モーリタニア・セネガル・ガンビア11日間③

     <セネガル世界遺産・ゴレ島>

6日目2/3時計7:00ナイフとフォーク朝食は

クロワッサンとカフェオレでコーヒー

今日は旦那が体調を崩し一人で参加

バスホテルを出てバスでセネガルの

首都ダカールの市内観光

 

 

中央駅・・バスバスを降りて駅を見学

かつてはバマコとセネガルのダカールを結んだ

ダカール・ニジェール鉄道のターミナル

として栄えていたバマコ中央駅。

全長約1300kmある

ダカール・ニジェール鉄道

は2014年に運航停止となった。

理由はマリやセネガル政府の財政的な

問題でインフラの整備ができなかった事や

治安の悪化などがあげられる。

↓駅構内はおしゃれ

新幹線前駅の中に入り2階に上がると

アフリカらしくカラフル

セネガルの首都ダカールは

人口200万人の西アフリカの玄関口

おもちゃの汽車も・・新幹線後ろ

駅の近くにフェリー乗り場が

あるので移動 

船の待合室は満席

時計9:30フェリーに乗り込みます。

ゴレ島まで20分

席は自由席 早く行かないと座れない

↓ダカールの沖合約3kmに浮かぶ

ゴレ島が見えてきました。東西300m、

南北900mの小さな島、1444年に

ポルトガル人に発見され、

ヨーロッパ列強国の間で主権争いが

行われ、最終的にフランス領となる。

1848年までの奴隷貿易が禁止される迄

新大陸への積み出し港として発展する。

15世紀から19世紀まで「三角貿易」と呼ばれる奴隷貿易の

拠点となった島。 三角貿易は、製品(武器など)・

素材(蜜蝋、ゴムなど)・

奴隷(労働力)を交換し合う諸国の取引

約1500万人の人々がゴレ島を経由して

世界各地へ売られていった。でも奴隷を

売ったのは同じ黒人であり、武器や富を

稼ぐ為でもあり、それをいい事に

ここではフランス人が労働力を

黒人から買った。

エストレ要塞 17世紀後半に活躍した

フランス海軍司令官 ジャン・

デストレー二世 の名にちなんでいる。

今は歴史的博物館になっている。

↓ゴレ島に着きフェリーを降り

ゴレ島の見学

外国人観光客でいっぱいでした。

↓ゴレ島に降り立った観光客

 

 

 

島内を見学

 

 

 

中は歴史の説明

奴隷の家の絵

奴隷の家 今は博物館になっている

1777年にオランダ人によって

建てられた中庭をもつ、海辺沿いの家。 

「奴隷の家」の建物の正面2階は

オランダ人の住居だった。

 

1階が奴隷が閉じ込められた小さな

薄暗い部屋になっている。男の部屋、

女の部屋、子供の部屋に別れている。

狭くて薄暗い部屋には絶えず150人~200人の

奴隷が閉じ込められていた。彼らは鉄の首輪と腕輪をはめられ

衛生状態も非常に悪く、ペストなどの

伝染病が流行する事もあった。ゴレ島、

この場所で家族で連れてこられてここで

離れ離れにされた親子も少なくはなく、

父親はルイジアナへ母親はブラジルへ、

そしてその子供はハイチへといった

ケースもあった。

悪な環境だった為、多くの人が

伝染病などで亡くなり、遺体はサメの餌

となっていました。外観の鮮やかさとは

裏腹に、奴隷たちが絶望のなかで船を

待っていた。

男性は60kg以下は60kgに

なるまで太らされた。

奴隷たちは脱出を試みたのだろう。

壁に刻まれた爪痕は、

「絶望」の叫びが聞えてくる様。

この廊下は並ばされた時、

故郷アフリカ、そして家族との

永遠の別れを意味していた。

↓奴隷が乗せられた船の模型

奴隷達はこの重りを足に付けられ

一日一回のお手洗い

過酷なこの奴隷の家での結末は

このドアから・・

奴隷たちは最後には海辺に通じる

この小さな扉を抜けて船へと

「積み込まれ」て行った。これがその 

「帰らざる扉」。この扉を通って船に

乗せられた奴隷たちは、二度と生きて

故郷の地を踏む事はなかった といわれる。

出口には「Door of No-Return」

(引き帰せないドア)の文字 

ここから船に乗せられ南米大陸に

送られていった。その船上でも

病気になると菌が船に蔓延するのを避け、

船から人が捨てられた。

 

奴隷の家の2階は展示物

 

奴隷の家を出て島内を移動

↓アフリカの人は原色が似合うよねえ・・

島内には沢山お店やお土産屋さん、

レストランも並び砂絵アートも見学 

↓砂絵で書かれた絵

 

びっくりする程、上手!

↓ゴレ島内にある

サン・シャルル・ボロメ教会

 

 

 

お土産屋さんも色がカラフル

↓お土産屋さん

↓旧知事邸・1864年築ですが現在は

廃墟となっています

慰霊碑・1878年の流行で命を

落とした医療関係者に捧げる…

19世紀のコレラ流行の慰霊碑

世界遺産であるゴレ島には、

外敵の侵攻や奴隷の逃亡を

防ぐため、南北の岬に城塞が

築かれました。その北側の

エストレ要塞を転用したものが、

歴史博物館です。エストレ要塞は

17世紀初めごろにオランダ人に

よって建設が開始され、19世紀に

入って仏のナポレオン3世の

時代に完成しました。

エストレ要塞・今は歴史博物館

エストレ要塞はゴレ島が

世界遺産となるまでは刑務所

として使われていた。

↓要塞らしく大砲のレプリカが

据えられています。

 

ゴレ島は当時の新大陸であった

ヨーロッパの西の浮かぶアメリカ大陸

へ奴隷を送る拠点となった。 新大陸に

アフリカの人々を送り、そこで作物の

栽培などを行わせていた。 今では

機械によって行われる農作業だけど、

当時は人的労働力が全て。 人々は

非常に過酷な労働を強制され

逃げ出す人もいた。

内部には世界遺産ゴレ島の起源から

セネガル独立までに関する展示が

されていて痛ましい奴隷貿易の資料も。

奴隷の家で収容しきれなくなった時に、

奴隷を一時的に押込めていた場所も

残っています。奴隷貿易廃止後は

刑務所として使われたり、

フランス総督府の家ともなりました。

ダカールの海辺の風景が一望できる

スポットでもあります。

 

 

外に出ると船着き場で泳いでる人

もいました。暑い35°

時計12:30 ランチは島内海が見える

レストランでナイフとフォークジュースサラダと

魚介類のスープとお肉 

帰りも満席の船で帰ります。

ゴレ島を横に見ながら・・

 

時計14:25分 船付き場に着く

ゴレ島からセネガルのダカールに戻る。

大西洋を渡ったアフリカ原住民の

数は1000万人とも2000万人とも

言われている。以前廻った

ギニア湾沿いは“奴隷海岸”と呼ばれ、

ガーナの ケープコースと城や

ベナンの 帰らざる門 など、

いくつもの史跡や記念碑が

残されていました。