人生が変わる因果の法則 ‥ 2 | inca rose*のブログ

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◆不幸とは幸せに気づけないこと

「あなたは自分の思い通りに人生を生きていますか?」
そう尋ねられたら、みなさんはどう答えるでしょうか。おそらく、多くの人は「思い通りには生きていない」と答えるのではないでしょうか。その理由は、「やりたいことをやってこなかった」とか、逆に「やりたくないことをやっている」というものだと思います。では、もしあなたが人生を思い通りに生きられることができたとしたら、幸福と感じるでしょうか?

人間というのは勝手なもので、何かひとつの願望が叶ったとたん、それまで盛り上がっていた気持ちは下降線をたどり始めます。願望が叶った瞬間が最高潮で、あとは日に日に冷静になっていき不足を探すようになり、また違う願望を持つのです。
たとえば独身のとき、早く結婚して子どもを産んで専業主婦になって、幸せな家庭を築きたい、と願っていたとします。「この願いが叶えば私は幸せになれる」と。

しかし、いざその願い通りになって日常になると、今度は「夫が家事を手伝ってくれない」「子育てが大変」「仕事に出たい」などなど、目の前の自分が願った幸福を見ずに、不満ばかりに目を向け始めてしまうのです。
これでは、いくら願いを叶えてもキリがありません。何かを手にすれば、また次の何かを求めてしまう。この循環を続けている限り、持続する幸福を感じるのは難しいのでしょう。

幸福というものには、決まった形はありません。不幸もそうです。「この状況だったらあなたは幸福です」、あるいは「不幸です」という定義はなく、目の前の出来事や今、自分が置かれている状況を、“どのように感じるか?”というのが、幸福と不幸を分けているのです。

「自分がどう感じるか?」によって物事は幸福にも不幸にもなるわけですから、言い換えれば幸不幸も自分のさじ加減ひとつだということがわかります。
「不幸に対処するのには前向きな思考を持つとよい」と語られることがよくありますが、それはこうした事実からなのです。多くの人が不幸と考える事柄でも、前向きに対処することによってその試練すらも将来の幸福のための苦労、人生の糧、と考えることができるのです。

また、そもそも不幸というのは自分が作り上げている幻想ですから、くよくよ考えても不幸を助長しさせるだけで何も生み出さないわけです。なぜなら、こういうときに何を考えているかというと、まるで映画のようなことを考えてしまっているからです。
どういうことかというと、「自分が不幸だと思っているこの状況を一瞬で打破する、しかも楽な方法はないか?」と考えてしまっているのです。

映画だったら脚本は自由なのでどんなウルトラCでも出すことができますが、私たちが生きる現実の世界は因果の法則で働いていますから、結果を見て不幸だと思うのならば、そこまでの“過程”、そして“原因”を考えない限り、解決方法は見えてきません。

しかも、「そんな魔法のような方法はない」と本当は自分ではわかっているのに、次から次へと「魔法はないかな?」という間違った考えばかりが浮かんできては、「いやいやそんな魔法はない」と自分で否定する。浮かんできては、また自分で否定する。自分であり得ないとわかっていても魔法を探してしまい、「そんなわけないよね」と自分で否定するということを考えていると、「なんでこんな無駄なことばかり私は考えてしまうんだ…」と、また違う不幸が生まれてきてしまうのです。不幸の連鎖とは、ネガティブ思考の連鎖とも言えるのです。

このように、“不幸は自分の思考が作り出しているもの”なのですから、考え始めたらキリがありません。「不幸を自分で作り出しているなんて、そんなわけがない。なりたくて不幸になっているわけではない」と思うかもしれませんが、少し考えていただきたいのです。

「Aであれば幸福である」「Bであれば不幸である」という形がない以上、幸不幸の判断をするのは自分しかいないのです。誰かに「不幸だね」と言われたとしても、自分でそう思っていなければ不幸ではありません。逆に回りから「幸せそうですね」と言われても、自分がそう思っていなければ幸福ではありません。

また、「こうなれたら幸せになれるはず」とか、「こうなったら不幸だろうな」と普段から考えていると思うのですが、そうしたことを考えているのは強すぎる“自我”であることが多いので、間違った幸福、間違った不幸を考えている場合があるのです。これが、思っていた幸福を実現したのに不幸を探してしまうようになる原因です。

