日本UFO研究史  UFO問題の検証と究明、情報公開 ‥ 2 | inca rose*のブログ

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第3章 フランスやスペインではどのように展開したか


◆ フランスUFO研究の草分け的存在のエメ・ミシェル

1960年代に出版された光文社刊「空飛ぶ円盤シリーズ」は、我々日本人UFO愛好家にとって、空飛ぶ円盤というテーマに関して良くも悪くも啓発するものとなった最初のUFO本であった。

その中でも田辺貞之助(1905〜1984)というフランス文学者によって1956年に翻訳されたエメ・ミシェル著の『空飛ぶ円盤は実在する』は、当時まだ断片的にしか知られていなかった米国初期の事件と調査を詳しく紹介した。内容的には天文学者の観測例やアフリカ、ヨーロッパを含む目撃例を豊富に集めていた。

とりわけ、1952年10月に彼の自国フランスオロロンとガイヤックに現れた母機と見られる筒状物体と、それを取り巻く円盤機の組み合わせは詳細であり極めて興味深いものであった。

そしてエンゼルヘアという未知の物質を降下させた事例についても同様である。エンゼルヘア(天使の髪)とはUFOが飛来した後に地上に降る、細かい糸状の物質である。

次に日本で翻訳されたエメ・ミシェルの著作は、1958年の『UFOとその行動』(後藤忠訳、暁印書館)であった。これは1954年秋にフランスで発生した一大UFOウェーブ《同じ地域で一定期間にUFO目撃が多発することをUFOウェーブと呼ぶ)を取り上げたものである。

そこでは1952年10月に現れたのと同様の葉巻型物体の様々な様子と、そこから放出された小型円盤機の組み合わせが見られる。

多くの場合、葉巻型物体から出た小型円盤は、地上近くまで降下して、再び葉巻に戻ったり、葉巻の周囲を旋回したりする。これは母機と子機の組み合わせによる空中作業の観を呈する。

エメ・ミシェルは『UFOとその行動』の中で、フランスのUFO研究家ジャック・ヴァレ夫妻による火星の周期とUFOウェーブとの関係について紹介している。ジャック・ヴァレ夫妻は火星の周期とUFOウェーブは相関関係にあると主張した。

「火星と地球との距離が近くなる『衝』という時期にUFOの目撃が増加する」という法則性については、米ユタ州立大学のソールズベリー教授も「科学者とUFO」(米下院UFOシンポジウム』2003年、本の風景社刊に収載)でグラフを示して述べている。

UFO目撃ウェーブ曲線が火星の衝に連動するという指摘が妥当ならば、UFOが地球外起源であることの傍証となる。
しかし今や火星で活動する探査機から送られてくる「火星上空のUFO」や、火星の地下のパイプラインなどの人工物が話題となっている状況にある。

さて、フランスのUFO研究者の草分け的存在だったエメ・ミシェルだが、ドイツ生まれのUFO学識者イロブラント・フォン・ルトビガーは著書『ヨーロッパのUFO』(星雲社)で、「ミシェルは現地調査を行わず、不正確な可能性のある新聞の切り抜きを得ていただけである」とこき下ろしている。しかし、空飛ぶ円盤に目覚めたばかりだった日本人にとって、エメ・ミシェルの果たした功績は大きいといわざるを得ない。





◆ 「UFOと地球磁場の変化」を研究したクロード・ポエル

好事家や夢見る愛好家だけの嗜好の対象として「現代の神話」と揶揄されたこともあったUFO問題が、国家研究機関の取り組む分野として確立されたなら、その研究はどのような内容になるであろうか。

1960年代にCNES《国立宇宙センター)のロケット部門ディレクターであり、天体物理学の博士号を持っていたフランス宇宙研究の電子技師クロード・ポエル博士は1969年、国立経済統計研究所の責任者であった。

国立経済統計研究所はこの年、宇宙問題米仏計画(紫外線により恒星観測をする計画)の一環として、ロケット打ち上げによる紫外線天文学について調査した。このとき博士の調査要請に対応した米国の研究者が、UFO研究に取り組んでいたアレン・ハイネック博士であった。クロード・ポエルはハイネック博士の率いるUFO研究チームに加わると共に、UFO研究に着手した。

1969年以後、彼はCNESにおいてUFOを統計的に研究するため、UFO目撃のデータをコンピュータで解析した。それは、天文統計を基礎とする解析であった。
クロード・ポエルはUFO情報を分析する上で、天文統計のコード化の要領を参考にした。

