マイルストーン -2ページ目

マイルストーン

思ったこと,感じたこと,考えたこと,経験したこと・・・自分の変哲もない日日をとりとめもなく綴るページです。

この後およそ5時間後,期末試験科目のひとつ・破産法の試験が始まる。

もう卒業要件を満たしてしまっているのでどうにもやる気がでなかったんだけど,ようやく前日は重い腰が上がった。いやー人間ってそんなもんなんだなぁ(笑


とりあえず伊藤眞の破産法の斜め読み+レジュメ精読+条文素読をしてあるから単位が来ないってこたぁないだろう。あとは,電車で法律関係の処理の原則例外を改めて叩き込めば,あわよくば。


ってか問題なのはむしろ明日の知的財産法。。。特許の実体部分しか読んでないし・・・

これで選択問題2つとも著作権法だったら死ぬッ><

特許にメリハリかけて,当日著作権もざっと目を通しておくかぁ・・・。


とりあえず明日は電車が止まらないように祈っておかなきゃ^^;

今日は野暮用があって大学へ。春休みにある企画を立てているのだけど,その教室取りをゼミの先生が代行してくれるという。ふつうに考えたら,そこで敢えて自分が大学に行く必要はない。ただ,その申し出のメールには「何時ごろ来ますか?」というフレーズもあったもんだから,念のため時間を指定しておいて一応学校に行って,一緒に学事センターで教室取りを行うことにした。


指定の時間ぴったりに大学に着き,研究室棟へ。エントランスの電話機を使い,先生の研究室に電話。伺うと,いま在室で,すぐに玄関に下りてくるという。


しばらく待っていると,先生ではなく同じゼミのゼミ生がぞろぞろ出てきた。どうやら僕が電話をしたときにゼミ生たちが研究室にいたらしい。そのゼミ生と話しつつ,先生を待つこと約5分。先生が見えた。


ところが,である。先生はこちらに一瞥も,本当にちらりともまなざしを向けずに,先ほど研究室で用事をうけていたゼミ生に話しかける。そしてそのまま学事センターのほうへ歩き出す。学事センターまで一言も会話を交わさなかったのは言うまでもない。


いやー悲しいったらありゃしない。僕がそこにいるのは自明。用件も自明。なのに完全無視。ありえないね。


思うにね,挨拶って想像以上の効果がある。

普通の会話は,その会話の内容に高い価値がある。その点,「こんにちは」「こんばんは」「今日は寒いね」・・・ってな挨拶は,内容はあってないようなものだから,価値は一見低いようにも見える。

だけど,挨拶をするということは,あなたのことを意識しています,コミュニケーションをとりたいと思っています,大事に思っていますという言外の感情を伝えるという貴重な効果がある。この効果は,内容に高い価値がある会話ではかえって得られづらい。内容がない発話だからこそ,そういう部分の大切さがにじみ出る。

ある用件を伝える会話の前に,挨拶をしたり,あるいはとりとめもない話をするほうがスムーズに話が出来るのも,ここでいうとりとめもない話(=内容がない話)が挨拶と同じような効果をもっているからだろう。「挨拶は人間関係の潤滑油」とは上手いことを言い当てた表現だ。


何もかも自明な存在である僕が先生に完全しかとされたこちらとしては,恩師に,存在として軽視されていると思いが至ってしまっても仕方がない。それが故意であるにせよ過失にあるにせよ。だから,「悲しいったらありゃしない」のだ。・・・まあ,こうやって書くとどれだけ深刻なんだと思われそうだけど,別にそんなことはないけどね(笑)


ところで,大学に向かう途中,道でサラリーマンの待ち合わせに遭遇した。スーツ姿の男が二人立っていて,その二人に向かって僕の背後から一人のスーツ姿の男が駆け寄っていった。そのスーツ姿の男は「おはよう」と二人に声をかけ,声をかけられたふたりも「おはよう」「おはようございます」と応じていた。三人は道で待ち合わせていたようだけど,三人の人間関係の良好さがよく伝わってきて,全く見ず知らずの僕も快い感情を覚えた。


