連合総研主任研究員 早川行雄

本稿はマクロベースでみた貯蓄投資バランスの偏りに焦点を当て、わが国経済の現状を読み解くひとつの手掛かりとすることを意図している。断るまでもなく以下は一研究者としての筆者の私見であり、特定の組織や団体の見解ではない。なお筆者に与えられた課題は、日本経団連『経営労働政策委員会報告』の「内部留保論」に対する批判を書けというものである。しかしそこに書かれているのは簿記三級クラスの講義に苦し紛れの言い訳を付して却って語るに落ちたといった程度の俗論であり、むきになって反論する価値があるとも思えない。賃上げ原資があるのに取れないのは理屈ではなく専ら交渉力の問題に過ぎない(1)。むしろいま直視すべきことは、後述するように内部留保の積み上がりに象徴される企業部門の貯蓄超過の裏側にみられる投資不足の実態である。

1.     内部留保の論議は個別の労使交渉で

各単組における春闘の要求作りに当たって、会社の財務諸表の検討は必須の作業である。中小企業においても経営側に財務情報の開示を求め、労使が共通の認識に立って交渉を進めることが大事であり、個別企業の財務分析の上に立って、単組の交渉を指導することも産業別労働組合オルガナイザーの重要な任務である。実際には中小の職場で経営情報を開示させることは容易ではないし、開示されてみても経営の厳しさが露呈し一時金の原資もおぼつかないなどということも少なくない。個別企業によって事情は異なるが一般的に中小企業の労働分配率が高いのは事実である。

何れにしても、内部留保を含む財務データはこうした個別労使交渉においてこそ意味を持つ。通常であれば賃金交渉は当期の企業売上高の配分という一面(2)を持つので、まず損益計算書やキャッシュフロー計算書の数字が交渉の俎上に乗る。さしあたり粗利やフリーキャッシュフローを確認するが、過去のフローの蓄積である内部留保のようなバランスシート上のデータも当然検討の対象となる。ここで特に中小の場合、流動負債や流動資産の実態をよく吟味する必要がある。中小労組の執行部には職場と雇用を守るために、数字ヅラだけでは分からない(まともな)経営者的視点も欠かせないのが実情だ。その上で「賃金の変動費化」という経営姿勢に抗し、賃金が単なるコストではなく人への投資(3)だと位置づけ、設備投資のために融資を受けるのと同様に、人への投資の割引現在価値が間尺に合うならば借金をしてでも賃金を引き上げるという判断があってもよい。

こうした議論をそのまま大企業に当てはめることはできない。大企業は全体として資金余剰であり、その背景には優越的地位を乱用した不公正取引や非正規雇用の拡大による固定費削減に加え、様々な租税特別措置をはじめ連結決算や受取配当益金不算入など税制上の優遇(4)があることは指摘しておかねばならない。しかもそうして得た利益は生産的な投資には向かわず、有価証券投資などで運用するしかなくなっている(5)。こうした事実は大企業を中心とした経済システムが機能不全に陥り活力を喪失していることの証にほかならない。

2.     マクロ経済での企業部門の貯蓄超過

グラフⅠは国民経済計算における部門別資本調達勘定「資産の変動」の推移を1980年度以降について追ったものである。一見して明らかなように1998年度以降一貫して企業部門が貯蓄超過となり、家計部門の貯蓄を金融機関が仲介して企業部門が設備投資を行い財やサービスを生産するという資金循環の流れが堰き止められ、それを政府支出(財政赤字)がカバーしている。最初は海外のエコノミスト(6)から問題視され、経済成長のための過剰投資(日本ではバブル期の投資)が資本ストックを積み上げた国にみられる陥穽だと指摘された。国内のエコノミスト(7)からも企業部門に滞留する余剰資金を家計部門に還流することが、個人消費の拡大を通してデフレ脱却につながるとの主張がなされるようになった。しかしそのような資金の還流ないし移転はどのようにしたら可能であろうか。賃上げや下請け単価の引き上げ、あるいは法人課税強化による所得の再分配というルートがメインストリームだろうが、今日の大企業システムはそれを行わないことで辛うじて存続しているのが実態であろう。

