ユニコーン・D3P感想、『虹』の解体 | とらんぬのブログ

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*感想、いくら書いても書ききれないのですべて書くのはあきらめました。

 かなり自分の偏った思考による解釈が入ってます。みなさんそれぞれ自分で見た方が良いです。

 

 

『D3P』。監督:阿部。
 

もちろん阿部は映像のプロではない。その編集はあくまでも趣味の域で、

初めて本格的映像編集をやった人間がよく陥るエフェクト過剰でやり過ぎ感満載だし、

見る側の目の体力を考えて作っていないのであろう過剰な切り替えが多い。

また通常のライブビデオと違い、曲がフルでは入っていないことで、

スカパーを見られずライブに行けなかった人にとっては物足りなく悲しい作品であろう。

そして自分へのクローズアップがナルシスティックなまでに深く真面目でしかも長いくせに、

電大の扱われ方がゆる~く、民生の扱いは民生信者が苛立つとわかりきっていながら

阿部との濃厚な関係の描写を、おそらく意図的に多く、多すぎるほど入れている。

いや、阿部ファンである自分でさえ、この作品のあちこちの欠陥や偏りに気付いている。

阿部自身もおそらくそういう不満が出ることは承知だと思う。

そのせいかどうか、いつもの『MOVIE●』のナンバリングがない。

これは全く違う観点、完全に阿部の見えている世界だけで、

ユニコーンの世界を解体・分析したことの明確な意思表示であるのかもしれぬ。

 

これまでより大幅にクローズアップされているのは、普段は日の当たらぬスタッフの動き。

他のバンドより比較的ユニコーンのスタッフはクローズアップされることが多いとはいえ、

それでも基本的にエッセンスとして作品内に描かれるレベルだったが、

今回は彼らの粉骨砕身がメンバーと同様の扱いレベルに織り込まれている。

この作品を作るに当たり、阿部は膨大なデータを確認し、

4時間まで縮めたものをさらに2時間にまで落とし込んだ。

見ていると、単純にユニコーンのオサーンを見たいだけの人間にとっては

メンバーの姿やもう1曲の代わりに、『不要』と思われるシーンが沢山ある。

打ち合わせや指示を出すシーンだけでなく、ケーブルや卓だけの画、遊ぶスタッフの図、

グッズに右往左往する姿があちこちに描かれている。

これまでのMOVIEシリーズでも十分すぎるほどスタッフの存在の大きさは伝えられているが、

彼らは自分たちの原動力なのだ、ということを十分な時間で表現されている。
 

ライブとは、数え切れぬ人々が、スターを輝かせることを主目的としながらも、

スターを媒介として、自らの生きている証を、それぞれの小さな仕事でもって、

全力で表現するための場でもあり、その小さな仕事どれ一つが欠けても

スターたちは輝くことができない。

スターであるユニコーンは、スタッフそれぞれの、一見小さな、

しかし圧倒的に美しい仕事のかけがえのなさを心の底から知っているが故に、

自分たちの姿ではなく彼らに時間を多く割いたのだろう。

ユニコーンのライブとは、2時間半だけではなく、その何倍もの時間をかけて準備され、

ライブが終わった瞬間から次のライブを滞りなく進める準備が始まる。

ライブとライブの間の時間はライブが止まっているわけでもなく、

音楽の流れていない時間もまたライブ、音楽を通して皆と生き、皆とつながることなのだ。

 

その、やや一般的なメッセージを凌駕するほど、今回最も強烈に感じた、

あからさますぎる阿部の主観的視点。

元々これまでのユニコーン作品、MOVIEシリーズは

他のバンドのドキュメンタリーに比べると、客観性がかなり薄い。

特に勤労の『MADE IN JAPAN』は阿部を主役に撮影した映画と言っても過言でなかったが、

それでもやはり大沢監督は一歩下がった場所にいた。

 

今回、阿部の、強烈にパーソナルな世界。

本人の心に誤って踏み入れてしまったのか、意識的に暴露された阿部の世界。

D3Pとは何か、ユニコーンとは何か、ライブとは何か、と語っていたはずなのに、

あちこちから湧き上がる、阿部とは何か、阿部とは何か、阿部とは何か・・・
研ぎ澄まされた感覚で切り取られたライブの勢いを凝縮した鋭利なる時や

氾濫する我々の勝手気ままに飛翔する憶測を正す、地に足を付けた感情の重みの後、

阿部ファン以外には明らかに不必要な強靭な意志の表明。

時に無防備で無濾過のまま投下された阿部の精神に我々は困惑する。

1シーンごとの意図に、客ではなく本人やその周囲の者が心奪われている宗教的饗宴、

自身らの生きる証をできる限り正確に描き見せつけるべく選び抜かれた絶対的歓喜を、

2時間に凝縮したのだ。

 

