東方不死死 第35章 「紅魔館のメイド」


 幻想郷東部中央に東西に伸びる魔法の森の北に、『霧の湖』と呼ばれる大きな湖がある。
 この湖はかつての大戦で散った無数の亡骸を湖底に残したままで、その死者の残滓が不浄な魂の淀みを生んだ。湖はやがて、それそのものが一つの霊となり強い霊気を帯びて冷気を放つようになった。
 一年を通して発生するこの冷気は、まるで生き物の様に脈動し一定周期で水面に放たれる。
 冷気の出ていない僅かな時間に太陽光で湖面が温められると水蒸気が発生する。そこへ周期的に発する強い冷気が湖面付近の水蒸気を凝結させ霧を発生させる。
 これが湖の名前の由来となった特有の現象『晴天の濃霧』を生み出す仕組みである。


 幻想郷の夜は月のない日も様々な光に満ち溢れ、完全な闇夜は存在しない。もし視界に光が無くなればそれは妖精や妖怪の仕業だろう。
 霧の湖はそれそのものが冷気を出すタイミングに合わせて淡く斑光を放つが、今夜は何故か黒い闇を湛えたままで、湖面に浮かぶ幽霊や妖精の放つ光をだた反射させているだけであった。
「今夜も湖が静かに眠っている・・・。」
 館の主、レミリア・スカーレットの就寝に付き添い、その役目を終えた十六夜咲夜は連夜の「湖の眠り」という現象を紅魔館の廊下の窓から眺めていた。
 年に数度しか起こらない「湖の眠り」現象が二日続けて起こっている。
 幻想郷入りしてからまだ10年経っていない咲夜であったが、こんなこんなことは初めてである。以前にもこの様な事があったのだろうか。主の親友であり紅魔館のナンバー2、図書館知識の塊パチュリー・ノーレッジに尋ねてみようかと思うが、彼女はあまり外に出ないので、湖が夜発光する事自体知らないかもしれない。

 窓から目を離し歩き始める咲夜。
「あら?」
 美しく磨かれた大理石の長い廊下には、人が二人ほど並んで歩ける幅の薄い深紅の絨毯が敷かれている。咲夜は先日掃除したばかりで汚れ一つ無い絨毯を歩くのを躊躇い、それを避けて窓際に寄った時、外から館へ入ってくる何者かの影を確認する。
 いつもやってくる黒い魔法使いだろうと思う咲夜だが、念のためそれを確かめる為外へ飛び出し、時間を止めてその影に迫った。
「あれは・・・。」
 その影の正体はパチュリーのファミリアだった。
「パチュリー様にお使いでも頼まれたのかしら・・・。」
 時間を止めている間はセピア色のモノトーンの世界になる。その為、容姿が同じである複数のファミリアのうちの誰かを特定するのが困難である。
 単一色で濃淡だけの世界は、暗い色は濃く、明るい色は淡く再現されるので、髪の毛の濃度である程度個人を絞る事は出来る。髪が濃く見える事から、紅髪のルビーか、黒髪のアレクだろう。あるいはエメロードの可能性もある。
 そういえば黒髪のアレクは今日は非番なのでパチュリーのそばにいるはずだ。お使いを頼まれるとしたら彼女になるだろう。
 手には一枚のカードを持っていたが、恐らく用件が書かれたメモだと思われる。
 パチュリーは何か外に用事がある場合、自分が行かなければならないような案件でもなければ大抵使い魔達にそれをやらせるのである。
 紅魔館ナンバー2でありレミリア以外で唯一傅く立場であるパチュリー・ノーレッジの命で動く使い魔の行動を詮索する立場にない咲夜は、そのまま見なかった事にして紅魔館に引き返す。


 紅魔館に戻った十六夜咲夜はメイドの控え室に戻った。
 この控え室は厨房や更衣室、休憩室と隣接している紅魔館で働く者共通の詰め所である。
 咲夜の入室で、詰めて待機しているメイド達がおしゃべりを止め一様にかしこまって頭を下げる。
 紅魔館のメイド構成は、メイド長の十六夜咲夜の下に直属の七曜魔がおり、その下に雑用の下級メイドがいる。
 七曜魔とはルビーを元にパチュリー・ノーレッジが造った7人のファミリアの事で、夜魔リリムをベースにルビーの遺伝子情報を組み込んで強化した悪魔達である。
 パチュリーの独自理論属性『七曜』を司り、その属性のイメージカラーが与えられ、それがそのまま髪の毛や瞳の色に対応しており個体が判別出来るようになっている。
 火属性のジャスパーは朱。水属性のサファイヤは碧。木属性のエメロードは翠。金属性のダイアは金。土属性のトッパーは黄。日属性のペリーは白。月属性のアレクは黒となっている。
 名前の由来はルビー同様、全て貴石から取られているが、必ずしもイメージカラーと貴石の色は同じというわけではない。これは、ファミリア達がフランドールを相手にかなりの数が失われており、最初は律儀に対応させていたのだが、次第に対応しきれず、名前もニックネームのように略すようになった。ペリーは元々はペリドット、アレクはアレキサンドライトと呼ばれていたが代替えを行っていく内に省略されたのである。ただ、貴石から用いるルールだけはそのままずっと続けられている。
 ルビーの遺伝子でかなり強化されている七曜魔達だが、ベースが夜魔リリムで、元々の性格と強さを引き継いでいる。明るい性格のジャスパー、根暗なアレク、気難しいトッパー、乱暴なダイアなど同じ姿をしているがかなり性格が違う。
 七曜魔のオリジナルであるルビーはパチュリー専属で、咲夜の管理するメイド体系とは完全に独立していた。

