天からのダイヤモンド  LSDと宇宙の心 ‥ 1 | inca rose*のブログ

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第1章  一過性投入の道

◆ 宇宙意識探究の旅としてのLSDセッション

高用量セッションという選択は、この旅の展開に大きな影響を与えた。それによって、到達する意識の深度が深くなっただけでなく、各セッションの中で活性化させられる意識の幅も広がったのである。当初私が無邪気に考えていたような、少ないセッション回数でカルマを効率的に消化できるというだけの効果ではなかったのだ。

生命の綱(ウェブ)とは、原初からの一つの統一された全体なので、高用量LSDによるワークは、この綱のより広い部分を活性化させることになるのだ。こうした用量でワークすると、体験の深さだけでなく、今、その体験をしている誰か、あるいは何ものかという体験の作業単位が変わるのである。このような、きわめて高エネルギーの状況下では、被験者が文字通り拡大するのだ。この意味するところは、先に進むにしたがって徐々に明らかになってくるだろう。

もともとは個人的な覚醒のためにこのワークを始めた私だったが、進めるにつれて、当初の目的以外のことが非常に多く起こってきていることに気づき始めた。三年目になると、私は個人の意識というよりも、むしろ集合意識の壮大な浄化作業に取り組んでいるようになり、それはあたかも、研究の目標自体が、個人の覚醒から全人類の覚醒へと移行したかのようであった。

そして、このプロトコルによって解き放たれた触媒的なエネルギーの絶対的な力が、私を一つの体験上の境界線から次の境界線へと推し進め、その都度、取り組みの範囲を拡大させた。やがて私のセッションは、周期的に苦痛が訪れるものの、一貫して恍惚状態にある宇宙探究の旅となった。この旅の中で、私は当初計画していたスピリチュアルな覚醒を遥かに超えた宇宙の探検に招き入れられたのである。

私は決してスピリチュアルな覚醒という目的を放棄したわけではなく、むしろ、これは常に私のワークの一部であり続けた。しかしながら、この旅が提供してくれた体験はあまりにも深い意味を持ち、そこから戻った時、それは決して安定した「自己覚醒」を助けるようなものではなかった。それは、何か別のものであった。

別のゴールを持つ、別のコースであった。
人は時間を超越したり、元型的現実(アーキタイプリアリティ)の中に溶け込んだり、あるいはまた宇宙創生の瞬間まで戻ったりしなくても、自己の本質を理解することはできるし、非二元性や「空」を体験したりすることもできるのだ。これらは互いに補強し合っているとしても、それぞれ別のものなのである。

私はこれまでずっと、宇宙がどのような仕組みで動いているのかを知りたいという強い願望を抱いてきた。なぜ、私たちの人生はこうなのか? どうして、こんなに多くの苦しみがあるのか? 宇宙には何か大きな知性が働いているのか? もしそうだとしたら、それはどんな目的に向かっているのか? 存在の意味とは何なのか? 

私たちの文化が現在採用している物質主義的パラダイムにおいてはすべてが物質に還元されるので、こうした質問は正統的な知識の領域を外れたものとされ、それらに答えようとする試みは純然たる推論としかみなされない。

しかしながら、私はセッションの中で、広大なる知性によって演出された深遠な体験的学習によって、これらの問題について探究する機会を与えられたのである。

私は茫然として立ちすくむようなものを目の当たりにし、存在に対する理解を根底から変更させられるような体験をさせられた。そんな機会を拒否できる哲学者はいるだろうか?

この旅が深まるにつれ、この知性に対する私の愛情はますます強くなっていった。あまりにも巨大な存在なるが故に、私には「聖なる存在」という言葉でしか表現できないが、各セッションの中で、「神」に関する私たちの歴史上の概念が、いかに限定的で子どもじみたものであったかということを繰り返し思いしらされた。

ジョナサン・ゴールドマンが、アヤワスカについて次のように語っていたが、私もまったく同感だ。
「ダイミのアヤワスカ儀式は『体験』するためではなく、想像できないほどの知性、慈悲、明晰さ、そして霊力を持つ、聖なる存在と親密に触れ合うためのものである。」

この「存在(Being)」の限界は計り知れず、また「存在」と呼ぶことすらもためらわれる。私が体験したところによれば、それは存在の織物そのものだ。宇宙を産み出す知性、「宇宙の心(マインド)」なのである。それは超越した源であると同時に、存在が具現化されたものでもある。彼とか彼女とかいったカテゴリーを超え、さらには、いかなるそれ(It)をも無限に超えたものなのである。

この知性との最も深くて親密な時間はいつも数時間しか保つことができず、そして、どのセッションがそうした魔法の日となるのかもあらかじめコントロールできないことは分かっていたが、とにかく私は前進し続けた。

