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                            2009.1.1                            愛川 美里                           

ジャズの基本はブルース 不滅のスタイルとしてその折々の手法で演奏
V.A./ジャズ・バラード・ベスト・セレクション
V.A./ジャズ・バラード・ベスト・セレクション

 あらゆるミュージシャンにとって生涯のテーマとなっているのがバラードとブルースではないだろうか。どれほどのテクニックがあろうと、いかに斬新な音楽性を持っていようと、これらふたつが満足に演奏できないようなら優れたミュージシャンとはいえない。

 ブルースはジャズの基本である。極論すれば、ブルースは音楽の三大要素すべてを凝縮したものだ。そしてバラードでは表現力が強く要求される。どんなに大胆な演奏をしようが、超絶技巧を駆使しようが、ブルースとバラードがキチンと演奏できなければ一人前ではない。

 ジャズ・バラードの奏法を確立したのはテナー・サックス奏者のコールマン・ホーキンスといわれている。ジャズ史における最初のバラード演奏と呼ばれているのが、1939年に彼が吹き込んだ「ボディ・アンド・ソウル(身も心も)」だ。以後、多くのジャズ・プレイヤーがこのスタイルを手本にバラードを演奏するようになった。

 1940年代に入ると、ジャズはスイング時代が終わってビバップの時代を迎える。ビバップはホットな演奏に特徴があり、もちろんバラードも盛んに演奏されたが、どちらかといえばバラード・プレイヤーよりダイナミックでハードに演奏するミュージシャンに人気が集まっていた。そうしたホットな演奏に疑問を覚えていたのがマイルス・デイヴィスだ。彼は独特のリリシズムを前面に打ち出すことによって、ビバップとは一線を画すプレイで独自の道を歩き始める。

 やがてマイルスが推進した音楽は、ビバップの発展とも結びつき、1950年代にハード・バップという形でジャズの主流になっていく。バラードを多くのミュージシャンが競うようにして演奏するようになったのはこの時代のことだ。

 そうした動きをリードしていたのがマイルスである。特に1950年代半ばの彼はバラード・プレイに新境地を見出していた。ブルーノートやプレスティッジから発表されたアルバムの中には必ず素晴らしいバラード・プレイがひとつかふたつは含まれていた。「ディア・オールド・ストックホルム」、「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」、「イット・ネヴァー・エンタード・マイ・マインド」といった曲で彼が示したプレイはバラード奏法の極致を思わせる。

 ジャズは1960年代に入るとモード・イディオムと呼ばれる特定の音階に沿って即興演奏を行なう手法が流行する。一般に即興演奏をするときは、テーマ・メロディにつけられたコード進行に基づいて各プレイヤーが演奏を行なう。ビバップやハード・バップの時代は目まぐるしく変化するコード進行にしたがいながら、その上でどれだけ個性的なソロを演奏するかが重要だった。

 ところがモード・イディオムを用いてソロを演奏するときは、その反対でゆったりとした変化の中で個性的なプレイを競うことが中心になっていく。

 そうしたスタイルが1960年代には新しい主流となったので、モード・イディオムを用いる演奏は新主流派と呼ばれるようになった。ここでもマイルスが中心人物だ。もともとはコード進行に沿って演奏されていたスタンダードの「いつか王子様が」なども、彼がモード・スタイルで演奏したことから多くのミュージシャンがそれを見習うようになる。

 ジャズは時代とともにスタイルが次々と変遷してきた。しかしいつの時代にあっても、そしてどんなスタイルになろうとも、バラードはその折々の手法で演奏されてきた。バラードは不滅のスタイルである。いまもミュージシャンはバラードを演奏することで実力を示している。そして、これからもそれは続いていくに違いない。

V.A./ジャズ・バラード・ベスト・セレクション

 この作品はバラードにテーマを絞って編集されたものだ。ジャズの名門ブルーノートは1939年に創設されて以来、現在まで膨大なレコーディングを残してきた。それだけにバラード演奏にも極めつけのものが数多く存在する。

 常に先端のジャズを記録してきたブルーノートに優れたバラード演奏が多数残されている事実は、それだけバラードがいつの時代にあっても不滅の魅力を有していた証拠だ。ブルーノートが本当の意味で黄金時代を迎えるのはハード・バップの時代に入ってからである。

 それだけに音楽の充実もさることながら、ミュージシャンの充実にもこの時代のブルーノートには見るべきものがあった。ジャズをリードし、あるいはこれからジャズをリードしようという意欲満々のミュージシャンが数多くこのレーベルには顔を揃えていた。彼らがバラードにも全力で取り組んでいたのである。そしてそのエッセンスともいえる代表的な名演を網羅したのがこの作品だ。


