あなたが、ここに生まれてきた理由 ‥ 2 | inca rose*のブログ

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◆過去世でやり残した「宿題」

これまで、いく度となく、幅広い知識・常識を得ることが大事だと述べてきました。
しかしながら、まだその意味をよく把握されていない方もいらっしゃるかもしれません。

なぜ、知識・常識がそれほど大事なのか?
それは、知識・常識があれば、正しい理解力や判断力を養うことができ、それゆえ、自分の至らなさに気づいて直すことができる、どうすれば欠点を直せるか、それが自分でわかるようになるからです。

いいかえれば、知識・常識に欠けていると、今の自分の考えが正しいと思い込んだまま、それだけ自分の欠点、短所に気づきにくくなって、また同じ過ちをくり返すことになる。
その結果、再び生まれ変わって、そのやり残した“宿題”を、また一からやり遂げないといけなくなる、ということです。

私はこれまで三十年にわたって、さまざまな問題を抱えた方々の相談に応じる中で、この輪廻転生というカルマの法則が、この世に生きている私たちの身に、例外なく起きている事実を目の当たりにしてきました。

神が、あまたの転生をくり返している人々の人生を通して、その問題の根本にある、過去から現在に至るカルマの原点を見せてくださったからです。

その原点に何があったのか?
具体的な事例はさまざまであっても、ようは、「自分は悪くない」「間違っていない」「悪いのは相手」「親が悪かったから」「社会が悪いから」等々、自己中心的なものの見方、考え方が染みついていて、それが隠れ蓑のように、自分の欠点、不足を覆いかくしてしまっているのです。

そこで、知識・常識を得ることによって、幅広い見方、考え方ができるようになることから、そのような隠れ蓑がはがされて、自分の愚かさや至らなさが明るみに出るのです。

たとえば、暗い部屋の中では、部屋の隅にあるゴミや汚れに気づくことはできません。部屋の中に灯りをともすことによって、その汚れに気づきやすくなるようなものです。
そこで、ゴミや汚れに気づいたら、きれいに掃除をしようとするでしょう。
ところが、心の汚れを取るということは、自分自身の見栄やプライド、傲慢さや慢心を剥がすことでもあるので、できるだけ見たくないし、触れたくない。だから、我が強い人ほど必死で抵抗をしようとします。

しかし、そこでその汚れを認めて、素直に、正直になりさえすれば、たとえいくつになっても、自分の欠点や過ちに気づいて、直すことはできるはずです。
なぜなら、人は、そのために生まれ変わってきているからです。
裏返せば、人生の目的は、自分の至らなさを改めて、心を成長させていくこと。

心の中に、一点の汚れ、曇りのない人など、この世にはいません。誰もが多かれ少なかれ、汚れがある、罪を背負っているのです。
この本では、心の汚れを取らないとどうなるか、それを取ったらどうなるか、という事例をいくつかあげています。

ようは、心の汚れを少しでもきれいにするために、私たちは輪廻転生をくり返しているのです。苦しみは、そのカルマを浮き彫りにするための試練です。その試練を越えていくことがある意味人生の目的でもあり、超えることによって苦しみからも解放されるのです。

ですから、特に、親が知識・常識不足で、正しい理解力や判断力が養われていなければ、本人だけでなく、子供にもその影響が及んで、苦しませることになります。
子供のために… と思い、子供を愛しているつもりで、実際には、気づかずに、子供のためにならないことをやってしまっている親が何と多いことか…。

そんな自分の愚かさ、過ち、不足に気づくために、知識・常識が必要なのです。どんな人でも、学歴、職種、社会的な立場などに一切関係なく、知識・常識を得て、理解力や判断力を養っていけば、しっかりとした心のモノサシが身について、自分で気づいて直すことができるようになります。
そのように、スピリット(心・魂)に磨きをかければかけるほど、悪しきカルマの影響は遠のいていくのです。



◆自分が遭遇した出来事はカルマとは無縁ではない

突発的な事故、痛ましい事件、自然災害等々、それがたとえどんな出来事であったとしても、現世で自分が遭遇したことは自分のカルマと決して無縁ではありません。
私がよく知っているある男性が、親御さんに連れられて相談に来たときのことです。

神が見せてくれたのは、前世のカルマによって、「彼が二十歳になったとき、大きな事故にあう」との光景でした。
当時、彼は十七歳で、私もよく知る間柄だったこともあって、少なからずショックでしたが、そのことを正直に親御さんに伝え、「くれぐれも事故に十分気をつけてください」といいました。