 メイドは24時間の3交代制で、咲夜が勤務していない時間は七曜魔が持ち回りでメイド長代理となって下級メイドを管理している。
 3交代制だが、必要な人員は館の主であるレミリア・スカーレットのスケジュールと連動し、勤務時間と必要人員は変則的である。
 レミリアは、活動時間を夜間だけにしているわけではなく、例えば昼行性の博麗神社の巫女に時間を合わせて行動する時は昼型の、制約なしに自由に外に出歩く時は夜型と臨機応変にしている。
 メイド達のスケジュールはレミリアが活動する時間に合わせて人員を多く使い、その段取りは全てメイド長が行っているのである。
 下級メイドは有能とは言えないが、七曜魔はとても優秀で咲夜は彼女達を自在に操り、数の多い下級メイドを間接的に操り広い紅魔館を完全に制御しているのである。
 下級メイドは、下級悪魔、夜魔、フェアリーが主で少数だが里から働きに来る人間や妖怪もいる。ちなみにフェアリーは幻想郷のいたるところにる妖精とは別物で、フェアリーという種族である。
 館の維持だけなら現状のメイドの人数は過剰気味であるが、最近、フランドールが大人しくなってからは頻繁にパーティーを開催するようになったので、その時に必要な人数を基準に総人員を決め確保している。これらの仕組みは全て現在のメイド長が一人で決めて運営しているのである。

「私はこれで上がります。後はお願いね、ジャスパー。」
 咲夜の前に一歩進み出たルビーと間違われやすい朱色のジャスパーに事後を委ねる。今日は彼女がメイド長代理として夜勤に入る。
 壁にズラッと並んだ勤務状況を示す名札の列から自分の名札をひっくり返して掛けなおす咲夜。白地に黒で名前が書かれた面が非番を意味する。
「あら?美鈴はまだ上がってないの?」
 門番の紅美鈴の札が黒地に白抜きの勤務中を意味する札になっているのに気付く咲夜。
「そう・・・。」
 困った顔で頷く表情豊かなジャスパーを見て咲夜は眉をしかめて玄関へ向かう。
「まったく・・・上の者が働き過ぎたら下の者の立場が無くなるでしょうに・・・。何度言ったらわかるのかしら。」
 プンプンと肩を怒らせ、エプロンを外しながら大股で玄関を開き庭を突っ切って正門に向かう咲夜。美鈴は紅魔館の警備責任者という肩書きで咲夜の下、ナンバー2の偉い立場にいる。
「あ、こんばんわ、咲夜さん、夜の散歩ですか?」
 咲夜の接近に気付いた美鈴は、あっけらかんと挨拶をする。
 紅美鈴は咲夜に対して目上扱いで腰が低いが、数年前、咲夜がメイド長に抜擢される以前は立場が全く逆だった。美鈴は咲夜と呼び捨てにし、咲夜は美鈴さんとさんづけしていたのである。
 その美鈴は咲夜のメイド長就任を誰よりも喜び、紅魔館の従業員制度変える際の反発も美鈴が率先して従ったことで不満分子に反抗の隙を与えなかった。自分を呼び捨てにして長としての威厳を確かなものにするよう提案したのも美鈴で、咲夜がメイド長就任後さんづけで呼んで従い咲夜を盛りたてた。
「美鈴、何度言えばわかるの?」
 働き過ぎを注意する咲夜。これは一度や二度の事ではない。
「あ、いや、さっき、パチュリー様とルビーさんが外に出て行かれたので・・・。」
「パチュリー様が?(ルビーも?)」
 先程、廊下でファミリアが外から来るのを目撃している。髪の濃度からルビーかアレクだと予想し、勤務状況からアレクだと目星をつけていたが、あれはルビーだったのだろうか?
「それはいつ?」
「つい、さっきですけど。」
「どこへ行ったかわかる?」
「特に何も言ってませんでしたけど・・・湖に出ましたから方角からすると神社か森ってところですかね。」
「・・・最近、神社がきな臭いから、調査にでも行ったのかしら・・・。」
「ボヤでもあったんですか?」
 言葉どおりに受け取る美鈴に脱力する咲夜。
「はぁ~・・・パチュリー様も出るなら出るで・・・。」
 美鈴の言葉を無視して咲夜は大きなため息と共に右手の掌をそのまま顔にあてて覆う仕草をする。
 紅魔館の防衛システムは美鈴が非番の時侵入防止用の強力な結界が自動的に張られる仕組みになっているので、勝手に外に出られると美鈴は出た者が戻るまで残業になってしまうのである。
「まーまー、もしかしたら魔理沙さんの家に夜這い、いえ遊びに行っただけかもしれませんし、いいじゃないですか少しくらい。」
「め・い・り・ん!」
「じょ、冗談ですよ。」
 両手を振って迫り来る咲夜のプレッシャーを回避する美鈴。
「ったく・・・美鈴はもう休んでいいわ。」
「え?でも・・・。」
「ルビーが一緒なら自力で中に入れるでしょう。」
「大丈夫ですよ私は。湖が寝てますし、珍しいからこのまま見てますよ。」
「・・・そういえば、これで2日目だけど、こんな事今まであったかしら?」
「え、昨日もそうだったんですか?」
 驚いて咲夜に問い返す美鈴。
「あなた、昨日何してたの?まさかまた・・・。」
「え?昨日は非番でしたよ。」
「・・・ああ、そういえばそうね・・・。」
 サボってると思われて口をとがらせてブーたれる美鈴。
「でも、2日連続は私も見たことないですね・・・何か異変が起きる前触れでしょうかね?」
 だからさっき神社がきな臭いと言ったのに、と脛を蹴飛ばしてやりたい衝動を押さえ、これ以上会話が間抜けにならないように無視する咲夜。
「きっとパチュリー様達は湖の調査に行ったのね。」
 そう納得して館に戻る咲夜だった。

