École des Racines 千枝です

むかしむかし…
テレビ放送を録画する機械が無かった時代

トレンディドラマの時間に合わせて急いで帰宅したり走る人
最終回を見逃して悔しい思いをしたりえーん
今では考えられないですが
逆に今は
見たい時に繰り返し観られるようになって
初めは見落としていたことに
あとから気づいたり
全く違う視点から見えてきたり
楽しみ方も変わってきました

私は同じものを何度も見たりしないのですが
先日見ていたドラマが
スピンオフものだったことを後から知り
本家の方を一気見したあと
改めてスピンオフを見直したら
伏線回収できて面白かったのです
結末がわかっているものをもう一度見ると
こんな発見があるんだなあ…と

ストーリーだけ追って満足してしまう
飽き性の私には新鮮な驚きでした

ここ最近スピンオフものが多いようで
ただ単に本編の続きものというよりも
脇役だった人を主人公にした
全く別のストーリー

もともとの主人公を別の角度から捉えるので
新たな発見があり楽しめます



最近ふと気づいたことがあって

家族から見た自分や
友人から見た自分

仕事をしているときの自分
何かに集中している自分
ぼーっとしている自分

全て自分だけれど
人と関わっている時は
その時々関わる相手に応じて
与えられた役を演じ分けているのかもしれない…

自分の人生は自分自身が必ず《主人公》
自分以外の人の人生では
自分は《脇役》に過ぎない
相手にとって影響力がある役になるか
すぐに忘れられてしまう端役になるか
その配役は
生まれる前に“お役目”で決まっていて
抗えない力を感じる
自分の意思とは関係なく
セリフを言わされていたり
行動させられているような気がするのです

その“お役目”を演じることで
自分も何かを学んでいて
人生の転機になっていたんだなと後から気づかされることが多いのは
それだけの年数を生きてきたからなのでしょうね

さて
関わってきた人たちの人生にとっては
単なる脇役でも
その役を演じている自分自身は
自分の人生の中の《主人公》
当たり前過ぎることなのに
豪華な《脇役》に圧倒されて自分を《主人公》にすることを忘れている人もいます

《脇役》は助演女優賞、男優賞並みの名演で
その“お役目”を見事に演じているからこそ
自分にさまざまな体験をさせ
たくさんの感情を味わわせてくれる

特に自分にとって好ましくない経験は
《脇役》の怪演が凄まじいアセアセ
うんざりするほど何度も仕掛けられるのは
何かに気づきなさいよ、というサイン

反対に
相手を変えようとコントロールする人は
《主人公》の相手を差し置いて《脇役》の自分が《主人公》だと勘違いしているのでしょうね

親子だろうがパートナーだろうが
主役と脇役を交代してはいけないし
そもそも交代できない、ということ

自分の人生のドラマに
スピンオフ作品は必要ないのだから