*メモ状態で置いてたのを渋谷阿部ソロ書き終って気付いた・・・
なおライブレポでなく単なる自分の心のまとめです。ライブレポはないです。
ライブというのはセトリが毎回同じでも、その時の演者および自分のコンディションや精神状態、
会場の雰囲気や気候や世の中の出来事等、様々な要素が複合的に組み合わさり、
全く異なるものとなる。
細部にわたってCDで表現したものを、ライブで魅力的に見える形に再構築する。
それは最後の日に最高を目指しているものではないものの、日々細かく改良が加えられ、
毎回そこには異なった世界が現れる。
機械で分析測定、点数化することができない、時間と空間と精神の魔術の積み重ね。
ライブを体験してから時間がたてばその味わいは変化していく。
ツイッターで即時書いたものは、脳が反射的に本能的に反応した初期衝動で
「はあ!SUTEKI!かわいい!かっこいい!」しか言えない状況から、
その後その衝撃は身体全体に順次広がって緩やかに熟成され、
精神の奥底に時間差で伝わった時、第一印象として簡略化されていた強烈な世界は、
甘美で心地よい甘味と自分自身の中にある苦みや酸味とも交じり合う。
融けて交じり合い、予想外の形状を持った何かとなって再度現出し、
その生々しい鋭利さで再び精神は貫かれる。
それを言語化することは非常に困難で、プロでもないと難しいんじゃなかろうか。
目の前で行われたばかりのライブと、かつて見たライブの記憶とを比較して、
この日はこうだったが今日はここがパワフルだったなあ、とか、ここは優しかったなあ、とか
そういうことが即座に引き出せるようになれば、それはもう一般のファンの感想ではなく、
お金をもらう記者の役割なんだが、ただわかるのは、同じライブは一つとしてない、ということだ。
(*なお兵庫氏はこれが正しくできていないのでユニコーンライブレポに関わるのを即やめてほしい。)
ともかく、一般人である我々が日記を書くのは、記憶と感情を整理し、
そのライブを自分の人生の中で意味付け、とまではいかなくとも、
その時の衝動がかけがえのないものであったことを記録し、
くじけそうになった時にその煌めきを思い出して活きる糧とするためでもある。
できる限り正確に言語化して残しておきたいが、それはかなり困難極まる。
ただ努力して言葉にして残し積み重ねるほど、過去の感覚が新しい感覚を得た時に再度蘇り、
その深みを増したり、素人では困難な比較のようなことも出来る。
が最近本当にそれをさぼっているのでいかんなあ・・・
ともかく、伝統の大会場・武道館である。
いんすたばえスポットが設置されていたので撮影してきた。
浴衣のサイズですが161cmでおはしょりつけずにちょうど足首くらいになります。
服の上から羽織っても余裕あります。まじおすすめ。
なお帯はいかにも温泉地のあれって感じなので別に用意した方が見た目的には良いですw
何故か今回両日ともに席は1F席上手側のほぼ同じ位置だったんだが、
会場に入って「え?武道館ってこんなに小さかった?」と思った。
ユニコーンのここまでの今回のライブが圧倒的にアリーナレベルのクオリティだったんで
武道館でついにその真価が発揮できる!という気でいたが、武道館は思った以上に小さい。
彼らのこの雄大で強力な世界観に似つかわしくないほど小さい。
この気持ちはライブ終了後に更にしみじみ思うんだけど、ユニコーンはもっと売れていいし
売れるべきだし、いやファンとしてもっと布教活動頑張って、
世の中の全員にユニコーンを聞かせたい、と。
人は同じライブでは驚きを持続することはではないし、
繰り返し同じライブに行って飽きないか、と言われると、確かにその通りなのも本当だが、
ミュージシャンはできる限り同じ高品質を届けようとしながら、
その同じ品質を日々越えようと常に改善や挑戦を繰り返している。
だから自分は同じセトリのライブに何度も足を運んで、
彼らの苦痛を伴う創意工夫の意志と美を見にいくのだ。
だが自分が何度も見られるという現実が本当にもったいない。
もっとチケットがとりにくくなるほど人気が出て欲しい・・・
明確にはあらわされないものの、毎回のアルバムごとに彼らの意義がライブに現れる。
『シャンブル』での決死の覚悟、『Z』の領土拡大、『イーガ』の自由の遊び、
『ゅ13-14』の穏やかな愛・・・あくまでも自分の印象ではあるが。
『UC100V』はなんだろう、というと、未知への挑戦、というあたりだろうか。
基本的には彼らそれぞれの作る曲のイメージは一貫しているものの、
その時に欲しい、足りない要素を付け加えてアルバムの世界観の輪郭を明瞭にする。
その役割は民生さんが担うことが多いが、今回は阿部がそれを担ったと明言されている。
阿部はアルバムの意義そのものを創造してきたが、(イーガはやや違ったような印象はあるが)
今回はZEROや100nutsといった新機軸の曲により、ユニコーンがいわゆるベテランではなく、
後悔しないように前へ、と、新しい価値に向かう開拓者スピリットを増幅させているような、
中身は違うものの、『Z』のような意識で挑んでいるのかもしれない、とも思った。
ただ確実に違うのは、互いの理解は『シャンブル』時よりもちろん深まっている『Z』の時期より、
更に深い部分まで、更には精神だけでなく肉体についてまで理解し、
本当に家族感を増して、互いの愛情を感じる能力がより敏感になっている。
「55」の苫小牧の民生さんの大きなミスを全メンバーが精神を重ねて2秒で取り戻す奇跡も
それは奇跡ではなく互いへの愛であることが分かった。
過剰かもしれぬよな愛の直接的表現が頻出しているのも
ユニコーン自身が老いや病気や、友人周囲の人との悲しい体験等が影響してるのかもしれぬ。
人間は自分以外の人のために何かすることこそが本質でありその与
やがてそれは自らのところへ戻ってくるのだという思想を「与贈循環」という、というのを
料理のよしはること土井義晴の本で読んだのだが、
愛されたら愛を還す、という阿部の思想がこれだよな、と。
ユニコーンというバンド生命の道において、愛の循環は自然の行為として根付いている。
10月より始まる100Wで彼らが何を創り変化させていくかが楽しみで仕方ない。