破滅的な生涯を送った天才 チャーリー・パーカー

破滅的な生涯を送った天才 チャーリー・パーカー
破滅的な生涯を送った天才 チャーリー・パーカー

 ビバップの時代を代表するアルト・サックス奏者のチャーリー・パーカー は1945年12月にニューヨークから西海岸に移動して,同地での活動を開始した。いくつかのジャズ・クラブに出演し,レコーディングも行っていたが,年が明けた1946年4月上旬,専属で出演していた「フィナーレ・クラブ」が突然の店じまいをする。

 「フィナーレ・クラブ」では麻薬が取引されていた。その結果,この店が当局の目に触れて,手入れをされたのだった。これによりたちまち生活に困るようになったパーカーは,その失望感からたまに回ってきた仕事で稼いだギャラも酒か麻薬で使い果してしまう。

 そうした時期に行われたのが,ハリウッドにあったダイアル・レコードでの吹き込みだ。7月29日のセッションに現れたパーカーは見るからに衰弱していた。それというのも,使っていた麻薬密売人のムーチェが警察に逮捕されたため,ヘロインの禁断症状が出始め,それを誤魔化そうと睡眠薬を大量に服用していたからだ。ちなみにパーカーはこの時期に「ムーズ・ザ・ムーチェ」という曲も書いている。それほど彼はこの密売人に依存していた。

 それはそうと,意識朦朧としたままでレコーディングはスタートした。1曲目は「マックス・イズ・メイキング・ワックス」である。パーカーとトランペットを吹くハワード・マギーとのユニゾンで始まるこの演奏は最初からばらばらの状態で,パーカーのソロも何とか最後まで辿りつけたという感じだった。

 続いてパーカー自身の強い希望で「ラヴァー・マン」が演奏される。ピアノによるイントロの次に彼がテーマを吹くことになっていたが,演奏が始まらない。うとうとしていたのだ。やっと気がついたパーカーが何とか吹き始める。しかしアイディアが纏まるはずもない。最後まで演奏はしたものの,内容は支離滅裂で,閃きに富んだ日頃のプレイとはまったく違う。

 そんな状態でもう2曲が録音されたものの,この日のパーカーは結局クリエイティヴなプレイをすることがなかった。しかしこの演奏は,のちに《ラヴァー・マン・セッション》と呼ばれ,研究者やファンからは珍重されている。

 ところがこのときのエピソードはこれだけで終わらなかった。パーカーはタクシーでホテルに戻る。一人になった彼は,禁断症状のためと思われるが,息苦しくなり衣服をすべて脱いでしまう。そして喉が乾いたので,素っ裸のままでロビーに下りていき,酒を注文する。その後も20分の間に2度も同じことを繰り返したため,ホテルのマネージャーが部屋に鍵をかけて出られなくしてしまった。

 それから数分後のことである。パーカーは煙草に火をつけ,それを持ったまま意識不明に陥った。そしてその煙草が床に落ちて,カーペットに火がつき,ボヤ騒ぎを起こしたのである。

 これは消防車やパトカーが駆けつける騒動となり,狂人扱いされたパーカーは留置場に放り込まれる。その後はロス刑務所内の精神病棟を経て,カマリロ州立精神病院に収容されたのだった(1947年1月末まで入院)。これが史上名高い《ラヴァー・マン・セッション=発狂セッション》の顛末だ。

 それでもパーカーは懲りなかった。退院するや,2月26日にダイアルでのレコーディングが再開された。この日は4曲を録音することになっていたが,彼は何の用意もしていない。仕方がないので,急遽,以前にスケッチ程度のものを書いていた曲などが録音された。もちろん曲名もついていない。そこで,そのうちの1曲は先日まで入院していた病院名から「リラキシン・アット・カマリロ」とつけられる。

 生涯,麻薬とは縁が切れなかったパーカーである。この後はニューヨークに戻って活動を続けるが,この悪癖が祟ったのだろう。1955年3月,彼はわずか34歳でこの世を去っている。しかし,残された演奏は不完全な「ラヴァー・マン」を含めてすべてがモダン・ジャズにおける宝物として永遠不滅の輝きを放っている。

『ソニー・ロリンズ/モリタート』

 チャーリー・パーカーは1946年から翌年にかけてダイアル・レーベルでレコーディングをしていたが,その前後はサヴォイでも精力的な吹き込みを行っている。ダイアル以上に充実した内容を聴かせているのがサヴォイにおけるレコーディングで,その時期,すなわち1945年から48年にかけてが彼の絶頂期だった。