それから、三年が経過して、彼が二十歳になった頃、親御さんから連絡がありました。
その彼(息子さん)がバイクで通行中、急に左折してきた車に追突されて、事故にあってしまったというのです。不幸中の幸いで、九死に一生を得たものの、彼は複雑骨折で長期間入院することに…。

カルマの法則から見たら、その事故は起こるべくして起きてしまったということです。
たとえば、極端な場合、わが子が自殺してしまった場合でも、親にとってはとてもつらく、胸を引き裂かれるような体験でしょう。
しかし、それもまたカルマによる縁であり、そこで残りの人生をただ悲しみに打ちひしがれたまま過ごすのではなく、親自身が何に気づいて、直していけるか、が大事なのです。

仮に、殺人事件の場合でも、殺した人と殺された人にもカルマゆえの縁があり、その痛ましい事件を通して、何に気づいて、どのように心の成長につなげられるか。
その気づきの如何が、また悪縁をくり返すのか、それともここで悪縁を断ち切って、良縁に変えていけるのか、という来世の方向を決定づけることになります。

ようは、その苦しみの中で、自分は何に気づかなくてはいけないか、何を学ぶべきかが重要であって、ただ感情的にふり回されることなく、心を磨くための機会にできれば、それが双方にとってスピリットを成長させることになるのです。

また、特にお世話になったり、好かれたいという理由もないのに、なぜか「この人の役に立ちたい!」という心理が働く場合なども、過去世においてその人に何らかの借りがある場合があることがあります。

そのような場合は、役に立つことで借りを返したいだけなので、お礼を求めたり、特別に扱われたいわけではなく、借りが返せたら、自然に縁も遠のいていくことになります。

関係が一定期間続く場合でも、やがてその関わりは消滅し、関係が離れるのですが、そこでお互いを大切にしあい、良好な関係を継続するためには、新たな出発を意味する「心の知識」をしっかりと理解し、行動しないと、“大切な福”を失うことにもなりかねません。なぜなら、カルマの貸し借りが終わると、相手側が元の“愚かな部分”を直していない場合、さらに見えない罪が表面に浮き出ることもあるからです。



◆「罪を隠してみても、いずれは返る、我が身の元へ」


一時の我が身が身を守り
罪を隠してみても     
いずれは返る
我が身の元へ


この世の誰もが輪廻転生をくり返している限り、人生というものは、前世(過去世)から現世、そして、来世における生をもすべて含んで、自らの罪を贖う旅。である以上、罪を隠すのは愚かなこと、というのがこの詩の意味です。

つい嘘をついてその場を取り繕ってみたり、我欲にまかせて罪(欠点や短所)を隠してみても、決していつまでも本心を隠し通すことはできません。
まして、悪いことや罪なことは、良心ともいえる魂の奥底と神の世界に克明に刻まれていきます。

現世におけるその魂の記憶が、死後、神の世界で秤にかけられて、やがて来世のカルマ、運命が決定づけられる。これがスピリットの道のりです。この世に生を受けている限り、どんな人であっても、前世から引き継いでいるカルマ、心の課題があり、それに気づいて直すために、この世に生まれ変わってきている。

それが、「あなたがここに生まれた理由」です。
であるならば、素直に、正直に自分の罪穢れを認め、直していくことの方が幸せの近道だと思いませんか?

神との交流の中で、拝殿で仕事をさせていただいていると、そのときだけの我が身の欲得しか考えなかったり、他人を見下し、他人のせいにしてきた結果、結局は失敗したり、孤立したり、不幸に陥ってしまった人たちの姿をたくさん見てきました。

まさに、今の言葉で言う「自己責任」です。よりきつい言い方をするならば、自業自得、善因善果、悪因悪果です。スピリットの世界から見たら、どんな人であっても、自分の両親や生まれ落ちた環境、運命を招いたのは、自己責任。
人生は、まさにそこからの出発、再スタートです。

困難なことがあっても他人のせいにしたり、くじけることなく、自らの責任をしっかりと果たすことができれば、スピリットが成長し、一歩でも神仏の世界に近づくことができるのです。
だからこそ、現世の道のりを歩むうえで、決して忘れてはいけない、最も大事なことは、

己の罪、欠点、不足、短所を認める、素直さ。
それに気づいたら、直そうとする、正直さ。
それが、現世で気づくチャンスをつかんで、やり直しの人生を、今度こそ失敗に終わらせないことにつながるのです。

素直さ・正直さは、本当は人として誰もが持っているはずです。
それが、人生の道のりを明るく照らし出してくれる光となり、知識・常識が、人生の試練を乗り越えていく、確かな杖となってくれるのです。















『あなたが、ここに生まれてきた理由』
著 . 木村 藤子

から抜粋。