 館に戻った咲夜は、先日起こった神社での爆発的な妖気の発生と、最近の湖の異変が無関係ではないだろうと漠然と思い至る。しかし、それを確証に結びつける具体的な論拠や予備知識がない。ただ、なんとなく神社やその周辺にいる妖怪が妖しいとしか言えないのである。
 紅美鈴ほどの武芸の達人になると、周囲の変調にあまり動揺しなくなり気付いていても気にしなくなるだろうが、咲夜の立場としては、主を守る為にあらゆる事象に対応出来る様に常に気を配っていなければならない。
 紅魔館の防御に関しては全てを紅美鈴に任せて問題ないだろう。咲夜としては妖怪の中でも、例えば風見幽香にも美鈴は負けないと思っている。
 咲夜は、まだ正式に十六夜咲夜と命名される以前から美鈴は自分を咲夜と呼び稽古を付けられていた事を思います。


 紅美鈴は大陸から来た前人妖怪で、前人妖怪とは文字通り元々は人間で後に妖怪化した者を言う。
 妖怪化する仕組みは土地柄、風習、術系統など様々で、薬を飲むとか妖怪に術をかけられるとか、泉に落ちるなど、その方法は千差万別である。例えば天狗などはその典型例で、人間が修業して神通力を身につけた前人妖怪の代表といえる。
 前人妖怪はそこに至る経緯の組み合わせは無数に存在するが、その全てに共通する理が存在する。それは妖怪として特徴付ける能力を得る代償として必ず何かを失うということである。
 それは得る力と対極にベクトルが働きやすく、例えば個人的な純粋な力を得た場合は、社会性にとって重要な容姿風貌が乱れ嫌われやすく、社会の中で弁舌を駆使し狡猾に人の心を操作できる力を身につければ、体力は極端に落ち常に身の安全を気にしなければならなくなるなど、生まれながらの妖怪と違い強い力を得れば得るほどにリスクが大きくなる、つまり弱点が顕著になるという特徴を持つようになるのである。
 前述の天狗は、天狗道に堕ちるリスクを常に背負っており、本来人間を超越し人間を制する力を持っていながら、彼らは天狗道に堕ちないよう人間との関係を保ち続けなければならないのである。

 人間だった頃の紅美鈴は幼少から武芸に秀でていたが、その力を悪用されマフィアの戦闘員として悪の限りを尽くしていた。
 裏切りと買収、力と金が物を言う世界。だからこそ信頼出来る仲間は重要だったが、信頼し愛した男に裏切られる。
 追われる身となった美鈴は、復讐を誓い必死で逃げ、当時まだ未開地が多かった大陸内陸部の秘境にまで逃れた。
 そこで、いわゆる仙人と呼ばれる者と出会い、挑んだ戦い敗れ、無理矢理弟子にさせられて、心と身体の修業の日々を送る事になった。
 純粋故にどの色にも染まり易く、運悪く悪に染まった美鈴は、その後の精神修養と肉体鍛錬で純粋な心を取り戻し、修業は目覚ましい成果をあげる。
 その素晴らしい修業の成果に満足した仙人は、美鈴に妖怪化の秘薬を授ける。
 美鈴はその秘薬を有り難く頂戴したものの、このまま永遠に霞を食べて生きていくつもりはなかった。美鈴は過去の過ち、そして未だにはびこる悪の存在が許せなかったのである。
 純粋な正義感は美鈴を再び戦場へと向かわせた。しかしその思いも半ば、当時すでに普及していた銃という近代的な武器の前に体術だけでは抗しきれず、遂に凶弾に倒れた。
 薄れ行く意識の中で、誰かが自分の名前を呼ぶ。
「今お前が一番欲しいものは何だ?」
「・・・力が欲しい・・・。」
「どんな力だ?」
「・・・誰にも負けない力が・・・。」
「バカかお前は、誰にも負けない力とは、存在しない事を意味するんだよ。」
「どうして?」
「存在しなければ、負ける事もないだろう?」
「・・・確かにそうね・・・私は、あの銃とか爆弾とか、ああいうのが効かない身体が欲しい。」
「無敵の肉体ってか?それはお勧めできないな。」
「何で?」
「無敵の身体ってのは、ただ攻撃が効かないだけで、こっちからは何もできなくなるぞ。歩くこともな。」
「それは駄目・・・。」
「なら、自ら望んでリスクをつけな。」
「リスク?」
「そうだ。リスクだ。何でもかんでも只で貰えるわけじゃない。」
「・・・私はバカだから思いつかないわ・・・。」
「うーむ・・・銃が効かない身体が欲しいんだろ?なら、替わりに素手の攻撃は10倍効くってのはどうだ?」
「・・・それでいいわ。」
「おいおい、冗談だよ。もっと考えろよ。肩叩かれただけで骨折するかもしれねーんだぞ?」
「大丈夫、こう見えても身体だけは丈夫だから・・・。」
「・・・まー、お前がイイってんならそれでいいが・・・じゃ、これで契約成立だな。」
「契約?」
「お前、既に薬を飲んだだろ?お前はもうすぐ妖怪として生まれかわる。人間としての最期が妖怪としての始まりだ。」
「そっか・・・私、死ぬのか・・・。」
「なーに、死とは命の状態の側面にすぎん。安心して死にな。そして妖怪になったらせいぜいがんばりな。」
 銃で撃たれて運河に落ち、ヘドロに沈み行く美鈴は、頭の中に直接響いてくる声と対話し、やがて途絶えた。それと同時に美鈴の人としての時は止まったのである。


