幸せって何?〈新・気づく力〉‥ 2 | inca rose*のブログ

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◆誤った言動が不幸を呼び込む

「この世で起きることはすべてカルマによります」

と言われても、正直、納得できないこともあるかと思います。これまでも事あるごとにカルマについてはお話ししてきましたが、理屈としては理解できるけれど、実感として、事実として受け入れるのは正直難しいことだと思います。ただ、“カルマ”というものがあるという知識はあるため、自分のカルマはどういったものなのか知りたい、とおっしゃる方が多くいらっしゃいます。私のところにも、「自分のカルマを教えてください」という相談がたくさんありますが、実は、カルマは自分でも分かるのです。

驚かれたでしょうか。特別な能力がなくとも、自分のカルマを感じることはできるのです。これから、そのことについて説明していきたいと思います。

カルマというのは、言い換えれば原因と結果の法則の過程で行う自らの行為のことです。すべての物事には原因があって結果があり、それは自らの行動によって引き起こされます。そして、カルマのややこしいところは、私たちには過去のどの時点の行為が現在の原因となったのかが、多くの場合分からないところです。

また、カルマを簡単に解消できないことには理由があります。それは、高い壁を与えなければ、人間は上辺だけを取り繕い、“根本”から直すことがなかなかできないからです。

あるAという不幸が身に生じたとします。カルマの観点で考えたとき、そうなった理由が必ず過去にあります。しかし、その原因になった行為は1週間前のものなのか、1年前のものなのか、10年前のものなのか、はたまた過去世で解消できなかった悪いカルマなのか。
人間は時間の経過とともに記憶は薄れていきますし、自分の言動ひとつひとつを記憶することもできませんから、結果が生じたときにはすでにその原因が分からないのです。

これだけ聞くと、「結局、特別な能力がある人じゃないとカルマなんて分からないじゃないか」と思うかもしれません。
たしかに、過去のどの時点の言動が原因だったのか、ということを明らかにすることは難しいと思います。ただし、現世に生きる私たちにもちゃんとできることがあるのです。なぜなら、“悪いカルマの解消”というこの世に生まれてきた目的があるからです。目的がある以上、達成する方法や道のりというものがあります。その方法とは、「不幸の根底を見極め、不幸を作り出す原因となる行為をなくすること」です。

では、不幸を引き起こしてしまう行為とはなんなのでしょうか。自分の身の回りに起こることは、自分が関わっているからこそ起きます。たとえば、ものすごく運命的な出会いであったとしても、自分がその場所にいなければ出会うことはありません。また、自分には何も責任がない追突事故に遭ったとしても、車を運転していなければ、運転免許を持っていなければそこで事故に遭うことはありません。つまり、この世はすべて自己責任(自らが作り出したカルマ)の世界であり、自分の言動の責任は自分でとらなければいけないということです。

時計は歯車で動いていますが、歯車をカルマと表現すれば分かりやすいかと思います。歯車には大小さまざまなものがあり、それらは複雑に関係し合い、あるときは歯車がくっつき、あるときは離れます。そのように人との交流もカルマによって出会ったり、離れたりしています。そして、時計が動かなくなったとき(不幸に出会ったとき)、歯車を修理するのは自分なのです。

ですから、不幸になったのは誰のせいでもなく、過去の自分の責任なのです。そして、結果として不幸が生じたことはもうどうしようもありませんから、そこで落ち込んで、いつまでも止まっていてはいけないのです。なぜなら、そうしているうちに負の連鎖が始まってしまい、抜け出すことが難しくなってしまうからです(逆に、善いカルマによる幸福の連鎖もあります)。

では、不幸の原因を作っているのは自分の言動ということは分かりましたが、その言動の元になっているものは一体なんなのでしょうか。
それは、自分の性格の欠点なのです。我が強いと自己主張ばかりして人の意見を聞かず、謙虚になれない。プライドが高いと人を見下し、自分は常に正しいと勘違いしてしまう。

二面性があると外はいい顔をして内では恐ろしい顔をしている…etc。すべての言動は、自分の性格からきているのです。
その性格はどのように構成されているかというと、まず、過去世から背負ってきた性格があります。これは、過去世に自分が行った行為によって背負っているカルマによります。このカルマによって宿る親が決まります。

次に、幼児教育段階で形成された性格です。これは、親と子が共同で持つカルマによります。
最後に、自分が体験したことによって形成されていく性格があり、これは前述のふたつの性格と比べると比較的直しやすい部分で、自分が直すか直さないかによって、全く違う人生を歩むことになります。個人の性格というのは、これら3つの性格が混ざり合っているのです。

分析するとこのようになるのですが、ただ、実際にはどの部分の性格が過去世から背負ってきたもので、どの部分が現世でということは人の数だけ違いがありますから、厳密に把握することは難しいでしょう。しかし、それは問題ではなく“不幸になってしまった”という結果を注視するのです。過去世から背負ってきた性格であろうが、現世で形成された性格であろうが、自分自身のことなので直そうと思えば性格は変えられます。自分自身の性格の欠点が不幸の原因を作っているのですから、改善していくことによって幸福になれるのです。