 同時に,パーカーが中心になって推進していた「モダン・ジャズ=ビバップ」と呼ばれるスタイルの演奏も充実の時代を迎えている。そのエッセンスともいうべき録音を収録しているのがこの作品だ。盟友のディジー・ガレスピーや若き日のマイルス・デイビスをはじめ,ビバップ時代の主要ミュージシャンによる演奏はパーカーの芸術性を端的に表現したものである。

 これらはすべてが偉大なるジャズの遺産と呼べるものだ。それだけに,パーカーやモダン・ジャズを極めたいなら,まずはこのベスト盤『チャーリー・パーカーの芸術~ベスト・オブ・サヴォイ』 を聴いてからさらに深くジャズを味わうのもひとつの手だ。

モダン・ジャズ界の巨人 ジョン・コルトレーン
『ジョン・コルトレーン/至上のカルテット』
『ジョン・コルトレーン/至上のカルテット』

 モダン・テナー・サックス史上でもっとも重要なアーティストがジョン・コルトレーンであることに間違いはない。1950年代中盤から突然の死を迎える1960年代後半まで,ジャズをこれまでになく大きく発展させた最大の功労者が彼である。

 この時代,ジャズはハード・バップを経てさまざまな方向へと拡散していった。モダン・ジャズの黄金時代は1950年代後半からの数年間である。その時期にコルトレーンはマイルス・デイビス のもとで研鑚を積み,そして独立して歴史に残る名演をいくつも残している。

 生まれたのは1926年9月23日,ノースカロライナ州ハムレットでのことだ。少年時代から教会や学校のスクール・バンドに入ってクラリネットとアルト・サックスを練習し,それがやがてコルトレーンを音楽の道に進ませる決心へと結びつける。高校を卒業したのち,1943年にフィラデルフィアに移った彼は,精糖工場で働くかたわらオルスタイン音楽学校で正式な音楽教育を受ける。

 1945年から翌年にかけては徴兵されてハワイの海軍バンドで演奏し,除隊後の1947年にプロ入りしてからはジョー・ウェッブやキング・コラックスの楽団を経てエディ・ビンソン楽団に参加している。テナー・サックスを吹くようになったのがこのころだ。

 コルトレーンがメジャーなグループに入ったのは1949年である。しかし,このディジー・ガレスピー楽団における活躍によってもジャズ・シーンではあまり知られることがなかった。マイルス・デイビスが1955年に初めてレギュラー・クインテットを結成して彼を抜擢したときも,まだ無名の存在に過ぎなかった。ところがここでメキメキと頭角を現したコルトレーンは,リーダーが追求し始めた新しいジャズの方法論,すなわちモード・イディオムを自分なりに体得して1960年に独立する。

 待望のレギュラー・カルテットをマッコイ・タイナー~ジミー・ギャリソン~エルヴィン・ジョーンズと結成したのが1962年のことで,以後はこのメンバーによって怒涛の快進撃を繰り広げていく。『バラード』,『コルトレーン』,『クレッセント』,『コルトレーン・カルテット・プレイズ』など,インパルスと契約して続々と素晴らしいアルバムを発表していたのがこの時期である。

 ことに1964年のアルバム『至上の愛』(インパルス)はジャズ史に残る大傑作と呼ばれ,コルトレーンおよび彼のカルテットが打ち立てた金字塔として現在まで高い評価を獲得してきた。重要なのは,彼がこの作品によって伝統的なジャズの手法による演奏を総決算してみせたことだ。以後のコルトレーンは,しばらく前から深い関心を寄せていたフリー・ジャズのムーヴメントに身を投じていく。

 1965年には当時のフリー・ジャズ派の重要ミュージシャンを結集したオーケストラで野心的な作品『アセンション』(インパルス)をレコーディング。この作品はさまざまな点で論議を呼んだが,コルトレーンがフリー・ジャズ宣言をしたということで,彼のキャリアの上でもジャズ史の上でも重要なものとされている。

 演奏が過激になっていく一方で,創造力に全神経を集中させたため,私生活はストイックなまでに禁欲的になっていた。

 「一歩でも神に近づきたい」

 こういった発言を繰り返した結果,コルトレーンの音楽は徐々にスピリチュアルで穏やかなものへと変化していく。

 しかし,神様は不公平だった。おそらくは次なる一歩を踏み出そうとしていた矢先の1967年7月17日,コルトレーンは肝臓癌のため突然天国に召されてしまう。死の直前まで彼は精力的にレコーディングを行っていた。残されたものにとっては,それだけが不幸中の幸いである。これほど大きな財産はない。コルトレーンの演奏は全ジャズ・ファンにとって至福の宝物といえるからだ。