 美鈴が意識を取り戻し目を開いた時は、下半身が水に浸かって上半身が陸にある状態だった。
 その異常な冷たさに思わず水から飛び出した美鈴は、伸ばした両手の先も見えない濃い霧の中にいる事に気付く。
 しばらくそうしていると、突然霧が晴れて目の前に大きな館が現れる。
 死後の世界なのだろうかと死んだ時の記憶を辿ってみるが、確か自分は妖怪に生まれ変わっているはずだと、死ぬ直前に聞いたあの会話を思い出す。
 試しに軽く頬を叩いてみる。
「?△☆ッ!」
 悶絶してその場にうずくまる美鈴。とんでもない契約をしてしまったと後悔する。
 
 前向きな美鈴は直ぐに気を取り直し目の前の館に一旦背を向け、霧の晴れた湖に目を向ける。
 記憶にあるあばら屋の建ち並ぶ汚く臭い町並みとは違い、何かの本で見たような異国を思わせる美しい景色がそこにあった。
 自分の名前も記憶も全て残っている。ただ、ここがどこなのか分からないし見当もつかない。どうしたものかと思案した結果、背後にある館の人に聞いてみるのが早いだろうと言う当たり前の結論に達する。

 館の周囲は塀で囲われており、正門の両開きの鉄格子は錆びて片方が地面に転がっている。遠目には綺麗に見えた館であるが、建物はともかく庭周辺は荒れ放題で、下手をすると100年以上ほったらかしかもしれない。
 片方が開いた門もくぐろうとした時、正面の空間が歪んでいる様に見えた。手を伸ばしてその歪みを確かめようとしたが特に何も感じず、そのまま身体を門の内側に入れる。耳鳴りが一瞬したがすぐに馴れる。
 おじゃましますと小声で存在しない誰かに断りを入れ、キョロキョロしながら何が飛び出してくるかわからない異様な庭を忍び足でゆっくりと進み、やがて館の玄関と思しき大きな扉の前に辿り着く。
 庭は荒れているが建物は傷んでおらず、強い家力を感じる。人の住まない家はどんなに丈夫に作られていても直ぐに廃墟と化すものだが、この館には館内にいくつもの気を感じ、中に住人がいるのは確かである。
 玄関を数回ノックしたものの、返事がないので独り言の様にお詫びを言いながら扉を開けてとりあえず上半身だけ館の中に入れる。
 玄関ホールの天井は高く、丸い採光窓は赤いガラスが使われている為ホール内は薄紅色に染まっている。
 正面に広い階段があり、突き当たりで左右に分岐して上に続いている。ボスの別荘が確かこんな感じだったと不意に昔の記憶が甦る。しかし、この玄関ホールの様子を見るだけでも、当時のボスの洋館がおもちゃに見えるほど格式の差を感じる。
 完全にホール内に入った美鈴は、天井から吊り下げられている大きなシャンデリアに見とれる。ホール内の赤い光を反射してキラキラと幻想的な美しさを醸し出している。
 扉が静かに閉り、振り向く美鈴は、一度玄関に戻って扉を引いて開くことを確かめ、閉じこめられているわけじゃない事を確認し再び前を向く。
 正面の階段の両脇に奥に伸びる通路、左右の壁にも通路、計4つの通路がホールと繋がっている。2階は左右がバルコニーのようになっており、恐らく1階と同じ場所に通路があるのだろう。
 美鈴はしばらく周囲を伺っていたが、誰も来る気配がないので大声を上げて誰か呼ぼうかと考えている時だった。上から声をかけられその方向に振り向く。
「ここに来ては駄目と言っているでしょう?早く戻りなさい。」
 紫色の服を纏った少女の様な姿の女性がこちらに諭す様な声を掛ける。その言動からこの館の偉い人で、玄関ホールに迷い込んだ下働きの使用人を咎める、そんな感じだと冷静に分析する。昔ボスの館で使用人をこんな風に叱った記憶が蘇る。
 どう応えればいいのか咄嗟に思いつかず、昔の記憶と混同し、しどろもどろになっていた美鈴は、紫色の女性の腕にからみついている赤い服の女の子がいる事に気付き、平静を取り戻す。
 その女の子と目が会い、すぐに視線を紫色の女性に戻した美鈴は、正直に外から来た事を告げる。
 それを聞いた紫色の女性は驚愕して、先程とは立場が逆になったようにあたふたとし始める。
「ふ、フラン、ちょっとここで待ってて、今レミィを呼んでくるから。あ、そこの人、そのままそこにいて。」
 階段を途中まで降りていたその女性はすぐに来た道を、連れていた女の子をおいたまま戻って行ってしまう。
「あ・・・。」
 取り残された赤い服の少女がこちらをじっと見つめている。美鈴はにっこりと微笑んで見せると、その少女の身体から力が抜けて張り詰めていた緊張の糸が緩むのを感じた。
 美鈴は笑顔のまま、膝に手を置いて背を丸め、右手で手招きをする。少女はそれに応じてゆっくりと階段から下りてくる。美鈴はそこである事に気付く。