挨拶の役割。あんまり意識してこなかったけど,かなり大きい。挨拶を,できる限り大事にするようにしたい。

新聞でもテレビでもさんざん報道され,ブログでもよく取り上げられているトピックだけど・・・。


生活情報番組の第一人者(者??笑)である「発掘!あるある大辞典Ⅱ」が,納豆のもつダイエット効果について特集した番組の中で,データ等捏造・データ等無断使用という行為をおこなっていたらしい。


情報をでっち上げる行為は,生活「情報」を提供する番組にとって致命的な行為だろう。視聴者をバカにするとか手のひらで転がすとか,そんなこと以前に,情報番組としてのアイデンティティを放棄する行為なんだから。そして,そもそも,人が人に対してウソをついちゃいけない。まして視聴者というか国民に圧倒的な影響力をもつテレビで,ウソをつくようなことがあったらどれほどの深刻な被害が出るか。そんなことは誰だってわかるでしょ。


誰だってわかるようなそんな行為に,番組編成のプロであるテレビ局員がなんで及んでしまったんだろう。納豆についての企画段階で予定したほどの効果が出ずにプレッシャーがかかったのかもしれないし,そもそも恒常的に安易な番組作成を行う空気にあったところ,たまたま納豆の回の不祥事が明らかになっただけなのかもしれない。


こんな感じに,いろいろ憶測が浮かぶけど,まぁ原因の解明は再発防止を期するべきテレビ局に任せて,これ以上は立ち入らないとして・・・


ただテレビ局にはこれだけは言いたい。自分も含めて,視聴者ははっきり言ってバカだ。テレビ局の言うことなすことは,とくにニュース番組・情報番組であればあるほど,無条件で正しいと思っちゃうよ。それだけに,本当のことならともかく,ウソを言ったら,取り返しがつかなくなることもありうる。だから,情報を伝えるほうとしては,何はともあれウソだけはついてほしくない。


一部で,視聴者はもっと情報に懐疑的たるべきだという意見もある。全く正しい。僕自身,たぶん納豆の回を見ていたら単純に「納豆はやせるんだーー!!」って思い込んでたと思うから,その意見は一般論としてはまっすぐ受け入れたい。


だけど情報への疑いを求めたって限界はあるんだよね。しかも,その限界は驚くほど早くたどり着く。そもそも,情報に懐疑的になるべきといっても,具体的にどうすりゃいいのかわからないもん。それに,国民って,自分に関係のないことor関係はあったけど申告な影響がないことを見聞き体験しても,ものの数分で忘れて,たまに思い出しても数日もすればさっぱり忘れちゃうんだから。これはごく自然なこと。言い換えれば,視聴者はバカなのが自然。


だから,僕はむしろ,テレビ局に自覚を促したい。テレビ局には,ほぼ唯一の情報の送り手として,もっと情報に対して敬意を持ってほしいし,情報を送る立場にあることに誇りと責任を感じてほしい。加えて,視聴者がバカな常況にあることを意識してほしい。そうして,ゆめ誤った情報を,しかも故意に流すようなことはしてほしくないと思う。


ところで,前身の「Ⅰ」は1996年から放映開始とのことで,ふりかえれば僕が小学生のころから続いていた長寿番組。だけど今回の件でおそらく番組の打ち切りは免れないだろう。昔からちょくちょく見ていた番組が,このような形で窮地に立たされるのを見るのは正直物悲しいなぁ,とふと思ってしまう。

なんとなくブログを改める気分になってしまって,試験前というのにブログを新設!


* * * * *


「どんなことが起こるんだろう?」

想像してみるんだよ

(くるみ/Mr.Children)



試験明けには,今までとは打って変わった,新しい日々が待っている。

このブログと同じように,くらしでも,始めの一歩を,踏み出さなきゃいけない。

不安? 新しい一歩を踏み出すときには,大きな不安を感じるのは当然ちゃ当然だよね。

もちろん,もうすぐ受けなきゃいけない試験も不安だけど,今までとは違って,新しい日々のほうがよっぽど不安,てのが正直なところかな。


だけど,変化を楽しめる余裕があるのは,若者の特権。

不安のなかに,わくわくした気分が含まれているのも,また認めなきゃいけない。


いつの日か,今,抱いている不安も,些細でかわいい思い出のひとつになっているんだろう。


不安と戦いながらも,心なしか楽しく思えるような毎日が来ますように。