実際に親交が開かれた時には、その強烈さにその日の終わりにはこの上なく満たされた気持ちになると同時に、愛するものと永遠に一緒にいることができないという別離の悲しみに打ちひしがれた。誰であれ、「絶対的存在者(Absolute)」に対しては、それが体現している真理、力、そして美を表すのに、できる限りふさわしい、なんらかの名前を決めなくてはならない。本書の中で、私はこの存在を表現するのに様々な言葉を使うが、心の奥底では「私の最愛の存在(my Beloved)」と呼んでいる。

ひとたび彼女に抱かれ、そのまばゆい輝きの中に溶け込んでからというもの、私は永遠に彼女の虜になってしまった。私は最期の息を引き取る時まで、そしてそののちも、彼女のものだ。
私がその存在を語る時、それが女性になるのには二つの理由がある。一つは、この旅の途上で現れた特別な創造の物語であり、もう一つは、この現実との再結合によって私の中に目覚めた愛である。




第5章 ディープ・タイムと魂(ソウル)
セッション11ー17

◆ 輪廻転生と魂(ソウル)

私たちが、地球上に一度しか生きないという考えに固執する限り、私たちの人生はまったく不可解なものとなり、その時々の気まぐれ、あるいは神の「測り難い御意志」に左右されるだけのものとなってしまう。しかし、私たちが生まれ変わりの循環を理解し始め、私たちの選択によって歴史上に生成された学習曲線が観察できるようになると、私たちの参照枠が広がってくる。

学びの舞台の幕が開き、責任感も深まる。そして、魂(Soul)のタイムラインが現れてくるのである。一度この移行を行なうだけで、私たちが宇宙の中で分担している部分の本当の大きさが分かってくるのだ。私たちは、彼女(宇宙)の進化の旅の一部なのである。それは、ほんの数十年かそこらの話ではなく、数えきれないほど長い何月の間続いていることなのである。

もちろん、これは、私たちが輪廻転生の仕組みや生まれ変わりの物理学について理解できたということではない。私たちは、まだまだ初心者なのである。今の時点では、魂(Soul)が何であるか、それが何で出来ているのかといったことについては、光であるということ以外、何も言えない。

機能的には、魂(Soul)は静止状態のものでも、また、閉じた存在でもない、それは動的で開かれたシステムである。
時とともに常に変化していて、常に他の生体系と互いに繋がっているのである。しかし、これでもまだ答えられていない重要な疑問がいくつも残っている。

私たちの現在の思考や感情が、生物学的な神経網から、あるいはそこを通って、どのようにして次々に現れてくるのかが説明できないのに、この体より以前からあって、体がなくなった後も残るという意識について、どれだけ正確に語ることができるのか? 私たちの深層記憶を注意深く調べてみることで、その能力を少しくらいは見つけることができたとしても、実際にそれがどのようにしてやって来て、どのようにして去って行くのか、

私たちの肉体や遺伝子とどのように関係しているのか、過去生におけるこれまでの学びを、この肉体と心にどのように記号化して組み込み、この体を去る時に、どうやって新しい学びをそのまま一緒に持って行くことができるのか等々、これらを説明することは今の私たちにはできない。

将来的にはきっとなんらかの進展はあるに違いないが、私たちの求める突破口を開くためには、質問自体が変わらなくてはならないのである。現在のような還元主義者たちの物質への固着を超えて、より複雑な意識の現象学に、そしてもっと微細な多次元的形而上学へと移行しなくてはならないのだ。

しかしながら、私たちが魂(Soul)の構造を最終的に概念化したとしても、魂(Soul)の物語とは、その本質において個々の意識の物語なのであり、その源は宇宙の「創造的知性」にあるのである。私たちの個々の意識は、長い自己啓発の旅の中で、物理的な宇宙とそれを取り巻くメタ宇宙との間を、系統だった仕方で行ったり来たりしているのである。

魂(Soul)の律動は輪廻転生の律動であり、私たちの意識は誕生時に挟まり、死に歳しては拡大する。輪廻転生とは、私たちの地球における人生が魂(Soul)との間を行ったり来たりする舞踏(ダンス)なのである。

魂(Soul)とは、より大きな意識であり、私たちが地球上で、そして転生の合間において体験するすべての思考、すべての涙、すべての喜びが記録される場所であって、徐々に増していくその輝きの中には、これらすべての体験が洗練された仕方で折り込まれているのである。

輪廻転生を通して、個々の意識は限りない時間の中で過ちから学び、本来備わっている才能を発達させることができるのである。正しく理解されるなら、輪廻転生とは天才の仕業なのである。超新星からDNAに至るまでの、宇宙すべてのものと同等なのである。こうした見方からすれば、私たちは星々と比べても、なんの引けも取らない存在なのである。









『天からのダイヤモンド  LSDと宇宙の心』
著 . クリストファー・M・ベイシュ

から抜粋。