 手摺りが邪魔でよく見えなかったが、その少女は大きなぬいぐるみを引きずっており、しかし、そのぬいぐるみはボロボロで、耳と思しき部分が引きちぎられ、目と思われる部分も片方がえぐりとられ、手足も片方ずつなかった。胴体も一部切り裂かれ中から綿が飛び出している。
 美鈴はこの少女が普通ではない事をすぐ理解した。しかし、美鈴は笑顔を絶やさず、少女がそばにくるのを待った。
 目の前に立った少女は、つまらなそうな顔のままじっとこちらを見上げる。
 美鈴は思わず少女の頭に手を置いて撫でる。その時、門をくぐった時と同じような耳鳴りがした。
「(なんだろう・・・今の。)」
「おい!お前。」
 突然、ドスの効いた声が聞こえた。
「え?は?」
「お前、その手をどけろ。って、何で壊れないんだ?今手を吹き飛ばしたはずなのに・・・。」
 不機嫌そうな少女は、頭を撫でる美鈴の手を払いのける。その時また耳鳴りがした。
 そのイライラした感情が前面に出た汚い言葉遣いは、最初この少女から発せられたものだとは思わなかったが、手を払いのけられた時、確かにこの声はこの少女からのものだと確認できた。
 美鈴はまた記憶が蘇った。マフィアのボスの娘もこんな感じだったと・・・。しかし、そう強がって見せているだけで、本当はとても心が優しい娘だった。この少女もきっと・・・。
 この時美鈴は、ある決心をして少女の予想になかった行動に出た。
「う、ううう・・・く、苦しい・・・。」
「?」
 美鈴は突然心臓を抑え、苦しみもだえるようにその場で膝から崩れ落ち仰向けに倒れる。
「た、助けて・・・誰か・・・。」
 そのまま、ガクッと首を傾け死んだフリをする。あからさまなその美鈴の行動に一瞬驚いた少女だが、すぐに悪態をつきはじめる。
「・・・ばっかじゃないの?」
 少女はそれがウソだとすぐに見抜き、少女は足で頭を少し小突いて起こそうとするが、全く反応がない。
「・・・。」
 呼吸する時の胸の上下もなく、全くピクリとも動かない。
「・・・ホントに死んだのかな・・・。」
 少女は急に悪戯っぽい笑みをこぼすと、しゃがみ込んで美鈴の腋の下を思い切りくすぐる。しかし、それでもピクリとも動かない。
「・・・おい、起きろよお前!お姉さまが来ちゃうだろ。怒られるのは私なんだぞ!おい、起きろってば!」
 もみ上げの三つ編みを掴んでそのまま持ち上げる少女。
「っち、ホントに死にやがった。つまんねーの。」
 そう言ってもみ上げを掴んだまま立ち上がり、玄関の外に捨てようとした時である。
「わあああああああああああぁぁぁぁ!」
 と大きな声を上げて、その少女に覆いかぶさる様に抱きつく美鈴。
「きゃああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーー!」
 完全に死んだと思い込んだその少女は、突然大声を上げて起き上がる美鈴に抱きつかれて心底驚いて悲鳴を上げる。
 美鈴は驚きの表情と悲鳴に、その少女のありのままを見た。やはりこの娘は、素直な良い子なのだ。
「やーい、引っかかったー!」
 美鈴は、抱きついてそのまま両脇を抱えたまま高い高いをするように高く持ち上げ3回ほど回って下に下ろす。
 素で悲鳴を上げて放心気味の少女は、我に返って怒りが込み上げてくる。しかし、その怒気はすぐにどこかに消えた。
 目の前で床を叩いてゲラゲラ笑っているおかしな女のその姿に怒る気が失せのだ。その代わりある感情が込み上げる。
「・・・ぷ、ぷはははははは、あはははは・・・。」
 心臓が口から飛び出しそうなほど驚いたのは初めてだった。自分自身がこんな風に驚ける事が驚きで、それが嬉しくて楽しくてしかたがなかった。
「やっと、笑ってくれましたね。」
 したり顔の女性に言い訳しようにも笑いを止める事ができず腹筋が痛い。本気で笑うと文字通り腹を抱えるのだと初めて体験する。
 その様子を見て美鈴もおかしくなってまた笑い出す。
 2人は一緒に転がって笑い続けた。


「何あれ・・・。」
 妹の悲鳴を聞き、親友のパチュリー・ノーレッジを置き去りにして慌ててホールまで走って来たレミリア・スカーレットは、1階の玄関ホールで腹を抱え足をばたつかせて笑っている見知らぬ女性と、妹のフランドール・スカーレットを見る。
「フランが笑ってる・・・。」
 追いついた紫色の少女は息を整えながら答える。
「信じられない・・・フランがあんな風に笑ってるなんて・・・。」
 何者かの視線を感じた美鈴は、笑うのを止め、上半身を起こしながら二階のバルコニーから顔を出し下の様子を伺う少女と目が合う。
 後ろに控える先程の紫色の女性と明らかに違うオーラを持っている。それは、生まれながらにしてたくさんのものを背負っている者の持つ高貴なオーラだった。
 紅美鈴は、これが運命の出会いである事を悟り、この場所が自分の未来だと確信していた。


