こんにちは (*´∀`*)ノ
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国民の声を反映させるのが政治
一昨日の投稿の補足です。
解散選挙を行うという決断が示されてから、正直なところ、失望のあまり、しばらく意識的にニュースから距離を置いていました。一昨日ブログ投稿をしたこともあり、あらためて報道番組を観てみると、現在は「自民の圧勝」が囁かれているようです。
民主主義
民主主義とは本来、
公に議論を重ね、その過程を透明性と責任のもとで可視化し、
市民の意思を代行するのが議員の役割――
そうした仕組みであるはずです。
ここで、少し考えてみてください。
仮に、高市政権の示す政策が「100点満点」に見えたとしても、それはあくまで、一方向から見た評価に過ぎないのです。
多角的な視点で見れば、改善すべき点は必ず存在します。仮に、現時点では見当たらなかったとしても、時間が経てば、必ず新たな課題は生まれます。
これは、政治や政策が対峙する対象が、人や社会、さらには時代という、常に変化し続ける存在だからです。
だからこそ、政策は一気に完成形を目指す必要はありません。100点を取ることよりも、異なる視点を持つ複数の政党と協議を重ね、部分的な合意を積み上げていくこと。
その過程で生まれる議論こそが、政治を国民の側へと近づけ、合意形成の文化を社会に根付かせていくのだと、私は考えます。
そうした建設的な議論と合意形成が反映される国会こそ、いま目指すべき姿ではないでしょうか。
繰り返される「政治とカネ」
では、なぜ「政治とカネ」の問題は、解決されないまま、何度も繰り返されるのでしょうか。
それは、国会と政権が与党一強の状態に近づくことで、権力の集中が進んでしまうからです。
本来、民主的政治制度は、権力が集中しないように設計されています。そのため、互いに抑制し合う三権分立の構造が取られ、さらに二院制が設けられています。
二院制が採られている理由もまた、十分な議論を確保し、拙速で独善的な判断を防ぐためです。
なぜ、そこまで抑制が必要なのか——
それは人という存在が、本質的に不完全であり、欲を持ち、誤り、独善に陥り得る生き物だからです。
自民党一強、また自公連立が続く中で、本来、緊張関係にあるべき抑制構造は、長らく形骸化してきました。立法が行政を十分に監視できず、行政が自己点検に陥り、司法もまた、結果的に後追いになる。
本来執り行われるべき倫理検証も、形式的な場にとどまり、議員らの自律性に委ねられる構造は、温存されたまま——その構造の中で「政治とカネ」は依然として擁護され続けてきたのではないでしょうか。
そんな中で、やっと多党制の時代が訪れたのです。
多党制での協議を経て浮かび上がってきたのは、高市氏個人の正しさではなく、自民党独裁という危うさだったのではないでしょうか。
多党制の用い方
他党には他党の主張があり、そこにはそれぞれの正しさがあります。
自分たちの政党の主張する政策が、部分的に修正されることの、
いったい何が問題なのでしょうか?
大切なのは、国民の生活がより良くなることです。
合意できる部分から、どんどん合意してゆけばよい。
こだわるべき点が、いつの間にか大きくズレてしまっています。
そうした多くの声を取りまとめることのできる人物こそが、「首相」なのだと私は考えます。
高市早苗氏が、これまで政策を丁寧に作り込んできたことは、多くの人が認めるところでしょう。その土台が評価され、首相となったのです。
だからこそ、その土台の上に、
より多くの人の声をどのように聞き、
どのように反映させていくのか。
誰と、どのように手を取り合う道を示せるのか。
その点が、十分に見据えられていないように見えることに、私は失望しています。
多様化が進むであろう日本社会を目前に控えた、私たち国民自身の課題でもあります。
今後、諸外国と同様に、移民問題をはじめとする社会的課題がより顕在化していくかもしれません。
このままでは危うさを残したままになってしまいます。
では、どうすれば自分たちの主張を実現できるのでしょうか。
それは、日本の政治においては、政党を選ぶことでしか制度に届けられないのです。
しばしば報道で指摘される「多党制は合意に時間がかかる」といった論調は、多くの場合、制度の問題ではなく、議員側の能力や姿勢の問題を、すり替えて語っているにすぎません。
それは、あくまでメディアによるレトリックです。
だからこそ私たち国民は、自分たちの生活向上のために、もっと率直に、そしてわがままに主張してよいのだと、私は考えます。
それは、私たちが私たち自身の手で、国や地域をより良くしていこうとする意思表示にほかなりません。
政治とは、「お上」が取り仕切るものではないのです。
少なくとも民主主義においては、国民が主体となって政治を行うための、目的達成のための手段のひとつなのだと、私は訴えます。
ここで、現実の生活に立ち返ってください。
あなたは、冬の寒さに凍える最中、
灯油代の値段や、店にこだわる余裕があるでしょうか?
生きるために必要なものに、
本来「迷う余地」などない場面があります。
それは、国家がある程度の水準であるがゆえに、
許容されてきた「余白」であり、同時に、解決されるべき問題を据え置いたまま、
見えにくくされ、置き去りにされた制度の問題でもあります。
その緊迫感を、見失ってはいないだろうか。
政党や議員としての「正しさ」を競い合うよりも、
制度改革を推し進めるためにも
合意形成の在り方そのものを、より良い形へと構築していくべきだ――
私は、そのように考えます。















