連合総研主任研究員 早川行雄

 

1.失われた20年に何が起きたのか―中小企業白書が明かす規模間格差の構造

中小企業からみた日本経済の現状を考察する前に、この四半世紀ほどの間に中小企業の経営環境がどのように変化してきたかを確認しておきたい。「現状」は天から降ってきた分けではなく、過去に規定されているからである。日本の名目GDPの直近におけるピークは1997年の521兆円だが、昨2014年度は490兆円に留まっており経済成長は全く失われている[1]。このように経済が停滞してパイが拡大しない中で、上場企業のみが空前の利益を計上し続けているというのはいかにも不条理である。この不条理の背景を最近の中小企業白書から探ってみよう。ただし白書から分析データは借用するものの、その評価はもっぱら筆者の判断によるものである。

図1は2014年版中小企業白書(第1部第3章)に分析が記載された、製造業における「価格転嫁力指標上昇率の規模間格差」の実態を示したものである[2]。白書によれば、1990年代の半ば以降、中小企業が原材料や中間財など中間投入品の仕入れ価格を自社製品の販売価格に転嫁できる度合、すなわち価格転嫁力が一貫して低下している。すなわち取引関係で優越的な地位にある大企業による購入単価の引き下げ圧力が強まり、中小企業は自社で生み出した付加価値を社内に留め置くことができず、大企業への「所得移転」を強いられたことになる。白書では企業の価格転嫁力の変化を「付加価値デフレータ」という指標を作成して観察する。「付加価値デフレータ」は企業の生み出す付加価値の「価格」と想定される。付加価値は売上高-中間投入であるから、販売数量と仕入数量の増減関係を一定と仮定すれば、「付加価値デフレータ」の変化は「販売価格要因」と「仕入価格要因」に依存することとなる。

中小企業の価格転嫁力は80年代央まで概ね上昇傾向にあった。ところが90年代後半には仕入価格の低下以上に販売価格が低下したことにより、また2000年代半ば以降は仕入価格の上昇に販売価格の上昇が追い付かないことによって価格転嫁力は低下した。この間、大企業の価格転嫁力に大きな変化はなく、価格転嫁力の規模間格差が拡大している。換言すれば、90年代を転期として中小企業の価格転嫁力に構造的変化が生じているのである。

90年代は利潤率の低下とその要因が論議を呼んだ時代であり、大企業を中心に90年代半ば以降は非正規雇用の拡大などの手段を用いた労働分配率の引き下げによる利潤の確保が推し進められた。その同じ時期に中小企業の価格転嫁力も低下し始めたこということは、これもまた大企業の利潤確保のための手段であったことが分かる。こうした価格転嫁力の低下は企業収益をも圧迫している。白書は収益力の変化を「価格転嫁力の変化」と「実質労働生産性の変化」という二要因に分解している。同時に白書は実質労働生産性の規模間格差と変動要因も分析しているが、中小企業の実質労働生産性は概ね大企業を上回って推移してきた。その主たる要因は、90年代半ばまでは実質資本装備率(設備投資)の高い伸びに支えられ、2000年代央以降は製品の高度化など実質付加価値率の上昇によるものである。端的にいえば、中小企業は殆どの期間において大企業を上回る実質労働生産性の伸びを記録しているにもかかわらず、90年代を境として価格転嫁力の低下が実質労働生産性の上昇を相殺することで収益力が失われたことになる。

図1 製造業における価格転嫁力指標上昇率の規模間格差

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注)大企業製造業=資本金10億円以上、中小製造業=資本金2千万円以上1億円未満。

資料出所:中小企業庁「2014年版中小企業白書」

*原データは日本銀行「全国企業短期経済観測調査」「企業物価指数」

図2は2015年版中小企業白書(第2部第1章)に記述のある、製造業における「企業規模別に見た1社当たり平均の実質付加価値額[3]」のデータから作図したものである。便宜的な加工を施しているので幾分正確さを欠くところもあるが、全般的傾向を判断するには支障がないものと考える[4]