くり返しになりますが、不幸になってしまった原因は自分の性格の欠点にあるんだと気づくこと。人のせいではなく、自己責任なんだと気づかなければいけません。因縁だからと諦めてしまうのは、大切なご先祖様に罪をなすりつけてしまうことになります。

ただし、現実問題、過去の原因を明らかにし、ひとつひとつすべての問題を解決していくということは難しいかもしれません。しかし、先に述べたようにひとつひとつの言動は自分の性格から生まれるものなので、よくない言動を生む根本原因である性格の欠点を直すことができれば、過去を変えることはできなくても、未来を変えることはできるのです。

“結果”と“自分の性格”を素直に把握することができれば、カルマを知ることができます。カルマを知るとは、自分の性格の欠点を知ることでもあるのです。



◆苦しみには知識で立ち向かう

人生は修業の場ー。これまで何度となく、お伝えしてきた言葉です。私は透視能力者としてこの世を生き、仕事を続けていますが、特殊な能力を持っているというだけで、なんの苦労もなく人生を過ごしてきたかのように誤解されることもしばしばあります。神は人を救うために私を使っただけで、私の利益のためにこの能力を授けたわけではありません。

私もひとりの人間、神ではありません。これまでの人生で死んでしまおうと思ったこともありましたし、この数十年、仕事は頑張ってきましたが、何度も辞めようと思ったこともあります。

私たち人間は完璧ではないからこそ、この世に存在し、過去世から背負ってきたカルマの通りに人生を送っています。つまり、何度も何度も目の前に壁が現れる、その連続が人生なのです。

さらに言えば、人生というのは一瞬一瞬が選択の連続ですから、その選択を間違ってしまえば(物の考え方が間違っていれば)、やがて未来において悪い結果が起こってしまいます。まさに、人生は修業の場だと言えます。しかも、誰かから与えられる試練ではなく、自己責任による試練なのです。自らの選択、考え方によって未来は決まるので、未来の良し悪しというものは今の自分の選択によるのです。

そして、その一瞬一瞬の選択を間違わないためには、知識を得ることです。世の中のことを知っていれば知っているだけ、正しい判断力で正しい選択をできるようになります。
拙著やテレビでも何度も「知識を得なさい」とお伝えしてきましたから、「もう分かったよ!」と思ってしまう方もいるかもしれません。でも、「気づき」ということに関しても、私は20年以上ずっと言い続けてきて、やっとどうにかその意味が理解されるようになりました。

知識が大切なのはお分かりいただけているかと思いますが、なぜ大切なのか、知識がどのように気づきに作用するのかというところまで理解することが大切だと思います。だからこそ、こうして何度も何度も知識のことをお話ししています。

人生の苦しみに立ち向かうには知識が必要になります。知識を持って苦難に立ち向かい、自分の愚かさに気づき、直す。これを続けていくことは非常に大変なことですが、だからこそ修業であり、そこから得るものは輝かしい人生を自分の周りの人達と生きていくために欠かせないものです。苦難に立ち向かうことで幸せを手にすることができるのですから、苦しみは幸せになるチャンスだといえます。魂を成長させるチャンス、カルマを消し去るチャンスなのです。つまり、苦しみというのはその先に幸せが待っているというサインなのです。

もちろん、人間は強い生き物ではありませんから、常に苦しみに打ち勝つということは難しいと思います。時には打ちひしがれてしまうこともあるでしょう。しかし、それでも前向きにいけるかどうか。ここが肝心なのです。苦しみがあれば幸せもある。些細な幸せにも気づくことができるか、自分は不幸な人間だと諦めてしまうか、この考え方の違いは人生において大きな格差を生んでしまいます。

明るく前向きな人でも、必ず悩みはありますし苦しみはあります。それでも、明るく生きていこうと思っているからこそ、周りから見ると幸せに見えるのです。つまり、幸せになるだけの考え方、努力をしているということなのです。
この世は因果の法則で成り立っています。つまり、何もせずに幸せになることは難しいのです。幸せになったのは、それまで自分がしてきた行いが善だったからなのです。過去から今までの行いが実を結んだということです。

一見、厳しいように聞こえますが、善をすれば幸せになる。悪をすれば不幸になる。ただ、それだけのことです。しかし、人間は未熟だからこそ、時には悪行をしてしまい、それが未来において不幸として返ってくるのです。

また、人間はひとりだけで生きていくわけではなく、人と人との複雑なつながりの中で生きていきますから、善をしていても、時には不幸がやってきてしまうこともあるでしょう。しかし、それは極々当たり前のことですから、悩んでいても仕方がなく、その事実をまずは受け止めたうえで、善をすれば幸せになる、という信念のもとに日々の努力をしていくのです。

人を恨むのではなく、不幸を恨むのではなく、自らを反省する姿勢を持ち続け、努力すれば魂を成長させることができます。やがてお役目を終え、あの世へ帰るそのときまで、この生き方を貫いていただきたいと願っています。














『新・気づく力』
著 . 木村 藤子

から抜粋。