まず、天文統計によりスペクトル(電磁波を波長に分解したもの)を解析し、電磁波とUFO出現に相関関係がないかを調べようとした。これはハイネック博士も述べている「分析のための統一用語」を定めようとした試みであった。

クロード・ポエルはUFOでない既知の現象を組織的に排除するために、航空機、気象観測気球、惑星、彗星などの基本データを通して目撃報告をふるいにかけた。こうして1947年から1970年までの世界から集めた3万5000件の報告を1000件に絞り込んだ。

その内訳は、(フランスから見た)外国780件、フランス国内250件。それらをコンピュータ処理した結果は、例えば
①目撃者数の分布は人口密度に比例する。
②目撃数は雲量の直接的影響を受ける。
③目撃数は情報手段(目撃者がUFO目撃を研究機関へ報告する手段)の密度に比例する。電話や手紙といった伝達手段が多い地域は目撃実数が多く、少ない地域は目撃実数が少ない。④UFOの60%は速く動き、45%は複雑な飛行パターンを示す。飛行中に突如停止し、閃光を放ちつつ再び動き出すケースが多い。

このような結果は「年間UFO目撃数」「月別UFO目撃数」「時間別UFO目撃数」「UFOと既知の現象との継続時間と目撃数の比較」「UFOと地球磁場の変化」と項目ごとにグラフ化されている。

なお、UFOと既知の現象との継続時間と目撃数の比較」とは、継続時間の短い流星や、やや長く見られる飛行機、気球といった既知の現象は、「目撃継続時間20分」を最小とする「U」の曲線で表される。

一方、UFOは「目撃継続時間20分」を最大とする円弧で表される。この両者の目撃継続時間の違いは、グラフによって一目瞭然である。それゆえUFOと既知の現象の「継続時間」を調べ、目撃数と比較すれば有用なデータが得られると考えられたわけである。

「UFOと地球磁場の変化」の項目では、1954年10月のUFOウェーブにおける一日当たりの目撃数と地磁気観測所で記録された地磁気の擾乱の相対偏角を示すグラフが掲載されており、両者の変動の相似形の波が見られる。

地磁気の擾乱の相対偏角について説明しておこう。方位磁石の針が指す北は、地理上の北とずれている。このずれた角度を偏角という。太陽面で爆発が起きると高エネルギー粒子が地球に到達し、地磁気擾乱が発生する。これを磁気嵐ともいう。こうした地磁気の乱れがUFOの出現によっても発生し、その変化の度合いを偏角で表すことを「地磁気の擾乱の相対偏角」と言っているわけである。

「UFOと地球磁場の変化」について調べた成果としては、1947年6月24日に米国カスケード山脈ポートランド山中で、UFO接近に伴って磁気的変動が起きたことが挙げられるであろう。このときには磁針が激しく左右に動く現象が起こった。この現象は「フレッド・ジョンソンの羅針盤」として知られる。

UFOの接近に伴う磁気的変動といえば、筆者も1970年8月、九州不知火海沿岸でUFOの滞空出現時に岩の上に置いた方位磁石が大きく何度も振れるのを、仲間と共に観察したことがある。

1977年、CNESの社長であったポエル博士は、UFO(フランス語ではUFOはOVN)研究専門機関としてGEPANを創設した。
この組織には光学機器の技術者ジャン・ジャック・ヴラスコ夫妻が参加した。

1978年、GEPANの代表はクロード・ポエルからエンジニアだったアラン・エステルに移り、1983年、エステルは後継者にヴラスコを任命した。

22年を経てヴラスコは任務を終了し、2007年、その成果を本にまとめた。この本は日本でも翻訳されて宝島社より『UFOは…飛んでいる!』として出ており、フランス政府のUFO研究を知る上で不可欠な資料となっている。






第3部 国内のUFO研究史  

◆ 1957年に発足した「宇宙友好協会」(略称「CBA」)

空飛ぶ円盤研究は手に入れた情報、あるいは出遭った事実に大きく左右されるようだ。航空界の情報収集者の立場から、すでに各国のUFO情報を多数入手し、英文情報誌を発行していたのが松村雄亮〈ゆうすけ〉(スイスの航空雑誌「インタラビア」の元日本通信員)だった。松村雄亮は国内の二つの研究団体にも寄稿し、世界のUFO情報を提供していた。