1980年代についてみると、図1では中小企業の価格転嫁力も上昇していたが、ここでみる付加価値額についても同様に中小企業と大企業はほぼパラレルな増加基調にあった。問題は図1で価格転嫁力に構造的変化が生じた1990年代の動向である。そこでは小規模企業と中規模企業の付加価値額は急激な落ち込みを示し、概ね横ばい基調をたどった大企業とは対照的な動きとなっている。すでにみた価格転嫁力の低下を勘案すれば当然の結果ではあるが、90年代に生じた価格転嫁力の低下が企業規模間の付加価値産出力の格差をもたらし、先行きに大きな禍根を残すことになったのである。

2000年代以降に付いてみると、大企業の付加価値額はリーマンショックによる落ち込みを経由しつつ上昇基調に転ずる。小規模・中規模の企業にあっても付加価値額は上昇傾向を示すものの、80年代の水準を回復するにはいたらず、いわば90年代に生じた格差が構造化して定着する傾向が示されている。いささか戯画的に表現するならば、図2は中小企業の生み出した付加価値をどん欲に呑み込もうとする「ワニの口」を描いていることになる。

以上の結果が示すところは、中小企業で働く労働者の賃金増加を軸とした経済の好循環を実現するに当たっては、高い生産性を有し、日本経済の基盤を支えている中小企業が生み出した付加価値の相当大きな部分が大企業に移転してしまい、中小企業の収益力を圧迫して、結果的に中小企業労働者の賃金水準を押し下げている現状に抜本的な改革のメスを入れることが不可欠になっているということである。

図2 製造業における規模別1社当たり平均付加価値額の推移

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(注)大企業=資本金10億円以上、中規模企業=資本金1千万円以上1億円未満、

小規模企業=資本金1千万円未満。

資料出所:中小企業庁「2015年版中小企業白書」

*原データは財務省「法人企業統計調査年報」、(独)経済産業研究所「JIPデータベース2014」

 

2.アベノミクスは何をもたらしたか―法人企業統計が語る日本経済の不条理

以下に示す表1~4は法人企業統計をもとに、リーマンショック前の2007年から2014年までの各種経営指標の推移を、資本金規模別、産業・業種別に指数化してみたものである[5]。ここで重要なのは指数の大きさもさることながら、各年次間の指数の変化幅、とりわけアベノミクスによる円安誘導と官製株価操作が行われた直近2年の動向である。

表1は全産業(除く金融保険)の資本金1億円未満企業の経営指標の推移をみたものである。この規模における企業の付加価値額が増加に転じなければ、前項でみた付加価値額格差の「ワニの口」が塞がることはない。ところが実態は2014年度でも2007年度の水準を回復しておらず、2013年度、2014年度(以下「アベノミクス期」という)については逆に水準の低下さえみられ、アベノミクスの恩恵はまったく及んでいない。直近の2年は営業利益などの増加が窺われるものの、一方で従業員の賃金(給与+賞与、以下同)は減少しており、付加価値が増えない中で賃金を抑制して利益を捻出し、配当や社内留保の積み増しに充てている姿が見て取れる。

表1 経営諸指標の推移:全産業(除く金融保険業)・資本金1億円未満

 

 

 

 

 

 

 

 

 

資料出所:財務省「法人企業統計調査年報」

表2は資本金1億円未満企業のうち製造業についてみたものだが、経営指標の実態はより深刻といえる。付加価値水準は低下傾向にあり「アベノミクス期」にも低位に張り付いたままで、これでは図2の「ワニの口」は塞がらない。文字通り開いた口が塞がらない経済政策が採られていることになる。同期に賃金の低下による企業利益の確保が図られているのは製造業だけをみても同様である。特に低迷していた配当金水準が2014年に一機にほぼ2007年水準を回復していることは、株主をことさら優遇する歪んだ経営実態を端的に示している。