幸福と不幸の解釈を間違えている限り、真の幸福の素晴らしさにも、真の不幸の恐ろしさにも気づくことができません。真の幸福に気づくことで、正しい努力をすることができます。真の不幸に気づくことで、そうならないための正しい対処ができます。
真の幸、不幸に気づくことで正しい言動ができるようになるのですが、これは自分のカルマをコントロールする(よい結果を生む行動ができるようになる)ということにつながるので、“人生を幸福に生きる方法”ともいえるのではないかと思います。

第三章でも少しお話ししましたが、私たち人間は蜘蛛の巣の糸と糸が交わる交差点のようなものです。交差点というのは“ひとつ”では存在することができません。隣の交差点(相手)があるから糸はつながっていて、相手がいるから私もいて、私がいるから相手もいるのです。
自分に3本の糸がつながっているとしましょう。そのうちの1本が切れてしまっても、あと2本ありますから大丈夫です。しかし、あと1本切れてしまえば宙ぶらりんの状態になってしまいます。その最後の1本が、自分の重み(自我)で切れてしまったらどうなってしまうのでしょうか。

そう、つながりがなくなってしまえば交差点として存在することができないのです。
それくらい人間関係というのは私たちの実在に大きく関わるものです。私たちはひとりでは何もできず、人と一緒でなければ存在することもできないのです。このつながりをなくしてしまうことこそ、真の不幸といえるのです。

周りと比べて相対的に自分が劣っているから不幸、と感じる不幸は、自分が作り出している不幸です。相対的に比べなければ不満も出ないのに、自ら勝手に周りと比べ、自分の不足を自分で「不幸」だと認定しているだけなのです。

みなさんはいかがでしょうか? すでにたくさんのつながりをそれぞれの方が持っているはずです。つまり、今の自分は絶対に不幸ではないし、つながりがあるということは、すでに幸福は手の中にあるのです。
この事実にさえ気づけば、あとは自分がつながりがある人とよい関係性を築いていくだけです。旅行をしたり、自宅に招いておしゃべりをしたり、泣き合ったり、笑い合ったり。そうした人と人が時間を共有するという幸福を、思う存分味わえばよいのです。

願望を実現するというのは快楽を伴いますから「幸福だな」と感じます。しかし、それは達成感と似た感覚であって、人間が本当に求めている「幸福」とは似て非なるものです。
もちろん、何かを達成するというのは素晴らしい経験です。しかし、それによって得られるものは真の幸福とは似て非なるものなんだと、分けて考える必要があるのです。そうすれば、次から次へと幸福を求め続ける幸福難民になることはありません。
すでに幸福は自分の心の中にも存在しているということを考えてみてはいかがでしょうか。



◆人生は綱渡りではない

ここまで、因果の法則に従って、感情のこと、子育てのこと、人間関係のこと、そして“自分自身”のことについてお話ししてまいりました。
因果の法則と言われると難しく考えてしまうかもしれませんが、なんのことはない、「なるべくしてなる」ということで、法則なのでそこに一切の人間的感情は挟まれないのです。

三角形の面積を求めるとき、「(底辺)×(高さ)÷2」という公式がありますが、いくら「この公式は嫌い」と言ったところで、この公式で三角形の面積が求められる事実は変わらないのです。
もちろん、私たちの人生は数学の公式のように単純明快に表現できるものではありません。皆が皆、因果の法則に従って正しい行いをすればこの世界の問題は万事解決ですが、そのようなことは人間の時間軸の中では起こりません。

因果の法則は、そういう法則がただあるだけであって、法則を意識して生きるかどうかというのは個人の判断に完全に委ねられます。
どんなに因果の法則を自分では意識していても、人間関係の中では法則に従っていない人とも当然のように出会い関係性を築いていきますし、当然のように自分も判断を誤る場合がいくらでもあるわけです。

