エソテリック・プラクティス〈ダスカロス〉‥1 | inca rose*のブログ

inca rose*のブログ

ブログの説明を入力します。

◆エクササイズと瞑想について

◎あなたは、観察、集中、瞑想がどんなに重要か強調されていますが、これらの用語の意味を解説していただけますか?


いずれも真理の探究者が自制心を培い、自ら直面する状況を完璧にコントロールできるようになるために、発達させなくてはならない能力です。
観察とは聖なる本質の一部です。物質界、あるいは*サイキカル界、*ノエティカル界の各層において、私たちはいかなるものにも注意をそらすべきではありません。

集中とは、私たちの注意を対象物、感情、思考あるいはイデアに完全に向けることです。集中する対象の大きさは問題にはなりません。新約聖書、ルカによる福音書16章10節でジョシュアが「小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きい事にも不忠実である」と話したことを忘れないように。私たちは真理の探究にあたって、どんなことにも気を散らすことがないほど、集中力を発達させる必要があるのです。
瞑想は、観察と集中の要素を含みます。つまり、ひとつのテーマに関して完全なる集中力をもって塾考し、その細部にわたって観察することが求められるのです。


◎「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(新約・マタイ21-22)といっても、何を望むのか、私たちは充分注意する必要があるわけですね。それでは次に、私たちはどのあたりから瞑想を始めるべきでしょうか?


瞑想は様々なレベルで実践されるものであって、一気に進められるものではありません。各段階をマスターしながら、一歩一歩ゆっくり進んで行かなくてはならないのです。
まず最初は、現在のパーソナリティーの浄化に関わる、ミクロコスモス(小宇宙)の領域について話しましょう。現在のパーソナリティーを浄化することは、私たちにとって絶え間ない学びそのものといえます。
マスターと呼ばれる人ですら、自らのエゴイズムに対して、常に休むことなく監視を続けているのです。真理の探究を通じて、誰もがエレメンタルの本質を理解できるようになっていくでしょう。この時覚えておいてほしいのは、自分が創造し、吸収し、再びエネルギーを与えているすべてのエレメンタルの総合計が、自分の「現在のパーソナリティー」を構成している、という事実です。


◎エレメンタルは(波動のレベルによって良いもの悪いもの、またその量によって強弱もあり)、質と数量で分類されます。私たち人間のパーソナリティーも同じように、質と数量によって構成されている、ということですね?


その通りです。過度の要求・欲望・貪欲・情欲・嫉妬といった感情的なエレメンタルがいっぱいのパーソナリティー、あるいは期待・先入観・批判・独断的思考・偏見などに満ちたパーソナリティーは重く、本人自身や周りの人々に問題を起こす可能性があります。
それでもエレメンタルの本質に気づき、エクササイズと瞑想を通して自ら質の悪いものを取り除くことさえできれば、きっと美しいものを繁らせることができるでしょう。


◎洗礼者ヨハネは、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(新約・ヨハネ3-30)といわれました。


その言葉は、パーソナリティーの汚れを取って、自分を浄化することを意味しています。日々の内省とエクササイズ、そして瞑想によって散らかっているものを取り除き、愛、寛容、奉仕を育むことによって、私たちは自らの中に聖なるものが住みついて働く場所を与えることができるのです。


◎しかし、パーソナリティーが五感や利己的欲求、勝手気ままな感情、肉体的欲望などに心を奪われている限り、私たちは自分がつくった殻の中で身動きがつかない状態になっているのですね?


「地から出る者は地に属し」(新約・ヨハネ3-31)とあるように、個人の意識の95%が物質的な欲望や利己的な欲望に根ざしていれば、意識の拡張も体外離脱も困難になります。人々が体外離脱を熱望すればするほど、彼らのパーソナリティーが物質界に根ざしていればいるほど、肉体にしっかりと結び付けられて、それは難しくなるのです。


◎それでも、いつか時がくれば成功するのですね?


そちろん! 幼虫は繭(現在のパーソナリティー)が限界になるまで、その中に居ることができます。そしてある日、繭をやぶって羽を広げ、(永遠のパーソナリティーとして)飛び立ちたくなるのです。これは自然の摂理であり、実現性の循環という普遍的な法則に基づいています。人がどんなに繭の中の暮らしを楽しんでいるように見えても、「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」(旧約・ヨエル3-1)とあるように、成長は必ずやって来ます。


◎そして、キリストは「あなたがたのために場所を用意しに行く」(新約・ヨハネ14-2)といっています。しかし、私たちのほうこそ、彼のために心の中に場所をつくるべきではないでしょうか?


彼はすでにそこにいます。いや、それどころか、彼は私たちの心であり、精神そのものだといえるでしょう。それにしても、私たちの探究はこの偉大なる摂理の中で、一体どんな助けになるのでしょうか?
最も価値あるエクササイズである、日々の内省を例に考えてみましょう。もし私たちが内省に専念したら(そう、私たち全員がそうしたら)、私たちは自分自身にも他の人々にも害をもたらす利己的な行為から抜け出すことができます。そして、善行と根本的法則に導かれ、かつてないほど高い透明度で物事を見られるようになるでしょう。
また、その他のエクササイズはパーソナリティー内部の破壊的なエレメンタルを発見し、それらを少しずつ、私たちに命を与えるようなエレメンタルと入れ替えていくのに役立ちます。


◎西洋にも少なくありませんが、東洋のある宗教・哲学体系では、物質界をマーヤ(サンスクリット語で「幻想」)と呼んで、克服すべき世界、自分自身を引き離すべき世界として理解しているようです。しかし、あなたは物質界を低く評価していませんね?


もし物質界に価値がないなら、なぜ無限なる知恵の中で、絶対存在が物質界を創造するでしょうか? もしここが生命現象の故郷でないなら、なぜ大天使たちが物質的な地球や宇宙を創造して、それらの調和を保ち維持するために、絶え間なく働いているのでしょうか?
私たちの肉体は物質界に属していますし、*サイキカル体は*サイキカル界に属しています。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(旧約・創世記28-17)とあるように、この栄光ある地球に存在できることは、本当に名誉なことなのです。
時に私たちの重荷となるこの肉体も、そしてこの地球も、神聖なる存在です。どんな理由であれ、「聖なる土地」(旧約・出エジプト記3-5)であるこの天国を低く評価するのは、とても残念なことだと思います。







*サイキカル界、サイキカル体
4次元の世界で「感情の世界として知られる超感覚的なサイキカル界は7つの層から構成され、それぞれがさらに7つの層に分かれている。体外離脱を経験する時、私たちの「サイキカル体」が最初に行くのが「サイキカル界」であり、3次元の物質界で肉体の死を迎えた時に、最初に行く世界でもある。

*ノエティカル界、ノエティカル体
思考と、思考を司る「ノエティカル体」の故郷である5次元の世界が「ノエティカル界」。3つの分離の世界では、最も波動が高くピュアな世界。「ノエティカル界」において、絶対存在の全なる智恵は、銀河から単細胞生物に至るまで、最初に想念形態としての表現を行なう。この世界は7つの層に分かれ、ひとつの層がさらに7つの層に分かれている。

















『エソテリック・プラクティス    キリストが遺した瞑想法とエクササイズ』
著 . ダスカロス