表2 経営諸指標の推移:製造業・資本金1億円未満

資料出所:財務省「法人企業統計調査年報」

それではこの間の円安誘導などの政策で恩恵を受けたのはどの規模のどの産業であろうか。表3は全産業(除く金融保険)における資本金10億円以上の企業の経営指標である。付加価値額は2007年の水準に戻った程度であるが、注目すべきは「アベノミクス期」において明確に上昇を示していることだ。この間賃金については大きな変化がなく、結果としてリーマンショック時に半減していた営業利益などが顕著に回復している。畢竟アベノミクスは中小企業ではなく、総じて大企業の付加価値を押し上げる効果を持ったことになる。なお収益環境の改善から大企業においても社内留保が大きく上積みされているが、これは良好な投資機会の喪失を示唆するものともいえよう。

 表3 経営諸指標の推移:全産業(除く金融保険業)・資本金10億円以上

資料出所:財務省「法人企業統計調査年報」

大企業全体の経営指標をみただけではアベノミクスの具体的影響は分かりにくい。表4は円安誘導による為替差益の恩恵を最も多く受けるであろう輸出産業を代表して、自動車・同附属品製造業における資本金10億円以上企業の状況を示したものである。付加価値額についてはリーマンショック時において全産業ベースの落ち込みよりはるかに大きく下落し、営業損益は赤字に転落していた。それが「アベノミクス期」にいたると、リーマンショック前の水準をも超えて大きく改善しているのである。あまりにも分かりやすいデータであるが、アベノミクスの主たる狙いは、本気でトリクルダウン効果が生じると考えていたのか否かはさておき、輸出型大企業の利益回復に定められていたことは明かであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

表4 経営諸指標の推移:自動車・同附属品製造業・資本金10億円以上

 

 

 

 

 

 

 

 

資料出所:財務省「法人企業統計調査年報」

最近の新聞記事をみても「車大手が相次ぎ最高益 4~9月、北米好調・円安で」(日経2015.10.27)、「上場企業、6割が増益 4~9月」(日経2015.10.31)などの見出しが躍り、我が世の春を横臥しているかのようだ。一方中小企業についてみると、中小企業家同友会が四半期ごとに発表する景況調査報告(DOR)のタイトルは昨年10-12月期の「中小企業はすでに“アベノミクス不況”のさなか」から「かすかな上昇感でるも、多様な格差広がる」(今年4-6月期)、「明・暗まだら模様、先行き楽観を許さず」(同7-9月期)と幾分の改善はみられるものの、なお厳しい判断を留めている。こうした現況が教えるものは、アベノミクスの円安誘導策は、輸入原材料価格の上昇分を販売価格に十分転嫁できない中小企業から、為替差益で大いに潤った輸出産業を中心とした大企業への所得移転に他ならず、言葉を換えれば中小企業に課税して、大企業に補助金を出す政策に等しいのである。問題の核心は、大企業はもはやそのような政府の政策をあてこむ以外に利益拡大の方途がないということであり、経済のパイが拡大しない下での利潤追求が、中小企業の利益ないしは労働者の賃金を常に犠牲にするという不条理の根因になっているということである。

 

 


[1] この間の実質GDPは1997年度の472兆円から2014年度には525兆円まで拡大しているが、これは1998年度から2013年度までGDPデフレータが一貫してマイナスであったデフレ経済の結果である。

[2] この価格転嫁率指標(付加価値デフレータ)は日銀の「全国企業短期経済観測」および「企業物価指数」をもとに中小企業庁が独自に推計したもの。詳細は「2014年版中小企業白書」付注1-1-1参照。

[3] 法人企業統計の付加価値額をJIPデータベースの付加価値デフレーターで実質化したもの。

[4] 2015年版中小企業白書は、実質付加価値額の推移を1980年代、1990年代、2000年代以降の3期に区分して、各期初を100とする指数で作図しているが、本稿では1980年を100とした指数で通期の実態をグラフ化している。その際1990年および2000年の指数は便宜的に前年と同じ値とした。

[5] 各指数は法人企業統計の原数値をもとに算出しており価格変動の要素が含まれている。