私が病んだ理由の一つが
東日本大震災でした。
あの頃子供は保育園に通っていて
私は義父の仕事を手伝っていました。
車で外回りをしていたとき
大通りを走って小さな道にそれようとした時に
前の車が不審な動きをしたと同時に
激しい揺れに襲われました。
東京の東の方です。
目の前にはトラックがガタガタと揺れ、
小さな公園に急いで向かう親子がいて、
積み上げられた土木が今にも崩れ落ちそうで
少し前に見える土手が今にも崩壊するんじゃないかと思っていた時に
止めた車のテレビが、
津波警報を叫んでいたのを覚えています。
永遠にさえ続くかと思えた時間でした。
なんとか揺れが収まった瞬間に
急いで息子を迎えにいかないとと思い、車を走らせていたら、
いろんな人があたふたと街で彷徨っていて、
駅まで乗せてあげたい気分だったけど、
多分どうにもならないだろうなと。
携帯もパンクして、街がパニックになっていました。
そんな時義父は、大丈夫?とメールくれてから連絡がなく、
とりあえず私は義父の家にだけより、
すぐ帰りました。
保育園につくと、息子もパニックを起こし、園庭で先生に抱っこされて震えていました。
私は車だから帰ってこれたけど、
あとから聞いた話では、翌日まで帰ってこれなかった方も多数いたそうです。
そのまま私は実家へ向かい、
母と父、姉、姉の子供達と合流しました。
当時うちはマンションの4階で帰るのも怖く、旦那は帰ってくる気はありませんでした。
今考えると、この時点で旦那とはお別れしたと思います。
家族よりも旦那は会社の海外の女の子たちを送迎し、翌日に家族に会いにくるより、1人で家で寝てました。
夜中、余震に何度も震えて目が覚めて、その度に姉と目があったのを覚えています。
しばらくして、
車でまた仕事を再開したとき、
火葬場を通るたびに、東日本大震災で被害に遭った、方々を火葬する場所を通りました。
当時は火葬場不足で東京の火葬場に送られてきており、その場所を私は毎日通っていました。
どうしても悲しくなるし、
しんどいし、できることはお花をたむけることしかできませんでした。よく、お花をたむけてるおばあちゃんたちもたくさんいました。
私はあれ以来、スニーカーしか履けません。
しばらく電車にも乗れませんでした。
室内の狭い場所にもいられませんでした。
入り口の近くでないと安心できませんでした。
働く場所はスーパーやコンビニ、地に足のついたところが安心でした。
映画館にもいけませんでした。
人の座る揺れもまだ怖いです。
大きな音もまだ怖いです。
けど地震が起きた時、速報をみれば安心できるようになりました。
頓服飲めば落ち着きます。
誰がに捕まれば落ち着きます。
大きな地震がどこかで起きるたびに
1人で過ごすのが怖くなります。
不安であの頃を思い出して
今見えてるこの空が
自然がすべてを奪うなんて
考えられなくて
なにもかも忘れたくなります。
だけど抱きしめてくれる人は私にはいません。
耐えるしかないんです。
静かに泣いて、ただ今までもそうしてきたように
私なんかが泣く資格ないから
耐えるしかないんです。
代わりに私を殺してくれてもよかったのに
って何度神様に願っただろう。
何度横断歩道を間違えようとしただろう。
これは私の罰ゲームなのか。
生きなくてはならないゲームなのか。
誰がが死ぬたびに考えてしまう。