昨日に引き続き平泉の中尊寺ネタです。


今回の結婚式もどきで、翌日に中尊寺を見学いたしまして、バスガイド役を務めたので、その際に奥州藤原氏について調べてみました。


自分で調べただけなので、間違っているかもしれませんが・・・


なんとな~く日本史に興味のある方にご紹介。


私が興味深かったのは、


奥州は砂金が豊富に取れたため、黄金のジパングのモデルになっていると考えられていることと、

当時は平安京に次ぐ、日本第2位の大きな都だったということです。


さらに興味があるかた・・・長い文章ですが、まとめてみましたので読んでみてください。



奥州藤原氏

11世紀半ばまで 陸奥国:安倍氏  出羽国:清原氏 強力な2つの豪族が治めていた。奥州藤原氏の初代である清衡(きよひら)は、京都の藤原氏と遠縁の父と安倍氏の母から生まれた。


ここで、奥州藤原氏が実際に藤原氏の係累であるかは長年疑問符がついているが、実際に藤原氏の一族であるかはともかく、一族の係累に連なる者と認められていたことは確認されている。


11世紀の終わりごろ、安倍氏と清原氏の戦いである前九年の役が12年間に渡って起こった。安倍氏が大半を優勢だったが、最終局面で清原氏が勝ち、安倍氏が滅亡。

このとき清衡の父は処刑されたが、清原武貞(きよはらのたけさだ)が安倍氏勢力を取り込み、平和的に統治できるよう、すでに妻がいたが、安倍氏の娘だった清衡の母と再婚し、清衡は処刑を免れた。

後、清原武貞が死後、他の2人の異母兄弟と清衡の戦いが起こり、これが後三年の役。


戦いに勝った清衡は実父の姓である藤原をなのり、ここから奥州藤原四代100年の栄華が始まる。


なぜ奥州藤原氏が成長したか。


初代の清衡は朝廷である藤原摂関家に砂金や馬などの貢物をかかさず、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、奥州支配を容認した。

奥州では砂金が豊富に産出し、貿易を盛んに行っていたことも成長の原因。

マルコポーロの東方見聞録に登場する黄金の国ジパングのイメージは奥州藤原氏の大陸貿易よってもたらされたと考える研究者もいる。

こういったことから、戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続け、平安京に次ぐ日本第二位の都市となった。


1105年 清衡が中尊寺を建立

1117年 基衡が毛越寺を再興


毛越寺:中尊寺とともに850年に円仁が創建したが、火災などで荒れ果てる。

再興により、当時は中尊寺をしのぐ規模。

室町・戦国時代で兵火により礎石を残すだけとなる。現在の本堂は平成元年に平安様式に則って再建されたものである。


1124年 清衡が中尊寺に金色堂を建立


金色堂:3つの仏壇があり、その下には奥州藤原氏3代の遺体を収めた棺と4代泰衡(やすひら)の首が入った首桶が安置されている。

遺体はミイラ状になっているが、自然か意図的かは意見が分かれている。


奥州藤原氏の落日

清衡→基衡→秀衡(ひでひら)→泰衡(やすひら)

3代秀衡が源頼朝と対立していた源義経を匿す。

秀衡死後、4代泰衡が頼朝との和平をもとめて義経を自殺させる。

しかし、奥州独自の勢力に恐れた頼朝が義経を長らくかくまっていた事を罪として奥州に出兵し滅亡。この後、鎌倉幕府の全国的支配が始まる。


落日の要因:平家滅亡により源氏の勢力が強くなったことと、奥州に深く関わっていた義経が頼朝と対立していたこと。


☆最後まで読んでいただけるなんて~☆


ありがとうございましたヾ(@^▽^@)ノ