グラフⅡはグラフⅠで用いた部門別資本調達勘定から非金融法人企業の総固定資本形成と固定資本減耗(減価償却に相当)のデータをひろい、その差額である純固定資本形成の推移をみたものである。丁度企業部門が貯蓄超過に転じた時期から純固定資産の増加が著しく低下し、近年においてはマイナスを記録するに至っている。ここから明らかになるのは企業部門の貯蓄・投資バランスの失調をもたらした要因は、有効な投資機会の減失による投資不足にあるという厳然たる事実だ。資本の希少性が失われ資本需要に確たる限界が示されている(8)。グラフⅢは国民経済計算の民間企業資本ストック(全企業・進捗ベース)と実質GDPのデータから前者を後者で除した値を資本係数としてその推移をみたものである。資本ストックは着実に積み上がる一方、実質GDPは1990年代以降概ね横ばい圏で推移しており、資本係数(1単位の生産・所得を産出するのに必要な資本ストックの量)は1980年度の1.33 から2012年度には2.45と大幅に上昇している。資本係数の逆数は利潤率(投下総資本に対する利潤の比率)と同様の概念(9)なので平均利潤率の傾向的な低下(10)が顕著になっている。いまの日本は投資しても儲からない、儲かる投資先がない状態で、従来の大企業中心システムの下では、最早働く者に安定した雇用も所得の向上による生活水準の引き上げも保障できなくなっている(11)。これが企業部門貯蓄超過経済の実相なのである。

3. パラダイム転換に向けて

前項で確認した情勢認識に鑑みれば、今日の日本経済に必要とされるのは制度疲労を起こした既存システムがもたらす危機からの脱出に向けた正しい経済政策であり、その政策を根拠づける新しい経済理論である(12)。それは既存システムの継続を前提とした分配政策の微調整に止まらず、歴史的転換期を自覚しつつ公正と連帯を重んじ、あらゆる不条理に敢然と立ち向かい、「働くことを軸とする安心社会」の実現を目指したパラダイム転換を牽引するものである(13)。政府や財界の経済政策は旧パラダイムに固執しながら、経済成長だけが諸問題を解決できるといマクロの成長ドグマおよび競争が効率を高め企業を発展させるというミクロの競争ドグマという、成長至上主義と過当競争誘発のふたつのドグマに支配されている(14)。これに対する我が方の構想の中心には、市場・商品化になじまない公共財のパブリック・セクターや協同組合による給付(15)あるいは活力ある中小企業を主体とした地域の再生とネットワーク化(16)などが据えられよう。春季生活闘争の推進にあたっては、政府・財界の掲げるドグマに正面から対峙し、政策・理論戦線における「空中戦」で労働側が確実に制空権を握っていなければ、「地上戦」を闘う単組の交渉は極めて厳しいものとならざるを得ないのである。

 

(1)   連合総研『90年代の賃金』(1992)

(2)   連合要求の1%以上や昨春闘までの1%成果配分は単年度の分配基準。

(3)   金子良事「歴史に学ぶ「賃上げ」の論理」月刊連合(2014.2)

(4)   岩本沙弓『バブルの死角 日本人が損するカラクリ』(2013)

(5)   日本経団連『経営労働政策委員会報告』(2014)

(6)   Martin Wolf ”What we can learn from Japan’s decades of trouble” Financial Times(2010.1.12)

Rebecca Wilder “Japan’s Lopsided Financial Balances” EconoMonitor(2012.1.22)

(7)   北井義久「日本に必要な成長戦略とは「賃上げターゲット」政策だ」エコノミスト(2010.10.26)

斎藤太郎「拡大が続く企業部門の貯蓄超過」ニッセイ基礎研究所(2012)

(8)   ケインズ『雇用、利子および貨幣の一般理論』第6篇第24章

(9)   水野和夫『世界経済の大潮流』(2012)

(10)マルクス『資本論』第3巻第3篇第13章

(11)JAM「2014・2015年度運動方針」1.情勢のポイント

(12)JAM「2014・2015年度運動方針に関わる主な情勢資料-危機脱出の経済政策を求めて-」

(13)連合「歴史の転換点にあたって~希望の国日本へ舵を切れ~」(2008)

(14)早川行雄「」労働大学(2013)

(15)宇沢弘文『社会的共通資本』(2000)

(16)黒瀬直宏『複眼的中小企業論』(2012)