 『亡き王女のための七重奏』のタイトルを持つ予言書の中に次の文がある。

 彼の者、閉ざされた門を開く王女の守護者なり。彼の者、やがて現れる王女の忠実なる僕を導く架け橋なり。

 西暦1960年当時の幻想郷は、吸血鬼戦争の影響を未だに残しており闇に属する勢力は無害であっても虐げられる存在でしかなかった。
 魅魔は紅魔館を接収し長い間館の主をしており、闇に属しても決して邪悪な存在ではない魔物達を紅魔館に招き入れ保護していた。
 刑期を終えて幻想郷に復帰したレミリア・スカーレットに紅魔館を譲り渡した時に、それら闇の住人も引き継がせたのである。
 闇の勢力が外に出ないように強力な結界で封印されていた紅魔館は、預言書にある、『彼の者、閉ざされた門を開く王女の守護者なり。』に該当する人物が紅魔館を訪れるまで結界を維持する事になった。

 レミリア・スカーレットに譲り渡された紅魔館は、地下に監獄図書館を移設した状態であり、その後パチュリー・ノーレッジが自分を図書館に縛る呪いの結界を拡張させて紅魔館を内包させた。これによって魅魔が先に施した結界と合わせて二重の強力な結界で紅魔館は完全に封鎖されている状態になったのである。
 妖怪化した美鈴は、素手以外の攻撃に対する絶対防御を得た。この能力は、致命的ともいえる弱点を持っていたが、紅魔館を覆う強力な結界も、フランドール・スカーレットの破壊の力も無効化するほど強力な力だった。
 ちなみに魅魔の最初に施した結界は今でも有効で、紅美鈴が門に立っていない時は紅魔館に入る事も出る事もできないのである。それ故に美鈴が紅魔館入りするまで、誰も外に出たことがなかったのである。
 例外としては、パチュリーとルビーの特殊な合体魔法で無理矢理突破する事は可能であるが、当時まだパチュリーの呪いは有効であったため、当時外に出る事は事実上不可能な事だった。


 自室に戻り寝間着に着替えた咲夜は、ふと紅魔館に来た当時の事を思い出す。
 幻想郷入りした当時は自分のいる場所がどこかもわからず、生きていく為に人や妖怪を襲って金品食料を盗む追いはぎ行為をしていた。
 わざとぶつかって落とした品々を時間を止めて盗むだけなので人殺しまではしなかったが、必要とあれば躊躇わなかった。元々、そういう組織に拾われて訓練され様々な悪事をやらされていたので、人を殺すなど何とも思っていなかったのである。
 9才で幻想郷入りした咲夜は、当然この時その名前ではなかった。外界では任務の度に名前を与えられていたし、孤児なので本当の名前すら知らない状態である。
 幻想郷入りして、そうした組織の手先にならずに済んだにも関わらず、そうした悪事から足を洗う事が出来ず、荒んだ心は癒えないままただ時だけが過ぎるだけだった。
 10才まで自身の才覚だけでなんとか生き延び、紅美鈴と出会うまでずっと山賊、追いはぎ、強盗をする生活をしていた。
 ある日、両手に大きな袋を抱えた買い物帰りと思しき女を見つけて、荷物を奪い取って時間を止めて逃げた。しかし、その女はどんなに遠くに逃げてもすぐに居場所を嗅ぎ付けて執拗に追いかけてくる。半日逃げ回った末、体力の限界が来て止むを得ず降参した。
 その女は紅美鈴と名乗り、自分を『十六夜咲夜』と呼んだ。
 勝手に名前を付けられ紅魔館とやらに来るように誘うが断った。当たり前だ。
 だが、その日からこの女が毎日の様に自分の前に現れた。紅魔館に来いとはもう言わなかったが、その代わり毎日のように無理やり修業をさせられた。
 逃げても追ってくる。自慢のナイフも受け付けない。そんな化け物に気に入られ最初は嫌だったが、いつしか彼女が来ない時がとても寂しく感じるようになっていた。
 11歳になったとき、美鈴さんが紅魔館で働かないかと言って来た。専属のメイドを募集しているとのことで魔物ではなくおとなしい人間がいいという希望らしい。
 私はそこで働けば美鈴さんと毎日話が出来ると思い紅魔館に入った。
 美鈴さんは時間を止める力は一切使うなと私に約束させた。私は大好きな美鈴さんとの約束を守ると決意し、以後その力を封印した。
 紅魔館の主は10歳程度の生意気な小娘で、目つきが気に入らない、服装がだらしない、紅茶がまずいと何かといちゃもんをつけてくるむかつく奴だった。
 どうしてこんな奴の下でペコペコしなければならないのかと何度もこの仕事を止めそうになった。でも、そんな時いつも美鈴さんが私を支えてくれた。
 美鈴さんに紅茶の淹れ方を学び、掃除洗濯も完璧に出来るようになった。
 1年が過ぎた頃私はこの仕事にやりがいを感じるようになっていた。むかつくレミリアの小娘もこちらが仕事を完璧にこなせばそれをちゃんと評価し褒めてくれた。
 正しく評価される喜びをこの時初めて感じ、以後充実した毎日を送った。主人とも次第に打ち解け色々な話をするようになった。自分の事を一切言わない美鈴の生い立ちなども教えてくれた。自分だけが不幸だと思っていた事をはずかしく思うようになっていた。
 主人の友人パチュリー・ノーレッジ様からスカーレット姉妹や自身の生い立ちを教えてもらった。
 私はいつの間にかレミリア・スカーレットを主と認め、彼女の為に尽くそうと思った。
 13歳になった時、いつものようにお茶の相手をしていると、レミリアお嬢様が手をすべらせティーカップを落とした。大切なティーカップだと教えられていた私は思わず封じていたあの力を使ってしまった。それを見たレミリア様はこう言った。
「あなただったのね・・・。」
 あの時、お嬢様の言葉を今でも鮮明に覚えている。
 この時自分が誰であるのか何の為に存在しているのかを知ったのだ。


