良い。
守衛の歩調から往復して戻ってくる最短時間を計り諸々含めて安全に自由に動ける時間を瞬時に割り出し行動を始める妹紅。
牢屋とも思える頑丈な扉に掛かっている大きな巾着錠の鍵穴に髪の毛を束にして詰め込み瞬時に鍵を外して無音で中に滑り込むと、先程と同じ様に『移身転心』の術を今度は分身を外に出現させる。これは開いた鍵を元に戻す為である。
鍵を閉め本体に戻った妹紅はさっそく小さな部屋の中を調べにかかるが、中央のテーブルに見るからに重要そうな書類の山が既に置かれている事にすぐ気づいて興味を示す。必要な書類等は準備だけは前々から進めていたようだ。
帳簿をパラパラとめくり、時間が無いので速読する。目から得た情報は映像として目に焼きつけ後から頭でそれを読んで追いかけて考える。
荷車が十二台、大樽が二十樽の発注書。いずれも既製のものではなく特注とある。帳簿の文字だけでは特注品の形状はわからないが荷台に対して大樽がその約二倍の発注というところを考えると何となく想像は付く。
既に発注済みということはそれらを作る業者に設計図か、既に完成したものがあるはずだ。後で調べられるように発注先の名前をしっかりと頭に入れる。
妹紅は収集した情報を分析しつつ慧音が何をしようとしているのかだいたい見えてきた。
「これは・・・正に宴会だな・・・。」
料理皿、椀、朱塗りの銚子と盃、漆塗りの銘銘膳、一升酒徳利、それらを一セットとして五十セットの借用書とそのた諸々の注文書と借用書が大量にある。何かしらの大きな宴会に必要なものを取り扱う店から借りるつもりらしい。その取引先の大口の一つにマルキもある。
「しかし・・・これは・・・。」
帳簿を調べるうちにただの宴会ではない事が分かってくる。榊と紙垂、所謂玉串の材料も大量に発注されている。
「神事でもするのかな・・・。」
神社の神事などに使うようなものも大量に発注されている。そうした道具一式を保管・運搬する大きな葛篭、目隠し用の囲い幕もある。飲食店組合に食材の備蓄願書もあり、荷車などの件からも推察して、どこか別の場所で大規模な神事を執り行うということがわかる。
「困った時の神頼みか・・・悪くない考えだが、博麗神社は恐らくそれどころじゃないだろうし、あそこは何か特定の神様を祀っていただろうか・・・。」
事前に申し出ても恐らく断られると思って密かに霊夢を支援しようとしているのかもしれない。霖之助の言葉も冗談ではないようだ。
「・・・しかし。」
ただそれだけの事だろうか?妹紅はもっと何か別の目的があるような気がしてならない。
妹紅が思案にふけっていると外に数名の人の気配がして鍵が開けられる。
「(来たか・・・。)」
妹紅は帳簿や書類を元に戻し、開く扉の正面に仁王立ちした。
上白沢慧音はある計画を立てて、里の有力者と事前に協議して隠密裏に事を進めていた。
「これはヤマセンのご主人、忙しいところ申し訳ない。迎えを出したら既に向かったと言われましてな。」
既に商工会の待合室に来ていた招待客の酒蔵組合長のヤマセンの主人に挨拶する慧音。ヤマセンは屋号である。
「いえいえ、待たせるのが嫌いな性分で、こちらこそ早くから申し訳ない。」
「もうじき他の者も来るでしょう。それまでお茶でも。」
「お構いなく。既に頂いてますから。」
待ち合わせの時間よりだいぶ早く来る事で有名なヤマセンの主人に合わせて約束の時間よりもだいぶ早く使いを出したにもかかわらず、それよりも早く来るヤマセンの主人。
ちなみに魔理沙の父、マルキの主人が現在商工会の会長をしており、当然この会合に参加する予定である。先刻まで慧音はマルキにいて、ヤマセンが早過ぎるだけで慌てる必要はないと言って先にマルキを出たのである。
酒蔵組合長と商工会長の2人の他、『妖酔乃瀧』(ようすいのたき)の主人が来る予定である。妖酔乃瀧とは、主に妖怪を相手にする自身も妖怪である主人が経営する酒場で、単に酒場の経営だけでなく、妖怪の衛兵や傭兵の斡旋と両替もやっている、里ではかなり重要な地位にいる者である。
今回の会合に参加するメンバーの4人全員が揃ったのは、ヤマセンの主人、つまり妹紅が侵入してから約15分後の事である。