これは悪く言えば内輪受けであるが、つまりは自分史、阿部史、ユニコーン史、なのだ。

阿部が望み、メンバーが望み、周囲が望んだ、歴史の編纂。生命の編纂。
阿部は、ユニコーンは、ユニコーンの永遠性を知りながら、その有限性も知っている。

死、病、苦痛を避けられぬ運命であることを思いながら、

自分たちが為してきた美しい何かを遺していける方法を手繰った結果が映像なのだろう。

できる限り自分の見ているユニコーンそのものの世界、

音楽を通して生命の美を達成するメンバーとスタッフの姿を伝えたいと、

阿部は孤独な映像編集を行ったのかもしれぬ。

 

そういった大きなテーマが根本に貫かれていると信じているが、

阿部曰く、「1曲ごとにテーマを決めて編集した」という曲パートの中の、

『信仰告白』にふと息をのんだ。

 

これは意識的な宣言なのか、無意識の暴露なのか。

勿論格式張った告白なぞ不要なほどにファンにとって常識となっている『真実』について、

映像という手法によって、自分自身でより正確な形で公言した、と言うべきか。

真実を貫くとき、人は理不尽な苦痛を受けねばならないが、

正義の名のもとに、軽やかに、呼吸をする如く自然な行為の一環として、

本当の『真実』を、映像を使って見せた、いや、見せつけた。

そもそも彼らは否定なぞしていない。単に明言しなくても皆が知っているから

わざわざ言ってないだけで、せっかくの機会だし表現でもしてみようかな、

というような、ものすごく軽やかな思い付きで描いてみただけかもしれない。

ほとんどのシーンでメンバーそれぞれが1名ずつ映されているにもかかわらず、

オレンジジュースにおいては複数の視点より2名を同時に映し出し、更に重ねあわされる。

カメラワークにおいてもおそらく一部は阿部自ら指示しているのだと思うし、

ここまであからさまな世界観になると、民生に編集後に確認させていると思う。

なお編集で言わせていただくと、静止カメラで全体を映し出すカットを入れていたのが残念。

個人的にはその安定した構図をカットし、可動カメラのスピード感を重視してほしかった。

もしかすると本人がその生々しさがあまりにリアルで惑いが生じたために

それをわざと緩和するために遠景の映像を挿入したのかもしれぬ。

ともかく、この編集、普通の関係性であれば事前に許諾を得ないと

この濃厚な世界観は非常に受け入れがたく再編集が要請されるであろう・・・

 

いや、おそらく許諾なんていらないのだ。

『言わないでもすべてがわかる』のだった。

彼らは考えの境目が分からない、シームレスに互いの精神を行き来している関係性、

延長された自己である他者、ではない。

 

同一なのだ。

 

かくして、剥き出しのまま曝け出された、オレンジジュースの生々しい濃密な果汁の洪水に、

我々の薄く浅い無邪気で純朴な妄想は、一瞬で砕け散り、飲み込まれ溺れ死んだ。

 

阿部の手により、彼および、彼らが『解体』され、阿部自ら科学的手法で説明することで、

より強く新しい個人像および関係性が表出され、

ユニコーンおよびそれぞれの姿は、我々が抱く姿よりより深まり、更に魅力的になった。

ふと、R・ドーキンスの『虹の解体』を思い出した。

ニュートンが虹の正体を明らかにしたとき、詩人のキーツが大いに嘆いたという。

虹の科学的な説明により、虹の詩的な美しさが損なわれた、と。

しかしそうではない。

虹とは、詩の世界だけで語られる謎めいた美しさしか持たない単純なものなどではなく、

科学の世界においても興味深く、解き明かす喜びに満ちた理知的な美しさをも持つという、

虹が解体されたことで、虹は更なる広がりをもつ存在であることが発見されたのだ。

科学的思考は詩的な美を破壊するものではない。新たな次元の美を開拓する力だ。

 

おそらくこの映像作品は、賛否両論どころか、否の方が多いのかもしれぬ。

しかしながら長い年月を経たのち、ユニコーンの肉体がこの世からなくなった後かもしれぬ頃、

恐ろしく意義のある何かを残していることを、世の中は発見するやもしれぬ。

そんな予感、いや確信が自分の中にあるのだった。