そのように、自分も含めたさまざまな人間が持つ、いくつもの原因が複雑に影響をし合いながら事実を生み出し、地層のように淡々と事実だけを積み重ねていくので、自分ではまったく予想だにしていなかった現実が起こることがあるのは当然のことなのです。
しかし、だからといって「気をつけても悪い結果が起きてしまうのなら、意味がないじゃないか」と考え、好き放題に生きるのは、自分で綱渡りの人生にしてしまうようなものです。

因果の法則はおもしろいもので、同じような考えを持った人をどんどん集めるという効果もあります。無策に生きていれば、無策に生きている人と一緒にいるようになるのが人間というもの。人は人を呼びますから、必然的に同じ考えを持つ人たちがどんどん集まってくるわけです。

人間関係は人生で最も大切なものですが、本章でも説明したように、正しい人とつき合っていかなければ負の連鎖が起こり、止められなくなるのです。
私たちは完璧ではないからこそ、改善を試み続けます。そうすることで、道なき道が、太い一本の道になっていくのです。

そのように安全な道を作っていく方法があるのに、その方法を知らないために、もしくは受け入れられないためにそうしないのは、とてももったいないことです。手っとり早いからとロープをかけて渡ろうとするといったようなことを続けていれば、いつか取り返しのつかないことになってしまいます。

ひとつお話をご紹介します。
ある女性(40代)は夫を亡くしたことが原因で何もかもやる気をなくし、10歳になる長女と5歳になる息子がいたのですが、彼らの世話もろくにできなくなってしまいました。彼女は子どもを連れて実家に帰り、両親にサポートを受けながら、立ち直るように努めます。

しかし、彼女は夫を失った悲しさから逃げるために、子どものことは両親に任せっきりで、自分は毎晩のように友人と出歩くようになりました。夫を亡くした悲しさのあまり、やがてその感情は「何をやっても意味がない」といった怒りに変わってしまい、投げやりになってしまったのです。
人は投げやりになってしまうと、どんどん自分を傷つけてしまいます。彼女の行為は、自ら自分を傷つけようとする行為です。怒りから生まれる行為には、癒しは一切ないのです。


幸い、ご両親がいたことで子どもたちは立派に育つことができていますが、彼女と子どもたちの関係性はギクシャクしたままです。ご両親も、いつまでも生きているわけではありません。このままでは、まるで綱渡りのような人生を過ごすことになってしまいます。しかも、人はひとりで生きているわけではありませんから、自分が綱渡りのような人生を歩んでいると、関係する人にも影響を及ぼしてしまうのです。彼女の場合、最も影響を受けるのは子どもたちです。

そうした状況で、彼女がするべきことは明らかです。自分のこと、両親のこと、そして子どもたちのこと、亡くなった夫のことを思えばこそ、夫が逝ってしまった事実は事実として受け入れて、彼が残してくれたふたりの子どもたちとどういう人生を歩んでいくのか、そしていつもサポートをしてくれる両親に何をお返しするべきなのか、それを考え、行動に移さなければいけないのです。悲しみを持つのは人間として当然のこと。しかし、その悲しみを怒りに変えてしまうのはわがままな行為で、誰も得をしないことなのです。

これまで数え切れない数の人が悲しみを乗り越えてきているのですから、「自分はできない」と思ってしまうのは、自我が思い込ませている幻想です。幻想とは意識を変えれば覚めていくものなのです。

因果の法則はこの世界の根底をなす法則ですが、それは恐れおののき、ただ身をまかせるしかないことではなく、人生をよりよく生きていくための知識なのです。

私たちひとりひとりの魂は、さまざまな知識を取り入れながら、この肉体という物体を使って因果の法則の上で生きています。法則を使うも自由、使わないも自由です。魂は正しい心も持っていれば、正しくない心も同時に持っています。ですから、当然のように私たちは間違いを起こすわけです。

間違いをなるべく起こさないためには、魂が持つ間違いを見つけ、直す必要があるのですが、そのためにはなるべく自我をコントロールしなければ正しく判断することができません。しかし、これが難しいのです。
他人のことは「あの人はプライドが高い」と冷静に分析できるのに、いざ自分のこととなると「いやいや、私がプライドが高いだなんて、そんなことはない」とどうしても思ってしまうのです。














『人生が変わる因果の法則』
著 . 木村 藤子

から抜粋。