最後に来た『妖酔乃瀧』の主人は人間ではなく妖怪で、上白沢慧音とは古くからの付き合いである。吸血鬼戦争にも魅魔の部下として参戦した猛者であるが、外見は妖怪にしては華奢で人間と名乗っても疑われない平均的な人間の男性の体格をしている。戦争時に負った醜い顔の傷を隠すため、鼻の上から顔半分頭頂部まですっぽりと骸骨のような仮面を被って顔のほとんどを隠している独特の風貌を持つ。
慧音がまだ里に受け入れられておらず外で活動していた頃からの付き合いで、里の人間と融和を果たした妖怪の中でも最古参の者である。
そうした経歴があるため、里の妖怪酒場で妖怪を傭兵として斡旋したり、妖怪の力を必要とする各種仕事の紹介から妖怪達の人生相談まで何でも請け負っている。妖怪と揉め事が合った時は彼に相談すれば大抵の事は解決出来、妖怪だけでなく人間からも頼りにされている存在である。現在店の名前である『妖酔』と名乗っているが本名かどうかは不明である。
案内されて奥の間に辿り着いた4人は、会合の主催とも言える上白沢慧音から順に部屋に入室する。その時慧音は一瞬目眩のような錯覚を覚えて立ち止まった。
「ん?」
部屋に入ろうとして立ち止まってしまった慧音はすぐ後ろにいたヤマセンの主人に背中を押される。
「失礼、どうかしましたか先生?」
「あ、いや、何でもない。」
何か見たような気がした慧音だったが、何を見たのかも全く思い出せない妙な違和感を感じたものの、すぐに声を掛けられて我に返って部屋の奥に進む。恐らくこの部屋には何かしらの結界が張られているため、違和感を感じたのだろうと自分に言い聞かせる。まさか先回りして侵入していた妹紅に術をかけられたとは夢にも思っていない慧音である。
予め部屋の中で待ち伏せしていた妹紅は、慧音、ヤマセンの主人、マルキの主人と順に落として行く。そして4人目が入ってきた時、驚いて思わず息を呑む。
隙が全くない強い妖怪が入って来たのだ。しかも仮面を被っているので視線がよく分からない。
「(ヤバイ!)」
仮面の奥の視線が自分を捉えた事を妹紅は確認する。見られた!どうする?逃げるか?それとも多少乱暴でも強い術で全員を一旦無力化させるか?いや、この妖怪はただ者じゃない。他の3人に気づかれずに術を掛けるなど無理だ。それに強い妖気を出せば外の衛兵が気づく。万事休すか?
「(南無三!)」
妹紅詰んだと思った。しかし、その妖怪は妹紅を一瞥しただけでそのまま無視するように入室する。
気づいていない?いや、絶対に気づいている。その上で無視したか黙認したかだ。
「(何故黙っている?)」
この状況なら侵入者と疑うはずだ。しかし、何事も無くさも自分がここにいる事が当たり前という顔だ。妹紅はこの状況を咄嗟に考えこう結論づけた。この妖怪は自分を知っている。恐らく慧音繋がりで、慧音と自分が友人関係だということも知っている。慧音の親友が慧音の護衛として予め部屋についていた。そう考えれば彼がこちらをスルーする理由がつく。
小さな部屋の真ん中に正方形のテーブルがあり、そこに様々な書類が堆く積まれている。妹紅は意識的に慧音の背後に立ち、慧音の対面に立ったその妖怪を正面に見る。
こうすれば慧音の護衛に見えるだろう。妹紅はこのまましばらく様子を見る事にした。
四角いテーブルには椅子は用意されておらず、四方にそれぞれ立つ。
まず、ヤマセンの主人が酒蔵組合の会員の連名で記載された承諾書を慧音に渡す。
「ありがとう。これで書類は全て揃った。」
礼を言う慧音。
「先生、書類は残さない方が良いのでは?」
と、マルキの主人。
「いや、それをやると誰かが責任を取らねばならぬ時に皆が迷惑をする。これはあくまで私個人の計画だ。」
「博麗神社を妖怪から取り戻すというのは、我々人間の使命の様なもの。先生一人で責任を被る必要はないでしょう?」
突然驚くべき言葉出る。博麗神社の奪還?それは八雲紫に喧嘩を売るのと同じ事。紫は幻想郷に於ける天皇の様な存在だ。そんなことは許されるものではない。
「人間か・・・少なくとも妖怪の私も先生には全面的に協力するつもりです。八雲紫と対決するならそれも臨むところですしね。」