「クレオパトラの夢/バド・パウエル・ベスト」

 ジョン・コルトレーンが独立したのは1960年のこと。その後,少しずつ理想のメンバーを集め,マッコイ・タイナー,ジミー・ギャリソン,そしてエルヴィン・ジョーンズのリズム・セクションで固定されたカルテットを1962年にスタートさせた。

 以後,カルテットは1960年代を代表するジャズ・グループとして数多くの名演を残していく。1965年に解散するまでの3年間で吹き込まれた演奏はかなりの数にのぼる。この間,コルトレーンは伝統的なスタイルのジャズから先鋭的なフリー・ジャズに通じる演奏まで,モダン・ジャズにおけるあらゆる可能性を追求してみせた。

 中でもハイライトとなるのが1964年に吹き込まれた『至上の愛』 で,その一部はこの作品にも収録されている。カルテットのレパートリーを代表する「クレッセント」や「マイ・フェイヴァリット・シングス」などが含まれている点でも,この作品はまず聴くべき1枚といえるだろう。

ピアノのヴァーチュオーゾ オスカー・ピーターソン

オスカー・ピーターソン/ライヴ・アット・ロンドン・ハウス
オスカー・ピーターソン/ライヴ・アット・ロンドン・ハウス

 "ピアノのヴァーチュオーゾ"として世界中から高い評価を受けてきたのがオスカー・ピーターソンである。カナダ生まれの彼が、偶然のことから名プロデューサーのノーマン・グランツに見いだされる。そして、ニューヨークの「カーネギー・ホール」で開かれたコンサートにフィーチャーされて大きな話題をさらったのが1949年のこと。以後の彼は世界中で大きな人気を獲得し、現在に至っている。

 というわけで、ピーターソンといえば優れたピアニストであることはジャズ・ファンなら誰でもご存知だろう。ところが、彼は本来弾き語りのプレイヤーとしてキャリアをスタートさせていた。渋いのどにも定評があった。それに見切りをつけてピアニストに専念するようになった理由はなんだろう? 本人に聞いてみた。

 「ナット・キング・コールと約束したんだよ。彼もわたしと同じで弾き語りが得意だった。プレイのスタイルも似ていたし、声もそっくりだ。これじゃあ仕事がバッティングしてしまう。お互いにそう考えていたんだね」

 コールといえば、深いバリトン・ボイスに魅力がある。ピアニストとしても一流で、ポピュラー・シンガーとして人気を爆発させる前は、弾き語りの名手で知られていた。

 「知り合ったのはニューヨークに出たあとだから、1950年代の初めだった。ピアノ・トリオといえば、ピアノにベースにドラムスの編成が一般的だが、わたしたちのトリオはドラムスではなくギターを入れた編成だった。これは少し前に流行っていた組み合わせだが、それもコールのトリオと同じだった」

 コールもピアノを弾かせれば相当なテクニシャンで売っていたし、ピーターソンも歌をうたわせれば渋いのどに特徴があった。つまり、ふたりはそっくりさんだったのである。そこで、あるとき話し合いがもたれることになった。

 「どちらが提案したのか忘れたが、なんとなくこのままじゃまずいという雰囲気になっていた。そこでナットと会ったときに、これからはどちらかがピアニストでどちらかがシンガーに絞って活動しないかという話になった。それでナットが年上だから、彼に決めてもらうことにした。ナットはシンガーでいきたいというので、それならわたしはピアニストで、ということになった」

 どちらの選択も間違っていなかった。ピーターソンはのちにノーマン・グランツが経営するレコード会社で優れたアルバムを連発して、ジャズ・ピアノの最高峰にのぼりつめる。コールはコールで1956年からテレビ番組『ナット・キング・コール・ショウ』をスタートさせ、それによって国民的な人気者になっている。

 「しまったと思ったのがそのころだ。シンガーのほうが一般的にアピール度は高い。そちらを選べばよかったと何度思ったことか」

 後悔したとピーターソンはいうが、その顔を見れば本気でないことはわかる。彼はピアニストとしてキャリアを積んできたことに誇りを感じ、充分に満足しているのだ。それは次のひとことで明確になった。

 「同じころ(1956年)からわたしは多くのチャンスをもらうようになった。大物ミュージシャンとの録音やさまざまなシンガーのバックも務めるようになった。その合間に自分の吹き込みもしていたし、ツアーで世界中を回るようにもなった。こんなに充実していていいのだろうか? 恵まれたポジションを与えられたことに感謝したものだ」