そして、宇宙人と会見したと主張したアダムスキーと文通をしていた久保田八郎(元高校教師)。さらに、「ワンダラー(宇宙人の魂を持って生まれた地球人という意味)」という考え方を提唱したウィリアムスンの研究に惹かれた小川定時(出版社勤務)。

彼らにとって、もはや円盤の存否を論じる時代ではなく、円盤を操る知的存在、宇宙人との交流を模索するべき時だとの認識が生じていた。

1957年8月、そのような認識のもと、東京都有楽町で「宇宙友好協会」略称「CBA」)が発足した。設立者メンバーは、久保田八郎、松村雄亮、小川定時、桑田力、橋本健、小川昌子の六名である。

そのいきさつを記した冊子『CBAの歩み』には、こう述べられている。

「空飛ぶ円盤の飛来によって新時代の到来に目覚めた六名は、当時すでにあった日本空飛ぶ円盤研究会や、近代宇宙旅行協会の研究態度〈宇宙人の実在を頭から否定し、目撃例の集計や地球人の想像的理論に終始し、アダムスキーその他のコンタクト・ストーリーをあり得ることとして研究する態度に欠けていた〉にあきたらず、むしろでき得れば宇宙人とも友好関係に入り、地球上に新時代を築こうとして集まる」

かねてからアダムスキーなどのコンタクト・ストーリーには批判的であった松村雄亮は、1957年に自宅上空に飛来した小型円盤を撮影した。その後、いくつかの目撃と観測会を経て、1959年7月に自分自身が「宇宙人との会見」「円盤に搭乗して宇宙船に赴く」体験をしたと主張した。

松村は、空飛ぶ円盤に搭乗して宇宙母船で開かれた宇宙人主催の国際会議に出席したという。それがCBAの運命を決定づけたことは、誰しもが認めるところであろう。

この出来事がかつては研究同志であった人々にも伝わり、さらに地方幹部が独自に発行した文書が、仲介者を経て新聞記事となった。そこで「大変動」という「宇宙人通告」が一大騒動に発展した。
その会議において、宇宙人側から以下の通告がなされた。

「 1. 地球の大変動が極めて近い将来に迫っている。そのため常時地球の観測を行なっているが、その正確な期日は宇宙人にもわからない。あなたはその準備のために選ばれたのである。
2. われわれとしては、将来の地球再建のために一人でも多くの人を他の遊星に避難させたい。
3. 決して混乱をまねかないよう慎重にやりなさい」

この「宇宙人通告」は、1959年8月22日のCBA総会で会員に向けて発表された。その総会にはCBAに入会したばかりのフランス文学者、平野威馬雄も出席していた。彼はその後CBA幹部と会談を持ち、詳しい知識を得ると共に、この重大情報を国民に公表すべきとの認識に至った。

1959年11月、福島のCBA幹部・徳永光男は独自に「宇宙人通告」を取り入れた文書「CBA特別情報」を謄写版印刷で発行した。B4判10頁に及ぶこの文書は平野威馬雄にも送られた。

平野はこれを産経新聞、雑誌『日本』、週刊誌『サンデー』に渡し、それぞれ記事となって大衆の知るところとなった。平野はこのあたりの経過の詳細を『それでも円盤は飛ぶ』(高文社)68〜69頁でも述べている。

しかし、平野威馬雄と徳永光男による一連の大変動情報では「CBAは1960年、1962年に大変動がくると言っている」としていた。これは松村雄亮が宇宙人から通告された「その正確な期日は宇宙人にもわからない」という事実と異なる内容であった。そのため、その年号を含めた大変動情報が独り歩きし、CBAによる社会不安的な騒動へと発展したのであった。

この一連の出来事は、科学的研究によって円盤の実在性を確証する路線の研究者から批判の対象となった。松村雄亮の体験は研究仲間から「妄想」とされ、地球の危機を訴える姿勢に対して、次のように批判された。

「古今東西の書物に目を通しておれば、こんな荒唐無稽な予言などザラにあり、一々本気にしていてはたまったものではない」「円盤の科学的研究を捻じ曲げるもの」と批判されたのであった。

しかしそうした批判をよそに、松村とCBAは、当時の研究団体にはなかった活版印刷を使って、機関誌『空飛ぶ円盤ニュース』の発行を続けた。同誌は1958年6月に創刊され、編集発行人は松村雄亮、事務所を東京・国分寺に置いていた。










『日本UFO研究史  UFO問題の検証と究明、情報公開』
著 . 天宮 清

から抜粋。