術の聞かないあの妖怪は、やはり慧音の知人のようだ。香霖堂の店主森近霖之助が自分を知っていたように、彼も知っていてもおかしくはない。ただ、この妖怪、何やら八雲紫に恨みでもあるようだ。
「私怨で協力するならいらんぞ?」
慧音に睨まれる妖怪。
「八雲紫の事はあくまで私個人の事。先生とは関係ないことです。」
「ふん!」
先程この計画を個人のものと責任を背負い込み反論を与えなかった慧音は、同じ様な台詞で皮肉られて鼻息を荒くする。慧音に皮肉を言えるとはやはりこの妖怪は古い付き合いでしかもかなり親密な間柄のようだ。慧音の親友を自称する妹紅としては軽い嫉妬のようなものを覚える。
「まぁまぁ、で、これらの期限は?」
仲裁し話を変えるマルキの主人。
「出来るだけ早く。もはや秘密にする必要はない。荷車は完成したものから通りに出して搬入してくれ。ただ、表向きはあくまで祭りの準備ということにしてくれ。」
「こちらは既に注文通りの酒は確保出来ている。いつでも構いませんが、かなりの量だ。明日からでも樽に移し替える作業をしたほうがいいですかな?」
「よろしく頼む。」
ヤマセンの主人に頭を下げる慧音。
「傭兵の確保は問題ありません。手練れを多く確保出来ました。ただ・・・。」
一般的に見る他の妖怪と違い低いが良く通る声で知的なしゃべり方をする仮面の妖怪。前線で暴れ回って戦うタイプではなく、例えばそう、軍師の様な物腰である。時々こちらに視線が向くのを感じるがそれ以上何も起こらない。ただこちらが何か行動すればすぐに対応されるだろう。平然としているが全く隙がない。動くに動けず、まるで喉元に刃物を突き付けられている様で背中の冷たい汗が止まらない。
「ただ?」
「里を空にするのはまずいのではないですか?」
「確かに・・・。」
動員する人数が商工会の会員の数より多い。これは会員の従業員や家族まで含まれる。それらが大人数で神社に向かえば、里の中心部から人が消え治安が著しく悪くなる。
「風見幽香に里に入ってもらっては?マルキさんとは仲が良いでしょう?」
「風見様には確かに良くしてもらっているが、こちらから訪ねる事はしませんからね。里に来てくれるならいつでもお頼みできますが・・・。」
「ふむ、一応こちらで調べてはおりますが、風見殿は今太陽の畑にはいないようですな。」
「移動の季節ですか?まだ早いような・・・。」
風見幽香は季節ごとに居を変えるが、この時期は太陽の畑にいるはずである。
「先日尋ねてきたんですけどねー。」
風見幽香は今療養中という事で妹紅の自宅に住みついているが、正に灯台もと暗しといえる。
「先生、ご友人はどうです?」
仮面の妖怪がこちらを一瞥して自分の名を出す。ここで言う友人とは自分、藤原妹紅の事でマルキとヤマセンがそれを聞いて名案だという顔をする。妹紅は心臓が飛び出るほど驚き、目を細くして抗議の意を示したが、仮面の妖怪は何食わぬ顔でこちらを見て見ぬふりをする。
遊ばれているのか?完全に相手の風下に立たされてしまった。これまで全て自分のペースで完璧に潜入調査をしてきたが、妖術使い荒事・裏事のスペシャリストとしてのプライドが著しく傷つけられる妹紅。
「ん?妹紅か?」
「ええ。」
「あれはダメだ。妹紅もやるべき事がある。」
「なるほど。」
そう言って妹紅の仮面の奥の目がこちらを見据える。
「ふむ、この件については何とかしよう。兎に角急いで欲しい。」
慧音がまた頭を下げる。
「もう一度確認してよろしいですか?」
段取りを確認する為にマルキの主人が発言する。
「うむ。」
「祭りの準備の最中に異変が起こる、それも大規模な。」
「天変地異クラスとみて間違いない。」
「そこで、天の助けを得る為に、神社に参拝して神頼みをすると。」
「既に守矢神社には話が通っている。彼らの要求通りの物は揃えた。」
重用なキーワードが出た。なるほど、諏訪の神様達を利用するということか。博麗神社を差し置いて守矢神社に神頼みなど間違いなく八雲紫の怒りを買うだろう。
博麗神社の重要性を知る慧音が鞍替えして守矢神社になびくわけはない。恐らく何か策があっての事だろう。先程誰かが言ったように博麗神社を奪還するという事なので、この場合はむしろ守矢神社に頼ると見せかけて利用しようとしているのではないか?
