メッセンジャー 永遠の炎 ‥ 14 | inca rose*のブログ

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…ダスカロスはさらに話を進めた。

「さて、シア・エヴァレスキアが具現化されるために、絶対はマインドを創造し、創造界のあらゆる領域、すべての世界は、他でもないこのマインドという超実体の物でつくられているのである。それは無限に果てしなく広がり、波動している。ここで念頭に入れておいて頂きたいのが、マインドは絶対ではないということである。マインドは、現れることのない絶対がご自身を表現する手段でしかないということなのだ」

ダスカロスはこれまでに何度も、絶対の性質は、全知、全能、そして完全なる善である、と論じていた。この三つの属性が、マインドを通じてキリスト・ロゴスと精霊として自らをあらわしているのである。

「われわれはこの二つ(ロゴスと精霊)を創造界において果たす役割と機能に基ずいて区分けしているのだが、現実には、ロゴス的表現と精霊的表現は命の現象内で同時に作用しているのである。しかし一方を他方と区別することができ、ロゴス的なものはあらゆるレベルで様々に表現する時、自己を意識する知性というものをわれわれに与えてくれ、それは普通の人間意識のレベルから、悟りに達した人の自己意識である大天使的超自己意識レベルにまで至っているのである」

イエス・キリストは絶対のロゴス的な部分をあらわしている、とダスカロスは再び言った。それから、精霊性はそれなりの意識を持っているが、それは人間には理解不能であることを詳しく説明した。

「絶対のこの二つの側面(ロゴスと精霊)の違いを簡単に説明するために人間と動物の間の基本的な違いを研究する方法がある。それによると、前者(人間)はロゴス的かつ精霊的存在である。言い換えると、人間は自己意識を所有する、つまり自己の存在に気づいているということである。

これは厳密にロゴス的属性であると同時に、人間は精霊的でもあるといえる。なぜなら人間は身体を持っており、その身体は精霊の全知の能力によって生かされ続けているからである。動物は精霊的であるだけで、自己意識に欠ける、つまりロゴス的なものに欠けるのである。繰り返すと、絶対はそれ自身の内で自足の状態にあり、完全で具現化されず、時空を超え、人間の理解力を超えているということである。

さて、そこで質問だか、われわれは一体、何なのか? われわれは命そのもの(真の命)なのか、それとも命の現象なのか? 明らかに、生きている有機体として授かったある一定の現在の人格を持った身体として、われわれは命の現象である。つまり、われわれは命の精霊的現象であって、肉体は精霊によってつくり上げられている。

しかし、われわれの自分なるものは、たとえそれが未熟な無意識状態や意識状態、さらには超意識状態であれ、ロゴス的な実在である。私が言っているように、理解する能力(つまり理性)を持っているからわれわれはロゴス的であるといえ、より厳密にいえば、われわれはマインドという名のこの超実体を利用し、それを思考と感情へと形成する能力を持っているのだ。われわれの奥にある命そのものなんだ。

さて、※聖なるモナドとしてわれわれは絶対と一体である。われわれが神聖な自己の中に自らを送り込んだ時、われわれは命そのものである。それは、われわれの外に存在する源から命を得て生かされているのではない。確かに身体や現在の人格としてのわれわれは生かされているが、三つの身体ー肉体、サイキック体、そしてノエティック体ーはつくられ、生かされた現実なのである。しかし、魂のレベルでの自己意識、つまり聖なるモナドとしては、われわれはただ在るのみで命そのものなのだ」

「よって、命は絶対なり。それは絶対の現実、すなわち真実である。さて、ここで類比を出して考えてみたいと思う。水素は水の主要素であり、水の一滴にしろグラス一杯にしろ、または海といういかなる水量であれ、水には水素が必要であり、すべてが水素の子供なのである。水素をあらわすものとしてこれらはすべて同じ一つの現実であるが、それぞれお互いにまったく異なったあらわれ方をしていて、個性といったようなものを持っている。一杯の水は量的に海とは異なるが、海も一杯の水も両方とも水なのである。

これと似て、われわれは絶対を持っている。なぜなら、ロゴス的自己表現している者すべての基本にある現実は絶対なのである。キリスト教初期の創始者である教父たちによれば、ロゴス的表現をしているすべての者の上に、その権威としての最高位のロゴス、つまり絶対というものがあるということである。

しかしながら、水素をあらわしている例のように、ロゴスは大小様々な形で、神の計画においてそれぞれ特有の目的に奉仕しているのである。すべての大天使と、大天使の位にいる者は皆、ロゴスである。人間もまたロゴスである。人間はロゴスを持つ存在である。しかし、一般的な人間の場合は、ロゴス的表現の量は極めてわずかで、そのエネルギーも極めて弱い。一杯水は海ではないが、すでに述べたように、質的には両者とも水であることに変わりはない。小さな炎は太陽ではないが、両者とも火である。…






※聖なるモナド
絶対の構成部分。







『メッセンジャー   永遠の炎』
(「メッセンジャー」第Ⅲ集)
著.キリアコス・C・マルキデス

から抜粋。