 こう語るときのピーターソンは、過去を懐かしむように目を細め、笑顔を浮かべていた。コールとは生涯の友だったことも教えてくれた。だから、彼が1965年にこの世を去ったときは強いショックに見舞われたという。

 「肉親の死と同じくらい悲しかった。それであのトリビュート・アルバムを作ったんだ。尊敬の気持ちを表したくてね」

 それがピーターソンの弾き語り作品『ウィズ・リスペクト・トゥ・ナット』(ライムライト)である。コールの十八番をピーターソンが歌う。そのボーカルは、声も含めて節回しまでまさにコールそっくりである。これなら、別々の道を歩もうと決めたことも理解できる。

 ただし、ピーターソンはこれを最後にボーカル・アルバムは作っていない。「それがナットに対してわたしが示せる敬慕の念というものだよ。ボーカル作品を出してほしいというリクエストはいまもある。でも、わたしはナットとの約束を大切にしたい」

オスカー・ピーターソン/ライヴ・アット・ロンドン・ハウス

 オスカー・ピーターソンといえば、すぐに思い浮かぶのがピアノ・トリオの編成だ。彼とピアノ・トリオは切っても切れない関係といっていい。名演の大半はトリオによって残されているし、レコーディングではトリオ以外の編成も認められるが、ライヴ活動の大半はピアノ・トリオで行なわれてきた。中でも人気の高い『プリーズ・リクエスト』(ヴァーヴ)と並んで、この作品は多くのファンから愛されている。ライヴの場でピーターソンが示すスインギーな乗りとブルージーな表現はスタジオ録音以上に魅力だ。この作品は、それを最高のレベルで遺憾なく発揮してみせる。お馴染みとなったベースのレイ・ブラウンにドラムスのエド・シングペンとのプレイは、それだけに楽しいことこの上ない。加えて随所でスリリングな展開が認められることも、アルバムの高い人気に繋がった。

新栄で身障者と健常者のロックイベント-ライブの同時ネット配信も


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2007エンターテイメントサーカスの様子

 名古屋の芸能プロダクション「スタンドアップ」(名古屋市中村区)は112日、新栄のライブハウス「クラブダイアモンドホール」(中区新栄2TEL 052-265-2665)で、「障害の壁を超える音楽の可能性 ~競い、助け合い、響き合う~」をコンセプトにしたライブイベント「2008 エンターテイメントサーカス」を開催する。

 今年で3回目を迎える同イベントは、「健常者と視聴覚障害者との交流の場、地域の音楽文化の発展」を目的として開催されており、健常者と聴覚障害者が一緒にステージに立つライブイベント。来場者は500600人を見込む。
 会場内には大型スクリーンとプロジェクターを設置し、「どんな内容の楽曲が演奏されているのか」が一目でわかるように、演奏される全ての楽曲の歌詞をスクリーンに写すほか、ステージ上に「手話通訳」を配置し、聴覚障害の人も同じように楽しめる配慮も。イベントの売上金の一部は、聴覚障害団体・社会福祉団体に寄付するという。
 主な出演アーティストは、「耳が聞こえなくても瞳がある」という
思いから命名された、耳が不自由なメンバーで結成されたバンド「BRIGHT EYES(ブライトアイズ)」のほか名古屋で活躍する健常者で構成される5バンドも出演。ブライトアイズは、名古屋を中心に活動する同バンドは、結成20年のベテランバンド。結成時は練習時間もかかったが、次第にベースやドラムの振動からリズムを体得できるようになり、難しい曲にも挑戦できるようになったという。ステージ上では、健常者と聴覚障がい者が協力し合いながら、時には競い合いながらステージを盛り上げて行くという。
 主催の中尾さんはイベント開催の経緯について「万博が終わった後も、そこで派生した人とのつながりや気持ちを残していく活動が必要だと思ったことから始まっている」と話す。また「さまざまなメディアで取り上げられたりすることで、多くの人にイベントの存在が伝わり、人とのつながりが新たにできてきた。音楽の交流の場、発信の場としても理解してくれる人も増えて来た」と振り返る。
 今年は初めてウェブ上でライブの様子をオンタイムで配信していく。また、ライブチャットも行い、常駐の担当者が会場に来ることができない人に向けて、出演中の出演者やライブ会場、楽曲についてなどを随時伝えていく予定だという。
 開場=1530分~、開演=16時~。入場料は2,000円。

2008 エンターテインメントサーカス

スタンドアップ