 昔の事を思い出していた咲夜は、何故か少し不安になってもう一度レミリアの様子を見に行くため部屋を出た。
「な!」
 その時異変を感じた。
 何故か視界が紅い薄靄に覆われ、耳を手で塞いでいるような圧迫感に襲われる。全身に鳥肌が立ち、瞬時に戦闘体勢に入る。
 右手にナイフを構え周囲を警戒する。
 闇の住民を多く住まわせている紅魔館では心霊現象は日常茶飯事である。しかし、今回はそれとは違う。根拠はないが何か強い力が働いている様に思える。
 背後から強烈な殺気を感じた咲夜は振り向いてナイフを構えその対象を捕捉したが、そこに居たのは見慣れた人物だったので攻撃しようとした手を止める。
「ふ、フランドールお嬢様?」
 構えたナイフを降ろす咲夜だが、その異様な雰囲気を警戒してナイフは仕舞わずに手に持ったままである。
「眠れないのですか?レミリアお嬢様はもうお休みになられましたよ。」
 寝惚けて徘徊していると思った咲夜は、フランドールに優しく声を掛ける。
 先程からずっと頭にノイズが走っている。何者かが外部から干渉している。そんな違和感を常に感じつつ、目の前のフランドールを寝かしつけようと手を引いて地下室に導こうとする。
「(おかしい・・・さっき、寝間着に着替えさせたはずなのに・・・。)」
 大人しくついてくるフランドールの手を引きながら、着ている服がパジャマではなく普段着であることに気付く咲夜。
 フランドールの顔を見下ろすと無表情のままただ正面を向いて歩いているだけである。
 視界の紅い薄靄と断続的に頭に割り込んでくるかすかなノイズは未だに続いている。
 何が起こっているのか全く理解出来ない。湖で起こっている異変、神社で起こっている異常、それと関係する事なのだろうか・・・。
 地下へ続く長い階段をゆっくりと降りる咲夜とフランドール。階段を降りきると今度は真っ直ぐ伸びた長い廊下を歩く。地下なので窓一つなく自然光は一切差し込まない所だが、パチュリーが施した魔法の照明灯が数メートルおきに設置されているので歩くのに困らない。吸血鬼であるフランドールならそもそも夜目が利くので照明は無くても平気である。
 階段を下りる時は気付かなかったが、廊下に出て咲夜は直ぐに気付いた。
 フランドールの影がないのである。
 吸血鬼は影が無いとか鏡に映らないといった逸話があるが、これは全て純血種の事で、ヴェントルーとトレアドールという始祖を両親に持つレミリアとフランドールにはそれは当てはまらない。
 魔法の照明灯の下を過ぎると次の照明に近付くまで咲夜の影は前に伸び続ける。正面の光が強くなるにつれ前方の影は消えて後ろに影が伸びる。それを数度繰り返すとフランドールの部屋に辿り着く。
 現在のフランドール・スカーレットの精神状態は非常に安定しており、ある時期から誰も殺していない。隔離病棟の様なこの部屋ももはや必要なく、フランドール自身も姉やパチュリー、美鈴や自分の部屋にお泊りし、この部屋の使用頻度は減っている。