この幻想郷で博麗神社を差し置いて他の神様が人間の信仰を獲得する事は許されない。これは管理者側の信条的努力目標ではなく、幻想郷を運営する上での絶対に動かせないルールなのだ。幻想郷は博麗神社が八雲紫を制御し、抑制される事で八雲紫は世界を支配する力を得ている関係が成り立っているのである。
慧音はそれを十分承知しているだろうし、最終的に博麗神社そして幻想郷、更には八雲紫にとっても良い方向にもっていくはずだ。しかし、結果オーライでは済まない。慧音のやろうとしている事は正しいことだとしても行為そのものは幻想郷に対する反逆行為になるわけで、これをお咎め無しとして前例を作ればそれこそ技術革新を目論む守矢神社につけ込まれてしまう。外から新しい物を取り込もうと常に画策する守矢神社に対して示しをつけるには、泣いて馬謖を斬るしかないではないか。
「(慧音、お前死ぬぞ?)」
妹紅は慧音が自分を遠ざけたのか、その理由が今ハッキリと分かった。慧音は裁かれる事を最初から分かっていて自分に罪が及ばないように離別したのだ。ここに書類として証拠を残しているのも、主犯者を明確にして里の人間が誰一人罪にならないようにするためのものなのだ。
上白沢慧音は、八雲紫の博麗霊夢に対する誤った接し方を正し、神々の力を人間にもそして霊夢にもしっかり見せつけ、もう一度信仰心を呼び覚まそうとしているのだ。
妹紅は幻想郷に来て一番最初に感じた事は人間の信仰心が薄いということだった。厄神や豊穣の神が目の前に居て何故里の人達は彼らを優遇しないのか?妹紅はその理由はだいたい分かっている。人間と神様が近過ぎるのだ。畏れとは手の届かない存在に対して抱くもの。しかし幻想郷では人間とあまり変わらない平々凡々な神様の姿を間近で見過ぎたのだ。
当たり前にあるものに有難味も畏れも生じない。それが信仰心の薄れに繋がる。博麗霊夢が怠けているから信仰が薄いのではない。元々神様を信仰しない人しか里にいないから、霊夢が何をしても変わらないのだ。
特に博麗神社が本陣山に移って里から神社が消えてから信仰心の低下は著しい。
上白沢慧音は、この異変を通じて神様の強さ、有り難さ、恐ろしさをもう一度人々に与え畏怖の念を喚起し、基礎的な信仰心を再構築しようと考えているのだ。その基礎があってこそ初めて神社に価値が出るのだ。
巫女が生まれない現状、神主も巫女も死んで以後博麗神社に人が居なくなった時幻想郷は終わる。恐らく人々の信仰の力が巫女や神主を誕生させていたのだろう。それは時代と共に衰退する博麗神社の有様を見れば理解出来る。
慧音は紫の責任と言う。しかし、妹紅は紫の責任ばかりではないと思う。紫は博麗大結界以後長い休眠期に入って最近復帰したのだ。紫が知っている100年前の幻想郷はもっと殺伐として里も危険に満ちていた。復帰した紫は現状の幻想郷を見てさぞ驚いたことだろう。
魅魔が吸血鬼に偏りすぎたのも問題で、吸血鬼復権は世界が平和な状態でなければ叶わず、神社の活躍の機会を減らして意図的に平和工作を進め現在の和な幻想郷になってしまったのだ。
誰が悪いという訳ではない。誰も悪くなく、そして全員が悪いとも言えるのだ。自分だってそうだ。今になって出て来て偉そうに異変の中心にいてふんぞり返っているが、300年間人間の里を無視して宇宙人との私闘にうつつをぬかしていたのだ。他人の事をとやかく言える立場ではい。
慧音だけ、慧音だけが里の人間から忌み嫌われて居た時代から、ただひたすら人間を愛し守って来た。里に受け入れられてからは人間の里の発展に尽力し、美味しい酒を造れる存在という付加価値を人間に与え、妖怪と人間の新しい共存関係を築き上げた。ずっと、ずっと彼女は人間の里と幻想郷を守ってきたのだ。
どうしてもっと早く彼女に協力してやれなかったのだろう。今までずっと大事にされてきたのに、何故自分は慧音の為に何かをしてやろうと思わなかったのだろう。
慧音と離別する際、どうしてあんなひどい事を言ってしまったのだろう。慧音はそれを聞いてショックだっただろう。今目の前にいる慧音に土下座して謝りたい心境だ。
妹紅は異変の件について、これは公務と捉えている。そして慧音については私事として考えている。公私の狭間でどっちを選べば良いのだろうか?慧音の命を守る為にこの計画を阻止すれば、確かに慧音は助かる。しかし、慧音の信用を失い軽蔑され、親友という関係は完全に崩壊するだろう。真に友と言う間柄なら慧音の思いを汲むしかない。しかし、それは慧音の死に繋がる。
極秘の会合は終わり、全員外に出てそれぞれの帰路に着く。
「(どうすればいいんだ・・・。)」
一人項垂れて通りに立ち尽くす妹紅。その時視線を感じその方に振り向くと、先程の仮面の妖怪がこちらを見ている事に気づく。そして妹紅と目が合うと、自分の店ではなくすぐに横道に入って路地裏に姿を消した。
「着いてこいということか・・・。」
慧音の事も重用だが、自分を見逃したあの妖怪の意図も知りたい。それにあの男なら何か慧音を助ける手段を知っているかもしれない。
妹紅は仮面の妖怪が消えた路地裏に向かった。