 手をつないでいるフランドールは本当に自分の知るフランドールなのだろうか?
 外見上は完全に彼女であるが、漠然とした違和感が消えない。そして目に見えてわかる影が無いという異常が更に不安を募らせる。
 鳥肌が止まらず背中に冷たい汗が走る。
 その心意を見透かしたかのようにフランドールがこちらを見上げ立ち止まる。
「ど、どうしました?フランドールお嬢様・・・。」
 心臓が高鳴り思わず引きつった声を上げる咲夜。
「ねぇ、咲夜・・・あなたはここで時間を止めた事がある?」
 2人手をつないで立ったまま、フランドールは視線を目の前の自室のドアに向けて問いかける。
「!?・・・そういえば、一度も止めた事はありませんね・・・。」
 質問の意味をどうとらえていいか分からず一瞬言葉が詰まったが、落ちついてすぐに答えを出す。確かにその答え通りここで時間を止めた事は一度も無い。
 その答えを聞いたフランドールは、咲夜の手を離し独りでドアに向かって歩き出す。咲夜はすぐに後を追おうとしたが足が床に張り付いたようになり動かない。
 フランドールはドアの前に立つと静かにドアを開ける。しかし、ただ開けただけで中に入らずドアの横に立って、何かを教えようとしているかのように、こちらを見つめるだけである。
「!」
 咲夜はその行動の意味が分からなかったが、すぐに信じられないものをそこに見る。開け放たれたドアの向こうに見えるベッドに、少女が一人眠っていたのである。その少女は間違いなくフランドール・スカーレットだ。
 では、目の前のフランドールは誰だ?
「(これは・・・違う・・・妹様はからかって遊んでいるだけだ・・・。)」
 咲夜はすぐに冷静になる。フランドールは4人に分身出来る。これは驚かせてようとしている悪戯だ。
「ねぇ、咲夜・・・時間を止めてみて・・・。」
「・・・時間を止めるとどうなるのですか?」
「どうなるかは見てのお楽しみよ。」
 心臓の鼓動が小動物の様に早くなり、それはどんどん加速する。
 目の前にいるフランドールの形をしている何者かの言う通り、時間を止めたらとんでもない事が起こりそうで怖い。
「さぁ、やってみて・・・。でも、気を付けてね。危ないと思ったらすぐに戻るのよ。」
 このフランドールは、時間を止めるとどうなるか知っているような口振りである。やはりこの少女はフランドールではない。別の何かだ。
 咲夜はそう結論すると、恐怖は消えて戦う者の目になる。望む所といわんばかりに目の前のフランドールをした形の者を睨みつけ時間を止める。
「・・・!・・・あ・・・あああ・・・あ、有り得ない!」
 セピア色に変わった世界。目の前のフランドールの形もベッドで寝ているフランドール本人も全て一様に時が止まる。しかし、咲夜はそこで有り得ないものを見た。
 部屋の突き当たりの壁に別の通路が見えているのである。
 時間を止めると世界の色がモノトーンになる以外、造形が変わる事はなかった。当たり前である。時間を止めるだけで世界をどうこうしているわけではないのだから。
 しかし、今、フランドールの部屋の中にあってはならい別の通路が見えている。
 足は動かせるようになっていた。咲夜はその足を一歩一歩動かして部屋に入る。その通路は自分の後ろにある今歩いてきた通路と同じである。しかし、その通路の先に何か見える。いや、誰かがいる!
 壁にもたれ掛かる様に腕を組んで考え事をしているような姿。しかし、その姿には見覚えがある。
「あ、あれは・・・私!」
 咲夜は思わず叫ぶ。するとその自分と同じ姿の者が顔を上げこちらに向き直る。
 寝間着姿の咲夜に、黒を基調としたメイド服に身を包んだ別の自分が静かに歩み寄る。その足は初めはゆっくりと、しかし、段々と歩調を早め、最期には走り始める。
 明らかに敵意を持った真っ赤二つの瞳は純粋な殺意に満ちていた。
 咲夜は咄嗟に時間を止めようとして、既に今止めている事に気付く。止まった世界の中で自分以外に動く存在を見るのは初めてで、気が動転して身体が全く動かせなくなった。
 いつも自分がそうしているように、無数のナイフを召喚して逃げ場のない包囲網を形成するその自分ではない自分の行動に為す術がない咲夜。
「(殺られる!)」
 死を覚悟した瞬間、周囲の状況が硬化するように止まり、ガラスが割れる様に映像が砕け散る。
「駄目じゃない咲夜、ちゃんと戻らないと・・・。」
 気付けばフランドールの姿をした者に右腕を掴まれていた。
「あ、あなたは、いったい・・・誰なの?」
 横のベッドにはパジャマに着替えて寝ているフランドールがいる。いくら分身できるとはいえ、寝ている状態では無理だろう。
 では、この自分の腕を掴んでいる者は一体誰なのだろうか?
「私が誰かはいずれわかる。」
 咲夜の問いかけにフランドールの姿をした者は口調を変え面白そうな表情を浮かべる。
「既に運命は動き始めている。ドッペルゲンガーに気を付けろ!」
「ドッペル・・・ゲンガー・・・?」
 強い警告とも助言とも取れる言葉を受けたその時である。
「咲夜!ここにいたの・・・探したわ。」
 突然後ろから声をかけられ跳び上がる程驚く咲夜。
「ぱ、パチュリー様・・・、丁度いいところに・・・あ・・・。」
 腕を掴んでいるフランドールの姿をした者をパチュリーに教えようとした咲夜だったが、振り向くとそこにそれらしい者はいなかった。
「どうしたの?」
 誰かがいたような咲夜の仕草を見てフランドールの部屋に入り周囲を見渡すパチュリー。しかし、ベッドで寝ているフランドールの姿しか見えない。
「い、いえ・・・。」
 こういうのをキツネにつままれるというのだろうか。咲夜は通路が見えた壁に歩み寄りそっと触れる。固い壁の確かな感触。軽く拳を握って壁をコンコンと叩く。その感触と音から向う側に空洞らしきものは存在しないことがわかる。
「あれは・・・夢だったのかしら・・・。」
「咲夜・・・一体どうしたの?」
「いえ、何でもありません・・・。」
「何でもないという顔ではないけど・・・。」
 呼ばれて振り向いた咲夜の顔には生気が無く真っ青である。パチュリーの後ろにいるルビーも心配そうに様子を窺う。
「まるで、ドッペルゲンガーを見た顔ね・・・。」
 ドッペルゲンガーを見た者は一様に皆生気を失ったようになるという報告がなされている。
 冗談で言ったつもりのパチュリーだが、それを聞いた咲夜の表情が変わる。
「・・・まさか、本当に見たの?」
 パチュリーは思わずルビーの顔を見る。
 魔理沙の家からの帰りの道中、渡されたメモリーカードをルビーにコピーし記憶を共有してメモリー上の情報を得ていたパチュリーは、咲夜に関しての情報も既に取得済みだった。
 重要な案件であったため、帰館後すぐに咲夜にしらせようと館内を探し回って、ようやく今見つけたところだった。
「もうすぐ夜が明けるけど・・・一緒に図書館に来て咲夜。」
 咲夜は、止めた時間の中で動く存在がいた事、それが自分を殺そうとした事、そして、為す統べなく死にかけた事、全てがショックだった。
 頭が真っ白になった咲夜はパチュリーの会話の内容も何をしようとしているのかも全く理解できなかった。
「痛ッ!」
 パチュリーの後を追おうと身体を動かした時、右腕に強烈な痛みを感じた。
 寝巻きの袖をまくって見ると、先程フランドールをした別の何か握られた場所が大きな痣になって跡が残っている事に気付く。
「これは・・・。」
 小さな女の子の手の大きさではなかった。大人のそれも男性の手の大きさだ。
「夢じゃなかった・・・。」
 何かが既に始まる、いや、既に始まっている。
 それだけしか今の咲夜には理解することが出来なかった。